重厚な石の壁で仕切られた部屋に窓はなく、時代を感じさせる古めかしい調度品と相まって、あたかもこの閉鎖空間が、時空から切り取られ、外界から隔離されたかのような錯覚を呼び起こす。しかし高い天井と、この部屋に与えられた寝所という役割にしては十分すぎるほどの広さが、感じるはずの閉塞感を緩和していた。むしろ、部屋の用途からすると、こうして隔絶されていることが、何人の邪魔も入り得ないという安堵となって解放感を満たし、室内で完結した居心地の良さの理由となっているのかもしれない。部屋の片側に寄せられた寝台は、一人で寝るのには大きすぎるが、二人で四肢を伸ばして眠るには少し狭い。人肌に触れて重なり合うのに適当な大きさのベッドの、やや硬めの感触も、波打つシーツに埋もれてしまえば気にならない。よく見れば、広い部屋の中は装飾品で飾られてはいるが、明るさを調節するためのランプだとか、枕元の水差しだとか、必要なものは寝台から手を伸ばせば届く位置にしか置かれていない。すなわち、それが、この部屋の使われ方を物語っている。
 白いシーツの上に混じり合って散らばった、二色の長い髪。
 ミロはうねるシーツの海にうつ伏せに体を沈めたまま、重い腕を持ち上げた。しっかりと筋肉のついた引き締まった腕は、寝台の脇で何度か虚空を彷徨ってから、だらりと下に伸びた。何かを探る指先が床を掠る。起き出してしまえば楽に用を達せるだろうが、ひと時の放心から半ば覚醒しながらも、身に残る恍惚に今しばらく浸っていたい。しかし下ろされた剥き出しの腕は、このままでは無意味に空を切るだけだ。気怠い体を引きずって寝台の縁まで這い出でてみれば、体を包んでいたシーツがはだけて、中の温もりが名残惜しく感じられた。葛藤を振り切るように深く息を吸い込んで、寝台に伏せていた上体を持ち上げる。寝乱れた長い髪が裸の背や肩からこぼれ落ちた。
 ぐるり見渡した寝台の周りには、衣類が脱ぎ捨てたままの形で床に散乱し、余裕なく縺れ込んだ跡を如実に示していた。寝台から少し離れた場所に目的のものを認めて、ミロは体を乗り出して腕を伸ばす。わざわざ起き上がる気にはならない。二、三度空振りしてから、中指にかろうじてグレーに染められた腰回りのゴム部分を引っ掛けた。あと少しで掴めるといったところで、不意に後ろから体を引き戻され、釣った獲物は指先から逃れてぱさりとあえなく床に落ちた。
「邪魔をするから取り損なったぞ」
 振り向き様に言った非難を込めたミロの言葉は、言うほど責める口調にはならなかった。それも仕方がない。一通り情を交し合った後で、二人してベッドの中で相手の肌を感じていれば、自然と愛着だって湧くものだ。
「なにを取ろうとしていたんだ?」
 頭の上から低音の、だが甘さを含んだ声が下りてきた。近くから見下ろしてくるカノンの顔は、いつも精悍で隙がないのだけれど、今は随分緩やかな微笑を湛えていた。
「パンツくらい穿かせろ」
 この部屋に転がり込むがはやいか、互いに求め合って、幾度となく肌を重ね睦み合い、閉じられた空間ではどれくらい刻が経ったのかも分からないが、さすがに物憂い疲労感が体を支配していた。心地よい余韻に包まれたまま眠ってしまいたい。その前に、せめて申し訳程度には身に付けるべきものを纏っておきたい。ミロなりのけじめ、というか拘りなのだったが、再びシーツの中に引きずり込まれて、あっけなく失敗した。
「あの黒いやつか?」
 カノンはミロの耳元に顔を寄せて、笑いを含んだ声で言う。
「ああ」
「裾にお前の標が縫い止められている」
「よく知っているな」
 ミロはカノンの体の重みを背中で受け止めて、後ろから回された長い指先が、肩を通り越して顔の脇の髪を嬲るのに任せた。あれだけ馴れなかった髪越しのくぐもった声や、直に素肌が触れ合う感触にも、いつしか安らぎを感じるようになっているから不思議なものだ。
「お前に関することなら、パンツの微細な柄から見えないところの黒子の数まで、何でも知っておきたいからな」
「それは……、他の奴がいる前で言うなよ」
 冗談だか本気だか、おそらく半分以上本気の、表面的にはフェティシストかと思える発言にも、不快なものは感じなくなった。この執着がどこから来るか、もうしっかり知っているせいだ。
「誰が言うか。俺以外の奴に知られてなるものか」
「知りたがるのはお前ぐらいだと思うがな」
 知っていてなお、嫌なものだとは思っていない。むしろ、たぶん嬉しいと感じている。
 ふっと笑ったのは、そんな自分の変化になのか。なんとなく照れくさくなって、ミロは体を起こしてカノンの下から抜け出した。
「ここだと時間が分からん」
 辺りを見回しても、刻を示すものは何一つ置かれてはいなかった。まるで時代から取り残され、刻が止まったままに動かない空気が、現実感を奪っている。
「どれくらい経ったんだ」
「そんなこと気にするな。どれくらいでもいいだろう」
 もう一度腕の中に納めようと、腰回りに伸びてきたカノンの手を、ミロは軽く制した。
「そういうわけにはいかんだろう」
「いい。二、三日出ていかなかったとて、どうということはない」
 なおも絡んでくる腕をほどき、少しばかりの抵抗を試みる。
「不審に思って誰かが様子でも見に来たらどうする。こんなところに押しかけられるのはごめんだぞ」
「その時は異空間に隔離するから安心しろ」
「とんでもないな。そんなことに聖闘士の技を使うな」
 しつこく抱きついて腰部に押し付けてきた頭を押し返して言ってやると、カノンはようやく体を離して仰向けに返り、高らかに笑い声をあげた。
 改めて身を乗り出して、先ほど取りこぼした黒い布きれに手を伸ばそうとしたら、後ろ髪をひかれ、頭がのけぞる。
「今度はなんだ」
「穿いたってすぐにまた脱ぐことになるんだ。捨てておけ」
 言うなり、がばりと頭からシーツを被せられて、押し倒された。ミロの顔の両脇に手をついて覆い被さってくるカノンの体が支柱となり、シーツで張られたテントの中に閉じ込められる。
 仕方がないと中途半端な位置から体を戻し、仰向けにカノンの腕の中で向かい合う姿勢をとると、カノンは待っていたとばかりに、どれだけ重なり合っても足りないというのか、ミロの髪や額、瞼、そして口唇、ところ構わず口付けを落としてきた。
 降り注ぐキスを受け流しながら、かといって避けるつもりも無理に止めるつもりもなく、軽く身を捩って目を瞑る。けれど少しばかり残った気恥ずかしさで、文句の一つは言うことにする。
「普段は穿けとうるさいのに。てっきり脱がせるのに興奮するのかと思っていたが」
 そのまま続くかと思っていたキスの雨が、一度ぴたりと止まったのを不審に思って目を開けると、いつになく真剣な顔つきで見詰められていた。
「お前との間に布きれ一枚でも、遮るものがあるのは嫌なんだ」
 呟かれた声は小さかったが、この上ない真実味を含む。
「どうせ二人きりだ。裸のまま抱き合って過ごしたい」
「いつから趣旨替えしたんだ。全裸なぞと、苦々しげに言っていたではないか」
 熱を帯びようとする空気を吹き飛ばすべく発せられたミロの言葉にも、カノンは真顔で答えた。
「お前の前でだけだ」
 上から見下ろす碧の視線。
「お前の前には隠さねばならんものなど、何もない」
 見上げる青い瞳に向けて言う。
「ミロ、お前が言ったんだぞ。纏うものすべて脱ぎ去ってさらけだせと」
「……そんなことを言ったか、俺は」
 自分の何気ない一言が、きっとこの男の中では大きな意味をもつことがあったのだろう。それを自覚しないでいたことは、仕様がないと思う一方で、ひどく不義理で、そして惜しいことのように思える。
「覚えていないか」
 カノンはふいと目を伏せたが、すぐにまたミロの瞳を見返してきた。
「だがそれでも構わん。結局は同じだ」
 どこまでも真剣で、熱でも激しさでもあったけれど、多分最初からこの切実に自分を求める視線に、揺り動かされていたんだと思う。
「お前のおかげだ」
「俺は何もしていないぞ」
 せめて傷つけていなければいいと思う。この男が傷つくのを、もう、あまり見たくはない。そう思うほどには、情が深くなってしまっている。
「だから同じことなんだ。お前が意図していようといまいと」
 続けるカノンの言葉は前と変わらず真摯で、違うとすれば、溢れ出すものを隠そうとしなくなったこと。それをもう隠す必要のないことが、それが嬉しいのだと。
「お前が居たから、今の俺が在る」
 それは自分に向けられる愛情の故なんだと、認められるほどにはなっている。
「俺にとってはそれが全てだ」
 全身で伝えてくる。お前が好きだ、と。
「もうしばらく、このままでいてもいいだろう?」
 乱れたシーツの上に、膝をたてて座り直し、一緒に引き起こしたミロの体を下肢の間に座らせて、向かい合って抱き寄せる。きつく抱きしめるのではない、ミロの許可を待つように、カノンは緩く腕を回した。
 顎を肩に預けてさらりとした髪を梳くミロの手も、彼にしては随分と柔らかで、しばらく前にだったら自分がこういう仕草をできるのだとは、思いもしなかっただろう。
「返事は?」
 促す、そして、求める声。
「ミロ」
「……お前がそうしたいというなら、まあもうしばらくは」
 途中まで言いかけてやめる。そして、言い直す。
「そうだな。好きなだけ付き合ってやる」
 それから、もう一度。
「俺も、こうしていたいと思っている」
 長い後ろ髪の間を縫って回した両手がカノンの背中で合わさると、その上から許しを待っていた腕に、力が込められた。
 ありのままに、裸の己を受け止められて、そのことがただ、幸福である。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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