ふたつの門 真実の鍵by Jirel様
――異形、というほどのものではなかった。 光と闇が反転した、真っ黒な銀河のほうが遥かに異様だった。そこから吐き出されるのは確かに地上の生物ではありえなかったのだが、さして恐ろしくは感じられなかった。 翼の生えた、鹿。 もう少し詳細に言えば、頭部と二本の足が鹿のもので、胴体を青い羽毛に覆われた鳥。 それも人間一人くらいの大きさでしかない。 冥府の最も暗い地獄の深淵、タルタロスから逃げ出した魔物だと聞かされていなければ、そして彼らが数々の戦いを経た歴戦の闘士でなければ、その優美でさえある動物の姿に惑わされ、敵の力量を見誤ったかもしれない。 女神アテナの名の下、邪悪を討ち地上を守護する使命を帯びた黄金聖闘士、獅子座レオのアイオリアと蠍座スコーピオンのミロは、タイナロン岬の上空に出現した反転銀河と、そこから空中を駆けてくる獣の群れを見つめた。 「教皇は『数匹』と言ったんだろう、ミロ?」 「ああ……だがその前に『最初の』が抜けていたんだろうな」 上空を駆け回る翼ある鹿の群れ。どう見ても5〜60頭はいる。 「断るつもりだったが、お前を連れてきて正解だったな、アイオリア」 ミロは言うと、鋭く輝く碧い瞳を群れの先頭に据え、地を蹴って跳んだ。 いましも地上に舞い降りようとしたその一頭を標的と定め、小宇宙を集中する。 ミロの人差し指の爪が少し長く伸び、真っ赤に輝く。 「スカーレットニードル」 その技の名を静かに呟いた時には、一頭目のペリュトン――それが魔物の名だ――が、全身を15発の光針で貫かれ、地に撃ち落とされていた。 「ライトニングプラズマ!」 真紅の閃光を追って、空間を縦横無尽に切り裂く黄金の光の軌跡。 その射程に捉えられた十数頭のペリュトンが、五体を砕かれて地面に叩きつけられる。 群れの先頭集団を倒され、敵の存在を認知した有翼の鹿は、一斉に風切りの羽音を響かせ、地上めがけて襲いかかった。 「……くそっ、きりがない!」 何百、何千の数を屠ったのか。 ライトニングプラズマの光は衰えてはいないが、その光で幾度退けても、次から次へと魔物の群れは飛来し、攻撃をかいくぐって至近に迫る。 レオの光速拳を逃れても、次にはスコーピオンの毒針が待ち構えており、ペリュトンどもはその蹄や角を掠らせることさえできずに、聖域の誇る二人の黄金聖闘士の周囲に屍を積み重ねるだけだったが、次第にその輪は縮められてきていた。 「なにが『数匹』だ! 冥界の奴らめ、わざと誤った情報を与えたんじゃないのか?」 「疑いたくもなってくるな。こいつらを始末し終えたら、俺とお前で冥界に乗り込むか」 そう交わす間にも、黄金と真紅の光条の無数の閃きはやまない。 「人間か三界の闘士相手なら、引き際をわきまえてくれるんだがな」 アイオリアの拳が黄金の稲妻となって空を裂く。 「人語を解さぬ魔物に、降伏を迫る訳にもいかんな」 ミロのスカーレットニードルが、真紅の輝きの尾を引いて宙を貫く。 もう何時間こうして戦っているのかもわからない。二人とも負傷こそしていないが、これほど精神的に消耗を強いられる状況は初めてだった。 「どうした、アイオリア? ライトニングプラズマの速度が落ち始めているぞ」 「お前こそ、スカーレットニードルの狙いが甘いな」 じりじりと二人を囲む包囲網が狭まる。これを突破して敵陣へ切り込めと言われるのならば容易いが、どれほどとも知れない多数の魔物を一匹残らず片付けるのは、二人だけでは手に余った。 集中力が途切れれば、小宇宙も弱まり、隙も生まれる。 二人は危険を察して攻撃の手を止め、背中合わせになると小宇宙の防御壁を展開した。攻撃型のミロもアイオリアも、ムウやシャカのように完璧な防御技は持たないが、少しの時間稼ぎにはなる。 「……ミロ」 「なんだ?」 「これを一人で充分と言った、自分の馬鹿さ加減が少しはわかったか?」 「首を突っ込んだお前も馬鹿だ」 背後のミロがかすかに笑った気配を感じ、アイオリアも頷き返し、頭上を見上げた。 獲物を狙う猛禽のように旋回する、新たな群れが空間の裂け目から現れる。やはり鹿と鳥を合わせた姿をしているのだが、それが落とす影は人間の形であるのが不気味だった。 「これはシャカ向きの相手だったかもしれないな」 「それより、空間がおかしくなってるなら、サガも連れてくるべきだった。確かに俺も馬鹿だ」 「あいつらの手を借りるのは口惜しいが、俺たちでは次元や空間に干渉できんからな」 ミロは、地上に降りて彼らを取り囲むペリュトンの群れから目を離さずに言った。純化された攻撃欲と殺意の渦を自らのそれで跳ね返す。人間相手の気力勝負では負けはしないが、相手が人外の場合はどこまで通じるかわからない。 ばさり、と上空から羽音が響く。 「上はまかせる!」 「わかった!」 二人は同時に小宇宙を高め、再度の攻撃に転じた。 「ライトニングプラズマ!」 「スカーレットニードル!」 アイオリアが頭上から襲いかかる一群を打ち落とし、ミロが地上の包囲を薙ぎ払う。が、前方の群れを盾にした後続の数百頭が攻撃を乗り越えて二人に躍りかかった。 同時に上空から、一際黒い翼ある影が舞い降りる――と。 その影から硬質の光の箭が放たれ、ミロとアイオリアの間近に迫ったペリュトン共をまとめて串刺しにした。 「……お前は!」 二人の前に新たに降り立ったのは、磨き上げた黒曜石のように輝く、黒く猛々しい冥衣を纏った冥界三巨頭の一人、天猛星ワイバーンのラダマンティスだった。 「ラダマンティス!」 「覚えのある小宇宙だと思えばお前たちか。今回はアリエスはおらんのだな」 聖戦時に地上のハーデス城で対戦した三人のうち二人であるのを知って、ラダマンティスは少しばかり懐かしい思いにとらわれて言った。だがむろん、久闊を叙する場合ではない。 「間もなく空間の裂け目は閉じる。これだけの数を相手によく支えてくれた。礼を言うぞ」 「これだけ多数だと知っていれば、アリエスのムウも連れてきたがな」 「あとできっちり説明してもらおうか」 「むろんだ。だがもう少しだけ協力してくれ」 アイオリアとミロの言葉にラダマンティスが頷き、今度は三人が小宇宙を高め、包囲の輪の中心から同時に三方向へ技を放った。 「ライトニングプラズマ!」 「スカーレットニードル!」 「グレイテストコーション!」 甲高い悲鳴を上げて、有翼の鹿たちが吹き飛ぶ。 技の威力を逃れたペリュトンは翼をはためかせ、閉じつつある上空の空間の亀裂から舞い降りてきた最後の一群と合流し、ひらりと向きを変えると三人を目掛けて降下しようとした。 アイオリアが地を踏みしめて拳を固める。ミロが一際強く真紅の光を爪先に灯らせる。ラダマンティスが冥衣の翼を広げる――が、その瞬間。 「ギャラクシアンエクスプロージョン!!」 鋭い叫びとともに、彼らの頭上に、まさしく星々までをも砕く光が炸裂し、残った魔物のすべてを飲み込み、圧倒的な力で押しつぶし、粉砕した。 とっさに光の奔流から眼を庇った三人が腕を下ろしたとき、海を背にして現れた長身の男が、歩み寄るついでに、足元で弱々しく鳴き声を上げたペリュトンの頭を、情け容赦なくぐしゃりと踏み潰したところだった。 その身を覆うのは、オレンジ色を帯びた金に煌めく海龍の鱗衣。 「カノン……!」 「遅くなってすまなかったな、ミロ、アイオリア」 行動にふさわしくなく、だが芸術品のように整った美貌にはふさわしく、カノンは双子の兄サガに勝るとも劣らぬ優しげな微笑を二人に向けたが、それも一瞬だった。 視線の向きを変えて手を伸ばすや、ぐいとラダマンティスの冥衣の上から喉首をつかむ。 「ラ・ダ・マ・ン・ティ・ス」 音節をはっきり区切り、地鳴りのように低い声で相手の名を呼ぶ。 「いったいこれはどういうことだ? 正確な情報も渡さずに、女神の聖闘士を危険に晒すとは、冥界は三界同盟を堅守するつもりがないということか?」 「ま、待てカノン、誤解だ……!」 「問答無用と言いたいところだが、そちらにはそちらの言い分もあるだろう。申し開きは聖域の教皇の前でするのだな。だが返答によっては、聖域のみならず海界も黙っておらんぞ」 ラダマンティスを弁護するべきか、とミロもアイオリアも思ったが、二人はこれまでの戦いで気力を限界近くまで使い果たしており、どうやら本気で怒っているらしいカノンに対抗する意欲がなかった。 「……どうする、ミロ?」 だが一応、アイオリアはそう尋ねてみた。 「放っておこう」 ミロの返答は簡潔を極めた。くるりと踵を返し、後ろ向きで肩越しに手だけ振る。 「先に戻るぞ、カノン」 「ご苦労」 カノンもミロの方を見ようともせず答え、アイオリアは肩をすくめると、ミロの後を追った。 カノンの反則じみた強さを身をもって思い知っているのは、三界のうちでもまずラダマンティスである。彼を怒らせるとろくなことにはならない。 だがカノンには聖戦で直接拳を交わし、互いに守るべきもののために全力で戦った好敵手としての畏敬の念を持ってはいたが、あとの聖闘士のことは当然ながら詳しく知りはしなかった。 ましてやミロ、アイオリア、ムウの三人に限っては、10分の1の力しか見ていないのである。 「情報伝達がなっていなかったことは謝る。しかしまさか」 「まさか何だ?」 「聖域が派遣してきたのが、レオとスコーピオンだったとは……」 言い終える前に、ラダマンティスは顔面にカノンの正拳突きを叩き込まれた。 「いい度胸だラダマンティス。アイオリアとミロに文句があるなら俺が代わって相手になるぞ」 「そういうことは殴る前に言わんか!」 「やかましいわこのカモメ眉毛!! 自分の担当領域の次元の管理もまともにできぬ上に、黄金聖闘士を侮るとは見損なったぞ!」 「お前こそ今は海将軍筆頭だろう! 聖域と冥界の話になぜ口を挟むのだ!?」 「愚か者が! ここはタイナロン『岬』、即ち海界との接点でもあるのだ。さらに言うなら地中海一帯は北大西洋の管轄。俺が出ずに誰が出る!?」 「だったら最初からお前が来るがいいのだ! そもそも聖域も攻撃一辺倒の未熟者を寄越すことが間違っている! レオはまだしもスコーピオンは役者不足だわ! あれの技は完全に対人限定だろう!?」 知らぬこととはいえ、冥界の翼竜が海龍――というより双子座の黄金聖闘士としてのカノンの逆鱗を、触れるどころか思いっきり逆撫でた瞬間であった。 「……ふ………ふふふ……ふふふふふ……」 カノンが低く笑う。この場に魚介コンビとシュラとがいれば、間違いなく震え上がったであろう。髪の色が変化しそうな不吉な笑い声だった。 「よく言った……アイオリアばかりか、ミロを愚弄するとは、このカノンをも嘲るも同然」 「ま、待てカノン! いったいそれはどういう……」 「死ねぃラダマンティスーーーーー!!!!!!!!!」 全力のギャラクシアンエクスプロージョンと、迎撃のグレイテストコーションが激突する衝撃が大地を揺るがせた。 既に影響圏外に離れていたアイオリアが足を止め、振り返って派手な爆発光を見遣って呟く。 「なんだか、カノンとラダマンティスが戦ってるみたいなんだが」 ミロも足を止めて、ちらりとそちらへ視線を向けたが、すぐに平然と答えた。 「たぶん、俺とお前の喧嘩みたいなものだろう。久しぶりに会えて楽しんでるところを邪魔するな」 「そうか」 ミロの説得力溢れる言葉に、アイオリアは素直に頷いた。 二人に一歩遅れて、カノンがラダマンティスを叩きのめした状態で引き摺って聖域に現れたのを見て、十二宮の入口の白羊宮を守護するムウが嫌な顔をしたのは言うまでもない。 聖域に引き摺ってこられたラダマンティスの釈明によると、事態はこうであった。 そもそも、タルタロスというのは冥王ハーデスの支配下にある地獄の最下層の更に深淵であり、エリシオン同様、たとえ冥闘士といえども立ち入ることの不可能な場所である。 だが聖戦によって冥界そのものが一度消滅寸前のダメージを受けたため、つまりはタルタロスの「蓋がずれた」状態になり、相当数の亡者がそこに転げ落ちた。おかげでただの死霊だったものが怪物ペリュトンに化身したのだが、タルタロスにはもっと厄介な神話時代の怪物や邪神たちもが封じられており、冥界としてはまず、タナトスとヒュプノスの双児神も動員して、全力でタルタロスと冥界の穴を塞がなければならなかったのである。 冥界三巨頭ももちろん類に洩れず、そちらにかかりきりになっているうちに、ペリュトンの最初の「数匹」がタイナロン岬の接点を通じて地上に逃げ出した。聖域に第一報が入ったのはこの時である。事実、その時は地上との次元の裂け目がこれほど巨大であったとは誰も把握してはおらず、タルタロスの壁の修復が第一でそちらに構っていられなかった。 だがなんとかタルタロスを封じる目処がつき、そう言えば地上に逃げた魔物はどうなったと思い出したラダマンティスが雑兵に命じて調べさせると、タルタロスの蓋がずれた状態が地上近くの上層部にも影響を及ぼし、岬の接点が崩壊して次元の裂け目が拡がり、この間に数万もの数が地上に逃げたと言うのだった。 そこでラダマンティスは慌てて地上に急行、部下たちに命じてタイナロン岬の亀裂を閉じるとともに、地上で戦っていた黄金聖闘士に加勢した、というわけである。 「こういう事情ですので、教皇シオン。我々がわざと情報を流さず、聖域の聖闘士を危険な任務に利用したなどとはお疑いになりませぬよう」 「相分かった。ワイバーンのラダマンティスよ、面をあげよ」 彼の釈明と事情を聞いたシオンは、穏やかに告げた。 「我々に齎された情報が不足していたとはいえ、地上の危険を速やかに排除せよと知らせてくれたことは、間違いなく冥界側の誠意であろう。幸い、聖域が派遣した二人の黄金聖闘士も無事であった。また、冥界をそのように不安定な状態に陥らせたのも、我ら聖域である」 「恐れ入ります」 最低限の答え方をしたラダマンティスから、隣で膝まづくカノンに、シオンは視線を移動させた。 「カノンよ、海界より地上の危険を察して駆けつけてくれたこと、礼を言うぞ」 「タイナロン岬は海界にも次元を接しております。その重要な地に目が届かなかったことは我々海闘士の落ち度でもあるかと。今後は海界もタイナロン岬を注視いたしますことをお約束します」 シオンは頷いて、再びラダマンティスに視線を戻した。 「遠路はるばる御足労であった、ワイバーン。この聖域において夜を過ごすと言うならば、迎賓室において賓客としてもてなすが」 「いえ、こうしている間にも冥界の者たちは働いておりますゆえ、すぐに戻りたく存じます。お言葉のみ、ありがたく頂戴いたします」 礼儀を保ってラダマンティスは言ったが、実は聖域の迎賓室というのは、教皇宮に隣接した棟にあり、その管理者はアフロディーテなのである。 上にシオン、下にアフロディーテ。もっと下へ下がってもカミュ、シュラ。ずばり聖戦時の黄泉帰り組がずらりと並んでいる十二宮の上の方は、ラダマンティスにとって、非常に居心地が悪い。 さっさと帰るにこしたことはなかった。 「ならば気を付けて戻られるが良い。我々聖域の力が必要であるときは、いつでも申し出られよ。ミロもアイオロスもご苦労であった。下がってよいぞ」 シオンはそう言うと玉座から立ち上がり、優雅な足取りで奥のカーテンの向こうへ消えた。 それを見送って膝まづいていた一同は立ち上がり、カノンはラダマンティスの肩に手を置いた。 「十二宮の入口まで送っていこう」 「いや、一人でだいじょ……」 「一人で十二宮の内部は動けんぞ?」 カノン、目が笑っていない。 「カノンとラダマンティスは親しいんだな」 などと後ろからくっついてきて、能天気に明るい声をかけるのは、もちろんミロである。 「し、親しい?」 「勇者は勇者の心を識る、というやつか。聞いたぞ。聖戦ではお前が最後まで冥界のために力を尽くし、カノンと激戦を繰り広げたと」 だだっ広い十二宮の石段である。すいとラダマンティスの横に並んで、蠍座の黄金聖闘士は、にっこりと満面の笑みを向けてきた。 戦闘中の強気な表情から一転、そうなるとひどく無邪気で、実年齢より幾分か幼く見える。 「できうることなら、俺も結界などに邪魔されず、お前と心ゆくまで戦ってみたかったな」 意外なほど気さくな振る舞いに、ラダマンティスはややぽかんとしてしまった。 天蠍宮でミロと、獅子宮でアイオリアと別れてから、ラダマンティスはカノンに問いかけてみる。 「あの男は、どういう人間なんだ?」 「ミロのことか?」 「ああ。まるで何事もなかったかのように俺に笑いかけてくるとは思わずに、少しばかり面食らったぞ」 「あれはそういう人間だ。自分自身で信じるに足る者だと認めた相手には心を開く。それがたとえ昨日までの敵であってもな。一見、単純なようだが奥深い」 カノンは少し得意げに見えたが、続く言葉で、ラダマンティスは納得した。 「聖戦開戦時に、俺を双子座の黄金聖闘士と認めてくれたのは、女神を除けばミロが最初だ。あいつがいなければ、俺は後ろめたさや慚愧の念に囚われたままで、双子座の聖衣を纏って戦いに赴くことなどできなかっただろう。いわば、ミロのおかげで、俺は真の自分に生まれ変われたようなものだ」 「恩人――ということなのだな」 ならばカノンが、ミロを侮ることは自分を侮るも同然だ、と怒りを露わにしたのもわかる。 「無礼な事を言ってしまった。すまなかった、カノン」 「いや、俺も少々やりすぎた。売り言葉に買い言葉とは大人気なかったな」 頭を下げるラダマンティスに、カノンはようやく含みなく微笑んでみせた。 「あ〜、疲れる任務だった……」 「勝手についてきたのはお前だろうと言いたいところだが」 アイオリアとミロは獅子宮で酒を酌み交わしていた。ミロが一応、礼として手持ちのワインボトルを数本下げて獅子宮にやってきたのである。産地はボルドー。大元の出処はカミュであろう。 しかし二人とも非常に行儀悪く、床にごろごろ寝転がりながらであるのだから、カミュが見たら若干眉を顰めるかもしれない。 「確かに今回は、俺一人だとまずかった。助かったぞ」 「珍しく謙虚だな。いつもそうならこっちも助けがいがあるんだが」 向かい合って、にかっと白い歯を見せて笑うアイオリアの額を、ミロがぴしっと爪で弾いた。 「……っ! お前それはやめろ……スカーレットニードルでなくても痛いから……」 「頭に乗るなバカ猫。最終的に俺たち二人とも、ラダマンティスとカノンに助けられただろうが」 ミロとしては、二人が出てくるまで方を付けられなかったことが、少しばかり悔しいのである。 「ラダマンティスはともかく、カノンの手まで煩わせたのが忌々しい」 「なんでそう無駄な意地を張るかなお前は」 アイオリアは溜息をついた。 「こんな外敵の討伐任務なんかを一人で受けようとするのもそうだが、カミュやカノンをわざと心配させようとしているんじゃあるまいな?」 「わざと? まさか」 「じゃあなんでだ? 危険を伴う任務だというのはわかっていたはずだろう?」 アイオリアが問うのに、ミロは、質問の意味そのものがわからないとでも言うように、ぱたりと瞬きして相手を見つめた。 「教皇もおっしゃっていたが、普通の人間の手に負えない危険を排除するのが、俺たち聖闘士の役目だろう」 「俺が言いたいのは、それをなんで一人でやりたがるのかってことだ。もともと独断で突っ走る傾向はあったが、聖戦後は一層それが目立つようになったな。危険を度外視するのは勇敢じゃなくて、無謀なだけだぞ」 そう指摘すると、ミロはまたゆっくりと大きく瞬いて、アイオリアの顔に視線を注いだ。 アイオリアにとっては、ミロは仲間うちでも最も近しい間柄である。あまり近くに居すぎて、じっくり相手の顔を見ることもなかったくらいで、こうして間近で見てみると、びっくりするほど睫毛が長くて、本当にぱたりと音を立てるような瞬きをするので、思わず体全体を後ろに引き、距離を取り直した。 「……何してる?」 「いやちょっと……なんというかこう……」 海の色をした紺碧の瞳に引きずり込まれそうで怯んだ、などとは、とても言えない。 「あ、そうか」 頬杖をついてアイオリアの顔に瞳を据えたまま、ミロは唇の端を一方だけ吊り上げた。 「安心しろ。その気のない奴を無理やり押し倒す趣味はない」 「ぶっっ!!」 アイオリアはワインを噴き出した。 「もっとも、その気だというなら、他ならぬお前だ。一度くらい応じてやってもいいぞ」 「タチの悪い冗談はよせっっっ!!!」 全力で声を叩きつけ、しれっとしたミロの顔を睨みつける。 「カノンというものがありながら、俺に変なちょっかいを出すな! 恋人に対して不実だとは思わんのか!?」 「ほう? 俺とカノンの関係を、ずいぶんあっさり認めたものだな」 「しかたないだろう! 言っておくが、俺はそこまででいっぱいいっぱいだ。これ以上の譲歩は1ミリたりともないぞ!」 「……惜しいことをした。カノンの前にお前を口説き落としておくべきだったか」 「いや俺は惜しくもなんともないっ!!」 思い切り真顔で言われるものだから、冗談に聞こえない。 だがそれで、先の話題をはぐらかされたということには、アイオリアは気づいていなかった。 「だから魔鈴とさっさとくっついてしまえばいいのに」 くすくすと笑って、ミロは言った。 「お前がそんなに煮え切らない態度でいて、誰かに横から奪われても知らんぞ」 「ほっとけ!」 「ああ、きっとあの仮面の下の素顔は美しいだろうな。そう思わないか?」 「お前には無関係だろうが!」 「女神と教皇を説得する自信がないなら、俺が口添えしてやるが」 「断る! 余計な口を出すな!!」 「敢えて秘めた恋路というのも、スリルがあっていいがな」 「どの口が言う!!」 顔を真っ赤にしたアイオリアが、クッションを投げつけた。ぼふっと音を立ててミロの顔に命中し、落下したそれを掴んだミロがすかさず投げ返す。 またたく間に掴み合いになるその様子を、ちょうど戻ってきたカノンは戸口にもたれて眺めていたが、ややあって、苦笑しながら呟いた。 「……楽しそうだな、お前たち」 身長は完全に同じ、体重はわずかに1kg違い、生年月日は三ヶ月差という完璧に互角の両名は、見事な千日戦争ポジションで組み合いつつ、綺麗なユニゾンで振り返った。 「カノン!」 「アフロディーテも言っていたが、確かに、短毛種と長毛種の猫同士がじゃれているみたいだな」 「短毛種?」 長い金色の巻き毛の、くっきりした碧い目の方が、またもぱちりと瞬いて相手を見つめ。 「長毛種……」 金褐色の癖毛を短く切っている方は、大きな緑色の目を一層丸くして、やはり相手を見た。 そして同時に盛大に笑い出した。 「やっぱり猫かお前ー!」 「アフロディーテ、うまいことをー!」 つまりこの猫たちは、ほどよく酔っ払っているらしい。 長毛種のほうの首根っこを掴んでぶら下げて持って帰ろう(ただし天蠍宮に)と思っていたカノンだったが、ついからかってみたくなり、ミロの方のグラスを奪い取ってどっかりその場に座り込み、アイオリアに笑いかけた。 「で、魔鈴がどうしたって?」 問いかけるとまたまた耳まで真っ赤になる。 「どうもしとらん!」 「なんだ、全然進展がないのか?」 「あってたまるか!」 「それはどうでもいいがアイオリア、もうひとつグラスが欲しいんだが」 「どうでもいいなら訊くな! それより当たり前に腰を落ち着けるな!!」 「俺はこれでいい」 ミロが本物の猫のようにするりとカノンに身を寄せ、唇を触れ合わせるのではなく、ちょんと舌先でカノンの唇をつついた。 律儀に立ち上がりかけたアイオリアの頭の中で、爆発音が轟く。 「お前らいちゃつくなら天蠍宮へ帰れーーーーー!!!!!!!!!」 獅子座のアイオリア、誰の教えもなく教皇シオン必殺のちゃぶ台返しを会得。 カノンは今度こそミロを小脇に抱えて光速で逃走した。 一歩遅れて、カノンに手を引かれて、ミロは十二宮の石段を登る。 目の前に、自分よりも長く、自分よりも癖の少ない、自分よりも色の淡い金髪が揺れる。 夜風にふわりとなびいて、中天にかかろうとするの月の光を透かして淡くきらめくそれを、ひどく綺麗だと思った。 が、それは必然的に、幼い頃に見た、別の、だがそっくりの後ろ姿に重なってしまった。 アイオリアも、どんどんアイオロスに似てきている。それが酷くミロの胸をざわめかせた。 誰かの後ろ姿を追うのは、嫌いだ。 「カノン」 そう思うと同時に声が出て、カノンを呼び止める。 「ん?」 「俺が先に行く」 立ち止まった隙にカノンを追い抜き、今度はミロが一歩先に立った。 「どうした、ミロ?」 少しだけミロの様子が変わったことに気づいたのだろう。カノンは静かに問いかけた。 「誰かの背中を見ているのは、あまり好きじゃない」 ミロはそう答えると、わずかに歩調を速めた。 代わってカノンがミロの背中を見る。 ミロの足取りはやはり猫のようで、自分の体重を感じないかのように軽い。リズミカルな動きにつれて、背の中ほどまでのブロンドの巻き毛がふわふわと踊る。 だが、やはり太陽の下で見るほうが、この髪はもっと豪奢に輝くとカノンは思った。 「前に障害物が無いほうがいいか?」 真っ直ぐに前だけを見つめる瞳を愛しく思いながら、カノンが尋ねると、こくりとミロは頷いた。 「お前らしいな。だが障害物なら蹴倒して通ればいいだろう」 「障害物ならそうする」 不意にミロの声が小さくなる。 「だが、誰かの背中が目の前から消えるのは、もう嫌だな」 「……ミロ?」 天蠍宮の入口手前で、ミロは足を止めると、ゆっくりとカノンを振り返った。 「アイオリアに訊かれた。なぜ危険な任務に一人で行きたがるんだと」 表情は平静だったが、月明かりを斜めに受ける海の色の瞳に、感情の波が揺れている。 「わざとお前に心配をかけるつもりなのか、とも訊かれたな……もしそんなふうに感じたのだとしたら謝る」 「心配、か。まあ、心配していなかったら、わざわざ海界からすっ飛んでは来なかったな」 カノンは笑ってみせた。 「だが、お前がわざとやっているんじゃないことくらいは知っているさ。お前の気性の激しさは折り込み済みだ。少しくらいリスクがあったほうが人生が面白いのは、俺にもわかる」 「ああ、そのほうが楽しい。だけどそれだけじゃないのかもしれない」 「じゃあ、なんだ?」 つないだままの手を、ミロはぎゅっと握り締めた。痛いほどの力で。 「先頭にいれば、ほかの誰かが俺より先に倒れるのを見ないですむだろう?」 カノンは目を見張った。だが自分の視線を受け止めるミロの顔はあくまでも静かで、ただ、瞳に映る波立ちと、手の力だけが心の内を伝えてくる。 「一人で行けばもっといい。誰かが倒れるのも見ないで済むし、俺が倒れても、誰にも見られないで済むから」 「ミロ……」 「さっき、カノンの背中を見ていて、月の光に透ける髪が綺麗だと思って……なんだか、そのまま消えてしまいそうで、不安になった」 「酔ってるのか、ミロ?」 先程のアイオリアのところでだいぶ飲んだらしいことは察していたので、カノンは尋ねてみたが、ミロは首を振って否定の意を示した。 「どれだけ呑んでも酔えないんだ、俺は」 「酔えない?」 「耐毒体質のせいだろう。自分の毒やアフロディーテの魔宮薔薇も効果がないんだ。アルコールなんか効きやしない」 「それはちょっときついな。うっかり失言しても、酒の勢いってことにできないじゃないか」 冗談めかしてカノンは言ったが、ミロは小さく頷いた。 「自分の気持ちも、酒のせいにできない。今『酔ってる』と答えられたら、流してしまえる話なのにな」 つまり、いつにない弱音のようなこの言葉も、嘘偽りない本音ということだった。 「だから、聞いたお前が忘れてくれ」 ミロは瞳を伏せて、手の力を緩めた。 その手が離れ切る前に、今度はカノンが力を込めて引き戻す。少し強く引きすぎてバランスを崩したミロの体を胸で受け止めて、そのまま抱きしめた。 「カノン……?」 顔を上げようとしたミロは、カノンの大きな手に頭を押さえ込まれるように動きを止められた。 「お前は何もかもが見えすぎるし、正直すぎる。もう少し嘘をつくことを覚えられたらいいのにな」 カノンはミロの髪を撫でながら言った。あちこち好き勝手な方向へ跳ねる毛先が、くるりと指に巻きついては解けた。 絡みついてきそうなのに、少しもそうならずに指の間を滑る。この髪でさえも。 「お前に、嘘などつけない」 肩に顔を埋められたまま答えたミロの声は、少しだけくぐもって聞き取りにくかった。 「だから都合の悪いことは、忘れてくれと頼むしかないんだ」 なんて不器用な頼み方だろう、とカノンは思う。酔っているふりくらいすればいい。少しくらいの嘘や偽りやごまかしでも、自分自身の心の最も柔らかい脆弱な部分を守るためには必要なものもあり、そのほうがずっと簡単なのに、ミロはよりにもよって一番危険で困難な方法を選んでしまう。 「わかった。忘れてやる」 だが、相手が自分であるから、こうして弱味を曝け出すこともごく稀にあるのだろう。そう思えば、希望に応えてやるしかない。 「だから、話したいことがあるなら聞くぞ。時間はたっぷりある」 だがカノンがそう言うと、不意にミロは、とん、とカノンの肩を押しやるようにして体を離し、そして口許だけで薄く笑って、 「やめておく。お前は嘘が得意そうだからな」 と、告げた。 ――誰がこいつを単純だなどと言ったんだ。 カノンは芯から疑問に思った。確かにミロは馬鹿正直で、裏表がなく一本気には違いなく、感情表現もおおらかでストレートで、あまり誤解のしようがない。 表面だけを見れば、その評も正しい。だが太陽が水素とヘリウムというごく単純な構造の物質だけで出来ているからといっても、反応や運動はたやすく観測者の計算を外し、予測を裏切る。 あまりにも表面が明るすぎて、内面がまったく見えないのも困りものだ。 感情表現がストレートなおかげで、突然機嫌を損ねた、ということは充分にわかる。だが何が理由で機嫌を損ねたのかはまったくわからない。 「おい、ミロ」 呼びかけても返事をしようとせず、天蠍宮の居間の隅っこで壁にもたれ、顔を背けて座り込んでいる様子は、どこからどう見ても機嫌の良いものではありえない。それこそ猫並みの身体の柔軟性があるので、決して小柄ではないのに、膝を抱えているとずいぶんちんまりと部屋の角に収まるのが、妙におかしかったが。 しかし、おとなしくしてはいても、油断して手を出せば良くて威嚇、悪ければ肉を抉るくらい引っ掻いて逃げるだろう。それも、あの真紅の鋭い爪でだ。 スキンシップは大好きらしく、機嫌の良い時は自分から気軽にじゃれついてくるが、気が向かないときは指一本触れさせない。今は歴然と「寄るな触るな」というオーラを発しているのだが、そのくせカノンを追い出すでもなく、別の部屋に移動するでもなく、目をそらしていても気配を感じられる距離にいる。 カノン側としては、非常にもどかしい距離感だったが、間合いのコントロールの権限は完全にミロに握られているので、諦めるしかなかった。 暇潰しも兼ねて教皇宮の書庫から借り出してきた資料に目を通す。カノンが足繁く聖域に通うのは、こういった文献や記録に触れる目的もあった。海底神殿にはほとんど古い文献は残っていないし、あっても保存状態が悪すぎてどうにもならないものばかりである。 (タイナロン岬――と、スニオン岬、それにいくつかの島……) 海界と地上の接触点は以外に数多く、そのうちのいくつかは冥界にも同時に接触している。消滅してしまったポイントもあるだろうが、不安定になっているところは危険なので、いずれは大規模な調査を行わねばならないだろう。やはり地中海周辺と極北に集中しているが、他の海将軍たちにも手分けしてもらって――。 と、しばらく考えているうちに、部屋の隅に張られていた拒絶のバリヤーが感じられなくなっていた。 「……ミロ?」 振り返ると。 呆れたことに、それこそ猫ではあるまいに、ミロはそのまま部屋の角で丸くなって、こてっと眠り込んでいたのである。 本人も言っていた通り、超絶の耐毒体質であるミロが、今更酔いが回ったわけでもあるまい。単に黙って座っていたら眠くなってきた、だから寝た、というだけだろう。どこまでも本能と欲求に忠実な行動であった。 「なんでこんなところで寝るかな……」 だがこれも割とよくあることで、一緒にいて気付くとミロはカノンに寄りかかって、あるいは目の届く範囲内でそのへんに転がって寝ている。 眠くなった場所で適当に寝るなと思うのだが、カミュいわく「ミロが側で寝るのは安心している証拠」で「誰かの側でミロが寝るのは私かカノンだけ」なのだそうだ。 しかしシエスタならばともかく、今はしっかり夜である。 「ミロ、ほら。寝るならちゃんと寝室で寝ろ」 「……ん……」 丸くなった背中に手をかけて揺り起こそうとすると、ミロは小さく声を洩らして、ころんと寝返りをうった。が、覚醒する様子はなく、目を閉じたままで、気だるそうに手をわずかに動かして、何かを探るような動作を見せ、指先が床についたカノンの手にたどりついた。 「…カノン……?」 半分以上寝言でカノンの名を呼ぶと、寝惚け眼をうっすら開いて顔を見る。 「……カノンだ……」 「サガだと言ったらどうする?」 だがミロは聞いていず、ふんわりと幸せそうな笑みをこぼして、カノンの腕を引き寄せて抱え込むと、そのまま、またすうっと眠りに引き込まれた。 この分だと寝て起きれば機嫌も直っていそうだが、無理に起こすとひと悶着ありそうだ。 というか、片腕を抱え込まれてしまったので、動きようがなくなってしまった。 やむなく、片手または足で届く範囲のラグマットとクッションをかき寄せて、原始的な寝床の親類のようなものを作る。十二宮の床材は石であるから決して寝心地が良いものではない。しかしミロの背中には壁との間にクッションが挟まっているので、それでなんとかなるだろう。 「おやすみ、ミロ」 すやすやと寝息を立てるミロの頬に唇を触れさせ、カノンもあとのことは放り出して、目を閉じた。 ――――カノン、起きろーーーーーーーっっっ!!!!!!!!! 「……サ、サガ?」 だが、眠りに落ちたかと思うまもなく。 サガの急を告げるテレパシーの絶叫が、カノンのみならずミロをもまとめて叩き起こした。 はっと気づいたミロが、カノンの腕をしっかり抱きかかえていたと知って、慌てて身を引き離す。怒ったような表情を浮かべつつも頬に血の気を昇らせるのは、あくまでカノン視点の見ようによっては可愛いが、それをのんびり鑑賞している場合ではない。 「なんだサガ、どうした?」 ――――すぐに双児宮に来い! ラダマンティスが戻ってきている! 「な、なに? どういうことだ?」 ――――タイナロン岬の次元断層の件について、聖域ばかりでなく海界の協力が必要な事態になったそうだ。こればかりは私では判断できん。急げ! 海界の協力ってなんだ、と思いながらも、カノンは鱗衣を身に着けて急いで双児宮へ向かった。後からミロもしっかり聖衣装備でついてくる。 そもそもカノンが双児宮ではなく天蠍宮にいたこと自体も不思議に思ったラダマンティスだが、なぜか行動を共にしているミロの姿を見てさすがに怪訝な顔をした。が、最初にタイナロン岬に派遣されたミロが事が片付くまで責任をもって当たるのだろう、と解釈する。 「すまん、カノン。聖域を出ようとしたところで、ちょうど冥界から緊急の連絡があり、急遽引き返してきた」 そう告げるラダマンティスの顔の近くに、死界の蝶フェアリーが一匹、ひらひらと舞っていた。 「どうした? タイナロン岬で今度は海界側に次元がずれたか?」 「いや、地上と海界・冥界の境界は無事だが、冥界とタルタロスの境界がまだ不安定なのだ」 カノンは首を傾げた。冥界とタルタロスの境界は、完全に冥界側の領域であり、海界とはまったく関連がないと思われる。しかし。 「実は、冥界とタルタロスを隔てる青銅の壁と門は、冥界最深部にありながら、海皇ポセイドンが建造したものだとわかって」 「ポセイドンがだと!?」 唐突すぎるラダマンティスの言葉に、驚愕の声を上げたカノンだが、その直後にサガが羊皮紙の束を抱えて飛び込んできた。 「あったぞラダマンティス! これだ!」 サガは羊皮紙の束を広げ、そこに書き記されている文字列の数箇所を指し示し、ラダマンティスがそれを覗き込む――が。 「……読めん。口頭で通訳してもらえるか?」 いかに冥界三巨頭に名を連ねるとはいえ、イギリス出身のラダマンティスに古代ギリシャの一次資料を直接読めと言うのは、いくらなんでも無理だった。 「ああそうか。配慮が足りなかった。すまない」 サガは率直に詫びると、冷静な声で、内容を簡潔に説明する。 「聖域に残されているこの資料でも、かつて神話の時代にタルタロスを封じたのは海皇ポセイドンであると明記されている。つまり、現在、不安定化している冥界とタルタロスの境界を完全に閉じるには、海皇の神力がどうしても必要であるようだ。タルタロスの青銅の門の鍵は、海皇ポセイドンの持つ三叉の鉾がその役割をする、とここにはある」 「うむ。冥界からの情報とも一致する。ならば間違いはないだろう」 ラダマンティスは頷き、カノンを振り返った。 「聞いてのとおりだ、カノン。ポセイドンを冥界に連れてくるか、あるいは、その鉾だけでも貸してはくれんか?」 「ポセイドンを冥界に……か」 カノンは考え込んだ。無論、神であるポセイドン本体が動いてくれればそれが一番確実だが、聖戦後のポセイドンはアテナの封印がまだ効いており、半覚醒状態にある。依代であるジュリアン・ソロの肉体を通じてでなければ動けないが、ジュリアン自身はただの人間であり、冥界に赴くということは肉体の死を意味した。 海皇ポセイドンの魂だけを冥界に送ることは不可能ではないが、それにはアテナの封印を解除しなければならない。海界はともかく、聖域が呑める条件ではないだろう。 だとすれば鍵である三叉の鉾を貸し出すのが最善の方法であるが、海界の神の武器が冥闘士の手に一時的にでも渡るのは、今度は海界側が歓迎できない。そもそも鉾に宿る海皇の神力を冥界の者が引き出せるかという点にも疑問が残る。ジュリアン以外であの三叉の鉾を使える者は――。 「わかった。俺が海皇の鉾を持って冥界に行こう」 カノンは決断した。 「海界の武器が冥闘士の手にされて、真の力が発揮できるかわからんし、海闘士でエイトセンシズに目覚めて冥界まで行けるのは俺だけだ。俺はあの鉾を引き抜いてポセイドンを叩き起こした張本人だしな」 「ありがたい! 礼を言うぞ、カノン!」 「では俺はすぐに海界に戻って、そのまま冥界へ行こう。ラダマンティス、お前は冥界に戻って先触れを出してくれ。万が一にも海界または聖域からの攻撃と誤解されてはかなわんからな」 カノンはそう言ったが、一度は安堵の表情を浮かべたラダマンティスの顔が、再び厳しくなった。 「いや、俺は聖域で待たせてもらおう。タイナロン岬の接点は不安定すぎて、そこを使えばまた地上と冥界の境が綻びかねん。ハインシュタイン城の入口を俺と共にくぐる方が安全だ」 「だがそれでは、時間がかかりすぎないか? お前の帰りを待たずにフェアリーを使って状況を報せるというのは、事態は急を要するのだろう?」 「ああ……報告によれば、ヒュプノス様がファラオとオルフェを使って、琴の音でタルタロスの門の向こう側に眠りの魔力を送り込んで持たせているらしい。だが、時間は惜しいが、タイナロン岬の接点が再崩壊しても、今度はそちらを再修復するだけの力は割けんのだ」 「ならば、地上側から私がタイナロン岬の接点を支えよう。カノン一人を送り込んで次元を閉じるくらいならばなんとか」 「だめだ、サガ。危険すぎる」 サガが申し出たが、彼の声は、ほとんど存在を忘れかけられていたミロに遮られた。 「俺が見た限りでも、タイナロン岬の亀裂はかなり大規模だった。冥界総出でやっと塞いだものを、また少しでも開けば、地上だけでなく海界も巻き込んで、一気に修復不可能なまでに崩壊してしまうかもしれない」 「お前の言うとおりだ、スコーピオン」 ラダマンティスは頷いた。 「ジェミニのサガよ、気持ちはありがたく受けとるが、もう一人の双子座でもあるカノンの協力を得られるだけで充分だ。地上と海界にこれ以上の危険を及ぼすのは、我々冥界の者も本意ではない」 「そうか、わかった。ではカノンが戻るまで、ここで待っているといい」 「急いで戻る。待っていてくれ、ラダマンティス」 そう言ってカノンが身を翻しかけたが、またしてもそれをミロが止めた。 「待ってくれ、カノン。それにサガも、ラダマンティスも」 「なんだ、ミロ?」 「ハインシュタイン城より、こちらの方がずっと、海にも聖域にも近い」 ミロは先にサガがテーブル上に広げた羊皮紙のうち、地図の記された一枚を示し、その一点に指を置いた。 他の三人が顔を寄せてそれを覗き込む。 「……マーシュ山?」 地名を呟いたのは、やはりサガであった。 「この『双子の山』が地上における最古の冥界の門だ、と書いてある」 「ああ、確かにそう記してあるが、使われなくなって久しい場所だな。通行のための条件は――なに?」 サガが地図上に記された文字を二度読み直し、三度目は声に出して言った。 「門番の役を負うのは、天の蠍の宿星を持つ者、だと?」 「つまりここなら、蠍座の黄金聖闘士の俺が行けば、確実に冥界への通路を開ける。どうだ?」 ミロは笑顔を見せて言い、残る三人は互いに顔を見合わせた。 「確かに……ここならタイナロン岬より安全かもしれん。しかし、神代にしか使われていなかった旧い通路だ。どれほど狭隘化しているかが不安だが……」 サガが少し考えて疑問を口にする。 「大丈夫だ、サガ。道を通るのはカノンだぞ」 「なぜそんなに自信あり気に断言するのだ?」 「双子座は空間技や次元技の使い手だろう。それにこのマーシュ山にしても、わざわざ『双子』の名を冠するのは意味があるはずだ。門番を務められるのが蠍座で、通行できるのは双子座だけだとは考えられないか? 冥界への通路なら、そのくらい厳重に通行者を限定していても不思議ではない」 「冴えてるな、ミロ!」 カノンはミロの言葉を聞くと破顔した。 「よし、これならラダマンティスを先に返してやれる。冥界の負担も少しは軽いだろう。サガ、この地図を借りるぞ」 「い、いいのかカノン……? 聖域の記録を信用しないわけではないが、ポセイドンのタルタロスの門なら冥界と聖域両方で確認できたが、マーシュ山の情報はこれだけだろう?」 「心配するな、ラダマンティス。ミロの直観は、これでなかなか確かだからな」 カノンに笑いかけられたラダマンティスは、ミロの方へと視線を移動させた。強い意志を湛えた、まっすぐな碧い瞳が、その視線を受け止める。 「タイナロン岬では、俺ばかりではなく獅子座のアイオリアもお前に助けられたな、ラダマンティス」 「当然のことだ。聖戦時のハーデス城の結界の借りを返したと思ってくれればいい」 「ならば地上の安定のために、もう一度貸しを作らせてもらおう。カノンはこのミロが必ずそちらへ送り届ける。お前はすぐに冥界に戻り、カノンが海皇の鉾を持って行くまでタルタロスの門を支えてくれ」 「……感謝する」 きっぱりと言ったミロにラダマンティスは手を差し出し、握手を求める。 それを見やって、サガとカノンが頷きあった。 「サガ、大丈夫だとは思うが、念の為にタイナロン岬にも誰か派遣しておいてくれ。アイオリアが案内できるが、もう一人か二人。シャカかムウかが適任だと思う」 「そうしよう。私は教皇にご報告してから、追ってマーシュ山に向かう。ミロの見立てが正しければ、お前の他にその門をくぐれるのは私だけだろう――だが、カノン、くれぐれも無理はするな」 「自分の弟を信用しろ」 カノンは笑みを浮かべると、サガの胸を軽く拳で叩いた。 そしてミロとラダマンティスを伴って十二宮を抜ける。 白羊宮前の広場に到達した三人は、そこからカノンは海界の入口であるスニオン岬へ、ラダマンティスはハインシュタイン城へ、ミロはマーシュ山へと三方向へ別れ、テレポートした。 海界のポセイドン神殿には急遽、七人の海将軍が集合していた。 カノンは彼らの前で地上と冥界の状況を明かし、不在の間の海界指揮の全権をセイレーンのソレントに委任することを告げる。普段聖域を訪ねる時とは訳が違う。そうそう不覚を取るとは思わないが、冥界で万が一のことがあった場合の心構えは必要だった。 「タイナロン岬の様子には注意していてくれ。もしもタルタロスの門を閉じることに失敗した場合は、三界の接点であるそこにまず影響が及ぶと思われる。万一海界にも崩壊の余波がありそうなら、直ちにタイナロン岬、スニオン岬をはじめ、地中海周辺のすべての地上との接点を切り離せ。他の海域に存在するポイントは異常がなければ維持。ブルーグラード跡地とアスガルドについては、アイザックとソレント各自の判断に任せる」 「わかりました」 「承知した、カノン。気を付けて」 指示を受けたアイザックは、やや緊張した面持ちで頷き、ソレントは珍しく気遣わしげな声をかけた。 「シードラゴン様」 神殿の奥、ポセイドンの玉座が設えられた間から、マーメイドのテティスが三叉の鉾を運び出し、カノンの前に膝をつくと、それを両手で恭しく差し出した。 「ポセイドン様より、新たにそのお力を注がれた三叉の鉾をお預けいたします。ご武運を」 頷いてそれを受け取ったカノンは、行ってくる、と短く告げて、再び地上へと跳んだ。 スニオン岬からマーシュ山へのテレポートは簡単だった。先行したミロの小宇宙が明るく輝いて、灯台の光のようにカノンを導き、ほんの一跳びで目的地に到達する。 マーシュ山の麓に降り立つときに、わずかな抵抗を感じたのは、ここが聖域同様に、結界で守護されていることを示した。それは古いものだがタイナロン岬とは異なって非常に安定しており、少しの綻びもない。 視界は深い霧に覆われていたが、それを透かしてミロの小宇宙が放つ赤い光が明滅して見える。夜空のアンタレスの瞬きのようだ。 「ミロ、待たせたな」 カノンが駆け寄ると、ミロは無言のままで前方を指さした。 山肌の切り立った斜面に大きな空洞が穿たれ、その奥に扉がある。表面にくっきりと蠍座の十五の星が刻み込まれているのは、まさしくそれが鍵であるのだろう。 「なるほど。あの位置に蠍座の小宇宙を、つまりスカーレットニードルを撃ち込めということか」 「タルタロスの門も、これだけわかりやすい鍵だといいのだがな」 そう言って、ミロが慎重に狙いを定め、まず一発目のスカーレットニードルで鍵穴を射抜く。 ミロならば動かない的を外すことなどありえないが、鍵自体を破壊することのないように威力を絞り込んでいるのだろう。一発撃つごとに足元の位置や体の角度をわずかに変え、呼吸を整えて次の一発を放つ。 三発――五発――十発――十四発。 最後のアンタレスの位置を残して、十四の赤い光点を正確に扉に刻み込んだミロは、一度手を下ろし、ふうっと大きく息をついた。 「……君こそは、我が傍らの斧」 「え?」 吐息の後に小さく呟かれた声を耳にし、カノンはミロを振り返った。 「我が手の弓、我が腰の剣。我が盾、我が衣、我が最大の喜び……ここをはじめて通った者が、先に冥界へ旅立った友に呼びかけた言葉だそうだ」 ミロは伏せていた瞳を上げ、静かにカノンを見つめる。 「大切な者を、先に冥界へ送るのは、これで何度目だろうな」 「……ミロ」 「アイオリアの言葉の意味がわかった。カノン、お前は俺よりずっと強い。それを知っているのに、なぜ心配になるんだろうな? お前を一人で行かせたくない。最後のアンタレスを撃ちたくない……そう思う」 その逡巡を言葉にして吐き出したミロは、かすかに自嘲めいた微笑を浮かべ、軽く頭を振った。 「臆病なことを言ったな。ラダマンティスに、必ずお前を送り届けると約束したのに……もう一度頼む。聞いたお前が忘れてくれ」 「いや、忘れない」 カノンが言下に否定すると、ミロは本気で驚いたように顔を上げた。 「お前が言ったとおり、俺は嘘が得意だ。だが、ミロ、お前には嘘はつかん」 「カノン……」 「俺を大切な者と――『我が最大の喜び』と呼んでくれた、そんな嬉しい台詞を忘れられるか!」 心のうちからこみ上げる感情のままにカノンは笑い、左手はポセイドンの鉾でふさがっていたが、空いた右手を伸ばしてミロの体を抱き寄せた。 「昨夜もうひとつ言ったな、ミロ。俺たちにはまだたっぷり時間があると」 「ああ……お前はそう言った」 「それを嘘にはしない。戻ったら、約束通りたくさん話をしよう」 「戻らなくても、俺はオルフェのようにお前を追って行きはしないからな」 憎まれ口のように言ったミロは、だが、言葉とは裏腹に、両手をカノンの背に回し、一度きつく抱きしめた。 そして腕を解き、いつもの自信に満ちた表情で、冥界への扉に向かう。 「開けるぞ」 「ああ」 傍らのカノンが頷くのを確かめ、ミロは最後のアンタレスを撃ち込んだ。 扉はゆっくりと、重々しい音を立てて向こう側へ開いた。あたりを包む霧が流れ込んでゆき、その道は地底へと続いている。 「じゃあ、行ってくる。待ちくたびれてこの扉を閉じてしまわないでくれよ」 「どうかな。俺は待つのは苦手だ。もしそうなったら、ラダマンティスに頼み込んで送ってもらえ」 「苦手なことばかり頼んで悪いな」 わずかに苦笑してミロの言葉を受け止めたカノンは、ポセイドンの鉾を握り直し、扉の中へ足を進めた。 誰かの背中を見送るのが嫌いだと、そう言っていたはずのミロの視線が、決して逸らされることなく自分の背中に注がれているのを感じながら。 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆ ≪Jirel様によるあとがき≫ 地・海・冥の三界共闘で「お仕事がんばるオールスコーピオンズ」 ……が書きたかったのですがあえなく挫折。 かろうじてオルフェとファラオは名前だけ、テティスも顔見せ程度。 邪武は……うん。書いてないけどたぶん、沙織お嬢さんの側近目指して 十二宮前の警備しながらシャイナさんにしごかれていると思われます(^^;)。 オクスって慟哭組に冥衣剥がされた一人ですよね? アルゴル……つ、使いようがなry) 作中のオリジナルの場所(タイナロン岬、マーシュ山)は、一応調べましたが、 けっこう適当に作り替えております。 マーシュ山の出典はギリシャ神話ではなくバビロニアのギルガメシュ叙事詩です。 このあとカノンはちゃんとタルタロスの門を完全に閉じて帰ってくると思われますが 手こずって海っ子が無理やり出動するも良し 冥界勢が地道に頑張るも良し 危機に陥ってミロなりサガなりが駆けつけるも良しではあります。 (↑つまり続きは考えていない) 祝ってるんだかそうでないんだかわからない話になりましたが、 蠍座の皆さんがエキサイティングで熱い一年を過ごせますように! |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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