レモン味がブームだ。
 眠気覚ましの刺激キャンディー、パンチの効いた酸っぱさ九割、僅かな甘さがクセになる。口の中で転がしながら、天蠍宮の扉を叩く。

 借りるぞ、と言ってカノンが入って来た時は、ミロは別段気にも留めなかった。紙袋に入った何やらを、ミロ自身はほとんど使わないキッチンで広げている姿も、珍しいものではない。また飯にありつけるかぐらいの軽い気持ちで泰然と構えていたところ、慣れない匂いが漂ってきた。
「何をしている?」
 甘ったるさに顔を顰めて、ミロは後ろから肩越しにカノンの手元を覗き込む。胡散臭そうな表情がありありと見て取れた。
「……それは食い物か?」
 茶色くてどろっとした液体もどきを凝視する目は、警戒心で一杯だ。
「俺の住処で得体の知れないものを煮るんじゃない」
 このままでは、いや、もう既に、部屋に充満した匂いが壁に染みつきそうだ。
「煮ているんじゃない。湯煎というんだ」
 顔を引き攣らせるミロとは対照的に、カノンは楽しそうにへらを回している。
「お前、チョコレートを知らないのか?」
「知らんわけがないだろう。だが、それが何故俺の鍋の中で溶けているのだ」
 たいして使いもしないくせに、所有権だけは人一倍強い。
「菓子を作る時にはこうするものだ」
 見ると紙袋には型やら粉やらが入っている。長年の一人暮らし、といっていいものでは間違いなくないのだが、自分の飯は自分で作る、ついでに人の分まで作らされていたカノンは、意外とまめに料理をする。ついに菓子にまで手を出したかと、この点においてカノンはミロにとって宇宙人である。何が嬉しくて男が鍋など手にするのだ。そのおかげで最近腹を満たされていることはすっかり忘れて、ミロは信じがたいものを見る目を向けた。百歩譲って、飯はいい(自分も食えるから)。が。
「俺は甘いものは好かん」
 調理場を貸す者として、ここは譲れない一線である。断固として抗議する気で言ったのだが。
「俺もだな」
 しかし、あっさりと返された。
 ますます意味がわからん、といった顔を認めて、カノンは少し笑って説明してやる。
「聖バレンテゥヌスというのを知っているか?」
「また、得意のうんちくか?」
「まあ、聞け」
 と、いうことで、紀元二六九年のローマの歴史から始まったうんちくは、日本の風習をこよなく愛する女神の言葉で締めくくられた。
「有り体に言えば、好いた相手に贈るんだそうだ」
「……」
「で、明日なんだが」
 鼻歌交じりにかき混ぜている。大の男のこのざまは、ある意味痛いはずなのだが、カノンがやると様になるのだから、世の中間違っている。
 大人しくなったミロはと言えば、丸々五分黙った後に、憮然とカノンの背中に向けて吐いた。
「……お前が作ったものなら食ってやらんこともない」
「誰がお前にやると言った? 甘いものは嫌いなんだろう」
 これは女神が聖域の皆に配る分を手伝っているだけだぞ、と事もなげに言ってみせるカノンを、なに、と睨めつければ、カノンはにやついた意地の悪い笑みを浮かべてミロの方を眺めていた。
 やられた、という顔を思わずしたのを更に見られたということに、大層悔しそうにして、ぷいと翻り離れて行く前に、カノンはすかさず手を伸ばして引き止める。
「俺に用はないんだろう?」
 拗ねたように斜めに顔を俯けて、カノンの顔を見てこない。普段は痛いくらいの目力も、合わせてこなければ効果もない。実際、拗ねているんだろう。
 腰に回された腕を引き剥がそうと躍起になるのを、もう片方の腕も使って押しとどめる。後ろから抱きかかえるようにして、なおも腕の中でじたばた抵抗するのを軽くいなして、そむけた顔の横から厚い髪に覆われた耳に顔を押し付ける。
「お前には別のものをやる」
 囁くがはやいか、ミロの顔を両手で掴み、口の中に押し込んだ。
 酸っぱさ九割、僅かな甘さのレモン味。優に五分くらいはかけて、口の中で溶かし合う。
 口唇に残った味を舐めとってから、カノンは、そういえば、と今思い出したかのように付け加えた。
「甘いものは嫌いなんだったな」
 口に残った丸い玉を、転がし、片側の頬を膨らまして、やはり憮然とミロは呟く。
「……こういう甘いは、嫌いではない」
「偶然だな。実は俺もだ」
 ミロはそれには答えずに、少し小さくなった飴玉を、前歯に咥えて顎を上げた。

 酸っぱさ九割甘さは僅か。僅かな甘みが増して感じる。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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