「老後の練習だ。食わせてやろう」
 向かいのソファから身を乗り出して、足の低いテーブル越しに、ミロは幅広のスプーンをカノンの鼻先でひらひら揺らしてみせた。つい今さっきまでは、飯を自分の胃袋に納めることに夢中で、ろくすっぽ返事もしなかったくせに、今はカノンで遊ぶ気満々である。
 腹が減ったというのは嘘ではなかったらしい。一心不乱に食われれば、つくった者としては嬉しくもある。残さず平らげられれば完璧だ。が、どうしてその完璧の一歩手前で余計なことを思い付くのだ。悲しいかな、足りなくては可哀想だという心優しい――彼にこの形容詞がつくことは二十八年の人生においてほぼ皆無であった――カノンの計らいで、深夜にもかかわらず腹を空かせた成人健康男子、かつ黄金聖闘士の腹を満たすのに十二分量を用意してやったのが、裏目に出た。あと数口を残すところで空腹が納まり余裕の出てきたミロは、こうしてろくでもないことを始めたわけだ。
 全くこいつときたら、人の気も知らないで。
 ミロのにやにや笑っている顔は、悪戯を思いついた子供のようで、実際の歳よりも幾分幼く見えた。こいつがこういう顔を見せる相手も、決して多くはないと知ってはいるが、大人をあまりからかうものではない。俺はこいつのものだけれど、こいつが俺を手放せないように、たまには思い出させてやる。
 本能の欲求を。

 一瞬、何かが背筋を撫ぜた。急に空気が変わったのは、間の空間を飛び越えて投げられる視線のせいか。端正な顔の割に、やけに口がでかいじゃないかとミロが思ったのは、開いた口がいつの間にか近くにあったからで、はっと気づいて迫られた指先を思わず引けば、銀の切っ先が微かに震えた。
 引いた分だけするりと伸びて、赤い舌と口の中に、手と指に続く銀色の凹みが含まれて、指先にその抵抗が伝わった。閉じられてはいない、伏せた視線は、ミロの手の指に注がれている。直接は触れていないのに、一本の金属を介して繋がったような感覚。ぞわりと疼きが腰に響く。
 スローモーションのようなその動き、刻が止まったのは一瞬で、指先にぐっと重みを残し、拭い取って離れていく。反動で切っ先がはね上がり、僅かに飛び散った汁がミロの手を汚した。と、引いて行く頭の作る風が向きを変える。一拍の静止ののちに、そのままの位置と形で留まっていたミロの親指近くの甲にとまり、軽く舌のざらつく感覚を落とした。低いところにある切れ長の碧眼を縁取る睫毛は意外に長い。ミロの視線に気づいて見上げる瞳はじっとりと纏わりつくようで、胸の内を掠め取られた気にさせる。カノンを見る少し細めたミロの青い瞳は凪いているように平静で、動揺などを感じさせはしなかったが、見下ろす優位さや余裕も感じられない。ついさっきまで口元にあった笑みがいつの間にか鳴りを潜めているのが、視線に捕らわれたことを示す、ただ一つの徴である。
 戻っていく時に、こぼれた髪がミロの手に触れていった。カノンの顔が遠く離れたのを確認して、ミロは、ほ、と食いしばっていた奥歯を緩める。そこで初めて、知らず知らずに力を入れていたことに気がついた。
「さっさと残りも食ってしまえ」
 言い残して立ったカノンの後ろ姿が、長い髪と手を揺らして遠ざかる。食事の場には不釣り合いな、どこか艶を含んだ空気が解かれ、かき消えたように散っていく。解けた緊張に任せるように、ミロは緩んだ体をソファに沈めた。あと数口を、食うかと見やった手の中のスプーンを、自分の口にいれるのに一瞬躊躇した、のを、打ち消すように勢いよく皿を空にしたところへ、ゴッ、とテーブルの向こうで音がした。顔は上げずに目だけで見ると、浅い小鉢に大粒の巨峰が、一房。
「食後に食わせてやろうか?」
 笑っているような視線が、向かいのソファに深く腰掛けて、遠くなった空間を超えて、また届く。
「届かない」
 背を乗り出して手を伸ばせば届くだろう。だが、小鉢が置かれたのは、広いテーブルの際、その不自然さ。
「届かなければこちらに来い」
 手は動かさずに首を傾け、ミロを誘う。ひくりと頬が引き攣れたが、文句を出そうにも言葉が思いつかなかった。視線での無言の応酬は、二人の間では時として攻防になることがあるのだが、今日はミロの方からそれを放棄した。
 テーブルの上に屈んでいた姿勢から、ひらりと立ち上がって、軽くローテーブルを乗り越えて渡る。間を遮るものなど元から何もないかのような、音も立てないしなやかな所作は、どこか猫科のそれに似ている。片足を床に残して、深く腰掛けるカノンの膝のすぐ脇にもう一方の膝をつき、ミロはソファに乗り上げた。体が触れるか触れないかの距離で向かい合い、高い位置からカノンの顔を見下ろす。
 ふ、と笑ったカノンの顔が横にずらされて、乗り上げていない方のミロの脇腹の横から、上体ごと長い手を伸ばし、粒を一つ手にとった。さらりとした髪がミロの半身を掠めて行き、帰る。ミロは動かず目だけで、両の長い指が器用に皮を剥くのを見ていた。爪先に紫の色素が残る。その指先に挟まれた半透明なみどりいろの果実が、目の前に運ばれてくる。近づいてくる指先に触れられたわけでもないのに、思わず半ば開いていた口。弾力ある果肉が押し込まれて、甘酸っぱい果汁が口の中に広がった。役目を果たしたはずの指は、なおもそのまま、ミロの口唇に触れたままだ。味わい、転がす間中、口唇に残されていたカノンの親指の腹から、前腕をつたって肘からぽたりと一滴落ちた透明の果汁の行方が気になった。ミロの喉がこくりと上下するのを見ながらも、口唇に当てた指はそのままに、カノンは口を開く。
「まだいるか?」
 指に触れられたままの口で答える。
「腹はもう減っていない」
「それにしては物足りない顔をしているぞ」
 親指がゆるりと口唇を拭いなぜる感触に、もう一度ぞくりと、胸の奥をすり抜けて、内臓の下の方が震える。
「別の欲求も満たしていくか?」
「飯を食ったら眠くなった」
 口にしたミロの抵抗はささやか過ぎて、抵抗にはなっていない。
「丁度よかったな。朝までまだ時間がある。三つとも満たしていけばいい」
 シャツの裾から吸いつくように、脇腹から背を這い上がる手を合図に、辛うじて床についていた片足を離し、跨ったカノンの膝に体重をかけた。

――罠に捕らえたとほくそ笑んでいるなら、後になって気づけばいい。俺の欲求を呼び起こしたのはお前なのだ。最後は俺が喰らい尽くしてやる。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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