一糸纏わず屈折しているようでいて存外単純で、けれど積み重ねた年月と今でも穿たれた杭で胸の内の柔らかい部分を露わにできるほどには素直ではなくて、赤裸々に吐露してしまえれば少しは楽になるだろうにと、巧みに隠して纏った鎧を見ると、思う。 揃って休日の朝を迎えるのは珍しい。たいていはどちらかが任務だったり、両方が出番だったり、だから場合によっては夜のうちに自宮に帰ったり。暇なように見えて聖域の聖闘士は意外に多忙である。そんなわけで、こうして遅い朝の朝食を、珈琲の香りのする中で分け合えることは滅多にない。縄張り意識の異様に強い猫科の大動物は、最近ようやく縄張り内で人が寝泊まりするのにも馴れた。無防備にさらすようになった寝顔は、見る者を捕らえて離さない強い光を放つ海の色の瞳が閉じられているせいか、普段のきつめの印象とは正反対に随分穏やかに見える。色の濃い柔らかな猫毛に指を巻きつけていじっていても、目を覚まさないくらいには気を許しているようでもある。 そんな平和な一日の始まりを予感させるモノローグで綴られる朝に、居間のソファに腰を下ろして組んだ両手に顎をのせ、難しい顔をしているのは他でもない、カノンである。前かがみの姿勢で秀麗な眉を寄せている姿は、何も知らない者から見れば、大層憂いを帯びた悩ましげな風情を背負っているように見えるだろう。事実、カノンは悩ましげだった。そしてその元凶はと言えば、当然例の二本足で歩く猫である。気を許されているのはカノンにとって喜ばしい限りなのだが、困った弊害もついてきた。その一つが、これだ。 「……おい。そんな格好でうろうろするな」 咎めるようにかけた声は、ぴたぴたと猫らしからぬ足音をたててバスルームへと続く廊下から出てきた人物に向けられた。言われた当の本人は、聞こえもしなかったかのように、顔に翳を宿して浅くソファに腰掛けているカノンの前を、堂々と通り過ぎていった。間を遮るものは、食卓のマグカップと、立ち昇る湯気。カノンは顰められた眉の下の碧眼で歩の軌跡を追う、のはやめて途中で伏せたのには理由がある。調理台の裏に置かれた冷蔵庫をがさごそと探ったのちに、ペットボトルごと水を飲み干しているのをちらり横目で確認してから、カノンは改めて視線を投げた。くるりと回る髪先に、玉を作った雫が輝いている。 「おい」 もう一度、今度は少し声を大きくして呼びかける。さっきのだって、今のだって、聞こえていないはずがない。ということは、意図的に無視したのだから、答える義務はないという意思表示なのかもしれないが、カノンとてここで引き下がるわけにはいかなかった。 「ミロ、いい加減にしろ」 はっきりと分かるように、ペットボトルを片手に口を拭っている男に顔を向けて言う。今ならカノンの位置からは、腰上までの高さがある調理台に隠れてミロの上半身しか見えない。ただし裸の。 「なんだ」 煩そうに答えたミロには、悪びれた様子はない。当然、隠す風でも、恥じらう風でもなく、億劫だと言わんばかりの視線をよこしただけだ。 「さっさと服を着ろ。いつまでもそんな格好でいるんじゃない」 「自分の家で風呂上りに、好きな格好で寛いで何が悪い」 「だったら俺のいないところでやれ。客の前でだらしない格好をしているな」 「食器の置き場からタオルの仕舞い場所まで把握している奴を、客人とは認めん」 ああ言えばこう言う。ある意味正論であるだけに反論しにくいが、言いくるめられるわけにはいかない。というか、心臓に悪いのだ。 「せめてパンツぐらい穿いておけ」 ミロが調理台を迂回してこちらに寄って来るのを察知して、なるべく目に入れないように視線を外し、カノンは言った。そんなカノンの努力を知ってか知らずか、風呂上りのやや潤いを帯びたままの一糸も纏わぬ姿で、要は全裸でミロはソファに乗り上げる。体の片側が反動で沈むのが、隣に、しかもごく近くに本体がいることをカノンに知らせてきた。 「今更照れるのか。お前らしくもない。意外に初心なんだな」 その格好でやたらと近付くのはやめろというに。ミロは大らかに足を組んで上体を捻り、片肘をソファの背にひっかけて笑う。笑い声を伝える空気の振動が直に耳に届いて、心臓を掴まれた気分になるのだから、勘弁してほしいものだ。 「そういうことを言っているのではない」 カノンは気持ち体を離してから、顔だけミロの方を向けた。視界いっぱい、ごく近くににやけた顔があるが、この方が好都合だ。余計なものを見なくて済む。 「お前こそ、俺の前でそんななりをさらして、どうなっても知らんぞ」 わざと凄んでみせた。 「襲ってくれと言っているようなものだ」 怯むかに見えた相貌はすぐに笑みを取り戻して、青い宝石の奥がきらりと光った。 「わざわざ警告してくれるとはな。お前がそんなに紳士的な男だとは初めて知ったぞ」 前科があるだけに、痛いところをついてくる。だからこそ、カノンとしては以来なるべくミロの意を汲むように努力しているのだが、当の本人が水泡に帰すような真似を平気でしてくれるのだから頭の痛い話である。 「良いというまで我慢出来たら、少しは見方を改めてやろう」 前言撤回だ。こいつは絶対に分かってやっている。現に先ほどから、隠しきれない笑みが口元に浮かんでいる。何より猫を思わせる釣り目が、丁度いい獲物を見つけた時のようないたぶる愉悦を含んでいる。つまりは、カノンの我慢がどこまでもつのか、挑発して試すつもりなのだ。本当にこのまま押し倒してやろうか。 「俺がそれに従うとでも思っているのか」 そちらがその気なら遠慮する必要はない。カノンはミロの湿った髪の下に手を差し入れて、首の後ろをぐいと引き寄せる。 「従うさ」 自信ありげに一層深めた笑みからは、微塵も動揺など感じられない。ひどく警戒されていたときに戻りたいとは思わないが、髪に手を触れるだけで微かに分かる程度身を固くしていた初々しさが懐かしい。 「お前は俺のものなんだろう。お前は俺には逆らえない」 甘やかされるのにも馴れて、我儘も言い放題にじゃれついて来るようにもなって、それでも微妙な手加減と線引きは心得ているのが心憎く、カノンの弱いところを刺激する。カノン限定のそんな言い方をされてしまえば、つい嬉しいような気にもなって、従うほかなくなってしまう。その辺も分かってやっている気がしなくもないが、それも含めて逆らえないのだから、どうあってもカノンに勝ちようはない。 「それに本当は」 ミロは空いた方の手でカノンの襟元を引き、顎を軽く上げて下目づかいに見下ろす姿勢を作って言った。 「願望を抑圧してるんだろう?」 カノンの開いたシャツの胸元を寛げて誘うような視線が目の前で泳ぐ。お構いなしに、ずいと体をよせてくるミロの方は、どこまで本気なのか、遊んでいるだけなのか、だが、今日の趣向はどうやら少し違うところに向いているらしい。 「人が裸でいるのが気に入らないのは、本当は羨ましいからだろう」 「何のことだ」 ろくでもないことを言い出す前触れを感じて、カノンはあからさまに嫌な顔をする。 「裸になって、自分を開放したいと思ってるんじゃないのか?」 案の定だ。一度、妙な悪戯を思い付いたら厄介で、かつ、大変たちが悪い。しかし今日のは論外だ。家の主よりも食器の位置に詳しくなる程とはいえ、仮にも人の家で、全裸でうろつくような非常識は持ち合わせてはいないし、そんな願望もない。 「そんなにきっちり着込んで窮屈じゃないのか。片意地張らずに少しは寛いだっていいんだぞ」 「俺にはそんな性癖など、ない」 ミロの畳み掛けるような物言いを断ち切るべく、カノンは一声唸って睨む。 「隠すな。分かっているぞ」 睨んだ先にあった青い光が逆に射しこんできて、一瞬どきりとしたのは、隠していたものを見透かされたからでは、ないはずだ。猫の目には魔力があるというが、こいつの目は、時々ひどく何かを訴えかけるようで、かと思えばいつの間にかこちらが吸い込まれるようで、危うく魅入ってしまうのを僅かに逸らして自分を保つ。そうだ。だいたいあり得ん、全裸など。深いため息とともにカノンは吐き捨てる。 「サガと一緒にするな。俺は誰彼かまわず自分の裸をさらして回るような真似はせん」 「そうだろうな」 思いの外あっさりと引いた。と、思いきや。 「だがお前は、"俺には"なりふり構わず素っ裸の姿を見られたいんじゃないかと思ったのだが」 くっと笑う声が蠱惑的に響く。 「違ったか?」 覗き込んできた瞳に今度こそ、目を奪われる。青い光が拡がって、そうだ捕らわれるのは、海の色に似ているせいだ。ずっと頭上に見続けていた青は、空のかわりに揺らめく海。自身を世界に駆るためだけに在った神殿にも、繋がる幾多の命と想いがあったのだと、洸洋たる蒼海を見て気づく。だからこの瞳の前には何も隠すことなどできず、どこまでも見透かされて、見透かされる慙愧すら望むべくでもあり――。 「馬鹿をなことばかり言っていないで、とにかく服を着ろ」 刺激されたのは真実無意識の欲求なのだか、違う部分か、とにかくそんなもの認めるわけにはいかない。一瞬の動揺を振り切って、カノンは乗りかかってきたミロの額をこずき体を押し戻した。青い光が遮られるのと同時に、そんな倒錯的な錯覚も海の幻影と共に霧散していった。 「覚悟が決まったら言え」 まだ言うかと噛みつく前に、ミロはひらりとソファの背を飛び越えて後ろに回り、なおも頭の上から可笑しげな声を降らせていった。そのまま遠ざかるかと思っていた気配が、頭の後ろに唐突に寄せられるのを感じて、振り向くよりも前に、少し低い囁く声がカノンの耳元に届く。 「お前が身を覆うものを脱ぎ去って、全て俺の前にさらけ出すというのなら――」 ポンと後ろ頭をはたかれて、再び止まった思考の後にはっと振り返った頃には、揺れる巻き髪が隣室へ消えるところで、がたがたと向こうの方でクローゼットを開ける音が聞こえてきた。 何重にも頑なに囲った鎧の内、裸の心臓に、たやすく触れる。 『受け止めてやる』 耳に残った最後の言葉だけが、さざ波のように幾重にも重なって徐々に大きく、頭の中に響いていた。 地上の女神に赦され、海の色の瞳に救われても、海に残した悔恨は尽きぬ。 |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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