ここがどこだか、分からなかった。
 見慣れたような、見慣れぬ天井。

 寝て覚めた後に目に入るのは、たいてい暗いのっぺりとした天井で、居場所は此処にしかないはずなのに、今いるのがどこだかすぐには思い出せず、ただ迫りくるような圧迫感に胸を押し潰されそうになる。窓もなく、入る光もなく、壁と床と天井とで狭く仕切られた立方体は、厳密な正確さであるほど、より人為的で不自然さを暴く。ほとんど装飾のない、ただ在るためだけの部屋から外へ逃れる唯一の出口は、これも簡易な扉一枚、だが、その一枚の先が、常に同じ外の光のもとに続いている保障はない。保障はない、とはそう思っていただけで、実際には一度として出ようとして出られなかったことはなかったのだが、やはり一度として、必ず迷わずに出ることが出来ようと、確信していた時もない。双児宮の特異な空間構成は、在るべきものが其処に在るという当然の摂理を容易に無きものとする。しかしこの迷宮は、自身を惑わすものではなく、他者を迷わせ遠ざける手段のはずである。と、いうことは、やはり囚われているのは、己の方だったのかもしれぬ。
 日の光は憧憬で、渇望と執着で、ただ己とは交わらぬ対極の存在で、ひたすら手を伸ばす先に在る夢。外の光が差し込まぬ場所、此処には独りで、己を知るものは誰もおらず、差し込む眩しいくらいの青い光は何処にもなくて、ああ、だからやっぱり夢だったのだと、思う。

 体を動かさぬまま、数度瞬きをして、天井が降りてこないことを確認する。あそこではない。そうだ、ここで、こんな感覚に襲われるのは、おそらく初めてだ。
 高い天井と広い空間と、装飾で飾られた、されどやはり窓のない部屋で目覚める時、そのはるか上には、蒼く揺らぐ水の空があるのだと知っていても、分からなくなることはあった。
 自分がここに在るということに現実感を求めて、数時間前まで知りもしなかった女でも、隣で寝息をたてていれば足しにもなろうかと、見知らぬ部屋の見知らぬ天井の下での仮寝を、夜毎に繰りかえすこともあった。
 だが、寝場所を変えれば迫る天井から逃れられるわけでもなく、それは、いつも、どこへでもついて来た。
 ここは、違う。以前とは違うはずじゃないか。今頃になって、急に思い出すなどどうかしている。
 握りしめていた掌に、じっとりと嫌な汗が滲んでいる。ここにいるからには、一人でいるわけではない。分かってはいるが、研ぎ澄ました感覚が、必死に自分以外の人の気配を探している。その必死さが空回りして、うまく現実を捉えきれていない。
 夢か現か、その狭間か。その狭間には、どんな理屈に合わないことも、起り得るような気がする。
 部屋は広すぎも狭すぎもしない、人の住まうべき形を呈した場所で、ベッドは部屋の割に大きくて、右腕を頭上に伸ばせば、サイドテーブルのライトに当たる。足側の出入り口の脇には、この部屋の主には似つかわしくないような、意外なほどに立派で乱雑ながら中身の詰まった書棚が置いてあることを知っているし、だから、隣を向けば、人に寝姿を見せたがらない割に一度そばで寝付いたらなかなか目を覚まさない猫のような男が、寝息をたてていることは分かっている。理解する理性の部分はそう言っているのに、そのことを信じきれないでいる感覚に支配される体は、確かめるのを拒んでいる。天井を見上げたままの目は、見開かれて逸らすことも出来ず、そうしてみていると、高くも低くもないはずのその、もう見慣れたはずの天井が、徐々に低く、降りてくるような錯覚を得る。
 錯覚か? これは、夢の続きか。誰もいないところで、自分だけがいるところで、世界は全てそのままなのに、青い光は翳って見えず、もとからその存在すらもなかったかのように。
 いや、そんなはずはない。握りしめていた手をなかば強制的に開き、ひとつひとつ体に命令を下す。横を向け、隣を見ろ――――。
 少し、離れたところに、こんもりと膨らんだ癖毛が静かに上下に動いていた。
 知らず、止めていた息を、ゆっくりと吐き出した。じっとりまとわりついていた汗が急に冷えて、首筋を流れ落ちる感覚が戻ってくる。動くようになった体を回して横を向き、伸ばした腕が小刻みに震えるのを恥じる気持ちもあったが、それよりも、しっかりその存在を確かめたいという欲求の方が先だった。こちらを向いて寝息を立てているはっきりとした顔立ち、青い目が閉じられている分普段よりきつくはないが、眉根が緩んでいないためか、いつもの寝顔よりは穏やかではない。そうだ、こうなる前は、そんな違いなど知らなかったはずだ。
 震える指先で、顔にかかる髪をつまんで指先にからめる。弄ぶたびにくるくると回る毛先は指になじみ、無意識にやるほど癖になったそれの感覚を覚えている。
 それでもまだ、理由のない喪失感を埋め切ることはできない。俺の夢か、それとも願望が強すぎて幻でも見ているんじゃないか。この男の存在を証明するものは何だ? あの暗い天井を思い出さなかったのは、きっと青い光に守られていたからだ。強くて鋭くて、それでいて、時にとても優しい。
「何だ?」
 不意を突く、髪を触ったくらいで滅多に目を覚ますことはない男の、青い瞳がきっぱりと開かれこちらを見ていた。無性に今出会いたいと、そう思った瞳が。
「お前がいない夢をみた」
 出た言葉は、胸にあったものをありのままに外に出しただけで、問われた反射のように、間もおかずこぼれ出た。怪訝な瞳は更に問いかけてくるが、その問いに答えることができない。瞬きをしない大きな瞳は、こちらの心根を探るようでもあるが、不思議と不快な感じはしない。真っ直ぐに遠慮はなく、それに安堵する。
「夢か」
 特に感慨もなさそうな声で、その割には、随分間があってから、返ってきた。
「夢、だろうな」
 ぼそりという言葉に、もう一度じっと俺の顔を見詰めて、それから目を伏せた。するりと指先を髪がすりぬけ、かわりに胸もとの間近に頭がきた。
「仕方のない奴だな」
 そう言って見上げてきた頭ごと、寄せられた体を抱き締めて手の内に収める。伝わりくる暖かさが、触れ合う腕と身体からじんわりと広がり、欠けていた一部を満たす。
 満たされながらも、なお残る一点の沁み。
 ただ欲しくて、ひたすらに手をのばして、常にその繰り返しで、自分の手に入るものなどなく、求めながらも得られないのが、それが自分の業だと思っていた。まさかこんな自分の手に、掴めるものなどありはしない。渇望と欲求と執着は、この上ないほど本物であるのに、欲すれど手に入らないという現実も圧倒的に真実で。
 欲しいものが手の中に収まっているなど、そんなことが起こるのだろうか。もしかしたらやはり、今見ているのは夢で、本当はずっとあの狭く四角い部屋の中にいて、寝て、覚めて、見上げるのがもう見慣れるようになった天井でも、そのうちに距離を詰めて迫り、声も上げられずに潰されるのではないか。
「俺はまだお前のものではないぞ」
 口に出していないはず心の声は、俺の皮膚をすり抜けて漏れ出てでもいるのか、それともこの口を借りて、俺が奥底にある言葉を言わせているのか、だが、見詰めてくる瞳の色は、確かに本物なのだ。
「どうしたら、俺のものになってくれるんだ?」
「さあな。それは自分で考えろ」
 手の内に収まったまま、そこから抜け出そうとはせずに言った。
 蝶の見た一瞬の夢はどちらなのか知る術などない。
 手に入れてしまったら、その先どうすればいいんだろうか。たとえこちらが現実で、覚めない夢だとしても、別離が来ないとは限らない。いや、必ず訪れる。人として生を受けたその日から、別たれるために人生はある。冥界の蝶は、誰を連れて行き誰を残したとしても、きっと露程も気にかけない。
 ただ欲しいと思っていた時は、一度手に入れたものを、手放す時が来るかもしれないなど、考えたこともなかった。だから、手放し方がよく分からない。
「俺は誰のものにもならん」
 かけられた声音は少し低く、向けられる視線は少し苦しげなようでもあり、ただはっきりと射すその光だけが現実で、それだけを信じている。
 これが手に入るとしたら、それは夢だ。夢が覚めて一人また迫りくる天井の下で目を覚ます時の、からっぽの現実に抉られるよりは、一生手に入らないものを手の内に抱えていた方がいい。
「そうか、ならば、ずっと追い続けていていいな」
 今は腕の中に、まだ手に入れていないものを収めている。何も言わないままにじっと抱かれて、たぶん薄く笑っていた俺の顔を、こいつがどんな気持ちで見ていたか、束の間の安らぎに緩む俺は、推し量ろうとさえ思わなかった。

 おかしな夢をみた。
 醒めない現をみた。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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