目の前が真っ黒に染まったのは、比喩でもなんでもなく起こったそのままの現象で、月から地球に一瞬で連れてこられたかのような、あるいは先触れもなく腹に巨大な重石を孕んだかのような、頭、頸、肩、背、真上から全身を押し潰さんとする重力に、下肢が沈み、胸が詰まって、息の仕方を忘れた。
突如としてエーゲ海沖の孤島に出現したという遺跡が、巨大なクレーターの跡のみを残して閃光に消えたのは、不測の事態の際にその痕跡を消し去るために施された古代だか近未来だかの知恵なのかもしれぬと、そんなことを思案顔で言うサガの言葉は耳から耳へ、頭には何の通り過ぎた跡も残さず吹き抜けていった。
捉えたのはたった一つ、『行ってくる』いつものように言って、『ああ』と何気なく見送った、ミロが今朝、発った場所だということだけだ。
伝え来るサガのそれ以上の言葉を耳は受け付けず、瞬きを忘れた目は何も見てはおらずに、ただ漆黒を映すのみだった。
「カノン!」
だが、呼吸の仕方が分からなくなっても、生きることに貪欲な身体は、いつでも所有者の意思とは関係なく、その命を繋ごうとする。心臓は拍動を止めるわけでもなく、揺すられた体に刺激された肺は、数十秒停止していただけで、かは、という乾いた音とともに、人間の体の機能を再開した。焦点を結んだ視界の前では、自分と同じ顔が気遣わしげにこちらを見ている。両肩に食い込む骨ばった掌がやけに熱く感ぜられたのだから、きっと俺の体の温度は、顔色に示された通り、随分下がっていたのだろう。
「ミロとて黄金聖闘士だ。滅多なことなどありはしない」
双児宮の自室、今はそれなりに人の住まうべき形として整えられた部屋で、中空を眺めている時間がどれくらいだったのか、覚えていない。お前はここで待てと言って出て行ったサガの声は、聞こえていたような気がするが、何も答えられずに呆然と座り込んで、蒼白な面を晒していた。
そう簡単に、呆気なく、その命が摘み取られるとは思えない。信じたくない、というのとは違う。黄金聖闘士への信頼は、確信でもある。生を疑うことはミロへの侮辱に他ならず、俺は蠍座の黄金聖闘士とその誇りを強く尊び、そして信じている。
だから、俺を慮って言ったであろうサガの言葉は、正確には的を外している。衝撃に貫かれたのは、ミロが死んでしまったかもしれないという可能性に打ちひしがれたからではなくて、ミロがいなくなることはあり得ることなのだと、愚かしくもここにきてようやっと、思い至ったからだ。知らなかった訳はない。訪れたのは実感。いなくなる、今でなくともいつかは必ず、その生きる物全てに唯一平等な摂理は、紛れもなく真実なのだ。
何を勘違いしていたのか。
自分のものになっていなければ、失うことはないと。自分の手に掴んでいなければ、諦め忘れることもできようと。
突然訪れるのだ。別れとは。
俺のものであっても。
俺のものでなくとも。
絶対的な喪失の痛みを、何と比べることなどできようか。
浅はかな自己欺瞞に安らぎを求めていた俺をあざ笑うように、運命は鎚を下す。冷酷に無慈悲に奪い去る。そこに俺の些細な虚構に満ちた抵抗など、風に吹く塵ほどに意味もなく、俺の感情がいかに吹き荒び、悲鳴を上げようと、この世の摂理には一切の入り込む余地はない。
それがこの世から消えることに、時が経ってそこには誰もいなかったかのように忘れられていくことに、耐えられようはずがなかったのに。もう前からずっと。
取り留めのない思考は同じところを何度も廻り、一向に出口の見つけられぬまま迷う。日が陰り、薄暗くなりゆく部屋で、明かりを灯すために立ち上がる気力すら殺がれたまま、更に昏く自身も闇に呑まれていくに任せる。次にもたらされるものが、吉報なのか凶報か、それすら具体的に思い浮かべるでもなく、何も待たず、何も出来ず、漫然と時が過ぎるのだけを待った。
――――――――カノン
声に呼ばれ、それからどうやって双児宮を飛び出し、どうやってたどり着いたのかも、覚えていない。
主の意思がそこにあるかには言及されないままに、なし崩し的に聖闘士の隠れ診療所のように使われることとなっていた白羊宮の別棟、その簡素な扉を力加減する余裕もなく開けはなった音が静寂を裂いて夜空に響いたのは、すでに深夜。必死に彷徨った両目は、探すまでもなく正面に、求めていた男の姿を捉えた。やはり簡素なベッドに腰を掛けて、半裸の上半身に、おそらくたった今施されたであろう包帯を、ばつが悪そうにいじっている。ベッド脇に立っていた、有難くもこの男の無事と来訪を伝えてくれた宮の主の姿は、目に入りながらも、限りなく狭まった視野からは、すぐさま消えていった。
「ミロ……!!」
思わず叫んだ声に向いた青い瞳は変わらず強く、生命の息吹を色濃く示している。大層取り乱した様子であったのだろう、俺の顔を見て、ミロは不審そうに少し眉を寄せた。
「どうした?」
問うてくるミロの声は、対して随分落ち着いていて、そのことにひとしきり安堵はするものの、波だった感情のざわめきを鎮めるにはまだ足りない。駆け寄ったきり木偶のように立ち尽くす俺を見上げて来る瞳に、何を言っていいのか分からず、分からないままに開いた口から出たのはからっぽの呼気だけで、音を成す空気の振動は生まれなかった。
答えぬ、いや、答えられぬ俺をしばらくじっと見てから、ミロは、少し外してくれと傍らのムウに目配せをした。ムウは苦笑とも微笑ともとれる笑顔を作り、あまり無理はしないようにと言い残して、俺の脇を通り過ぎて行った。背後に扉が閉まる音を聞く。それを確かめて、ミロは改めて俺に向き合い、口を開いた。
「決着はついた。急を要すことはもはやない。夜中にお気を煩わせるようなことでもないので、女神には明日ご報告に行く。が、多少の傷は負ったので、ムウに頼んで今晩はここに置いてもらうことにした」
一息に告げられた簡潔な説明にも、ふわふわと心許ない現実をぶら下げたままの俺は、ああ、と曖昧な返事を返すだけだった。おそらく最初からあったであろう足許の丸椅子に、無意識に踏み出した下肢がもつれて引っかかり、音をたてた。
「カノン」
ミロは目を伏せて、一度深いため息をついた。
「聞いてやる。言いたいことがあるなら言え」
言いたいこと。
丸ごと消えた遺跡から生還したにしては達者そうであるが、黄金聖闘士が多少でも傷つくのだから、それなりのことがあったのだと予想される。何が起こったのか、危険はないのか、女神の聖闘士として聞くべきはまずはそれからだと思われる。もしくは、怪我なんぞしてくるとは気が緩んでいるんじゃないかとか、意外に元気そうで安心したとか、そんな軽口で笑ってやるべきところなのか、いずれにしても、帰還したばかりの疲労した負傷者を前に、という言い方をすればミロは嫌な顔をするだろうが、気を遣うべきは自分で、まるで俺の方が傷つきでもしたかのようなこの状況は、明らかに間違っているのだが。
「カノン」
もう一度、はっきりと。促す、己の名を呼ぶ声。
「俺より先に逝くな」
音にのぼった声は、胸の内に閊えているものが吐き出されたようでもあり、内に溜め置けずに漏れ出たようでもある。だが、己でさえも、その声の在り処を知らなかった。言った言葉に驚き、言い繕うべき言葉も、何故だか出てこなかった。
俺の言葉を静かに聞いて、それ以上繋ぐ言葉がないと認めてから、ミロはやはり静かに立ち上がった。低い位置にあったミロ視線が同じ高さに来て、近づいた瞳の色は、平静で深い青色。
その色に見入っているうちに、胸ぐらを引き寄せられ更に近づいた顔がぶれ、横面に飛んできた衝撃で、頭が大きく振られた。ミロの拳が重く、左の頬を撃ちぬいて、口の中に鉄の味が拡がる。
「今度馬鹿げたことを言ったら、撃ち損ねた残りの一発を刻んで、その意味のない人生を終わらせてやる」
静かながら断固とした口調で下される言葉は、いつぞやの断罪を告げる天の声のように聞いた。否定しようとしてみたが、やはり声が出ないのは、一方で納得している自分もいたからで。まさに言いたかったことなのではないか。誤魔化しきれない、それは恥ずべき自分の、弱い本性だ。
「意味が、ないか」
「ないな」
間髪入れずに返された言には、反抗したいという意思は生まれず、そうかもしれないと、ぼんやり思った。
反論しようとしない俺を食い入るように見るのは険しい顔で、ただその瞳に浮かぶのが憤りではなく、どこか苦しげなような色に、何故だか分からないまま僅かに胸が痛む。なんで、こいつがこんな目をするんだろうか。
「お前の命は、何のために繋がれた」
覗き込んでくる視線の強さに、だがそれ以上の真剣さに、目を逸らしたくなる。ミロは、締めていた襟首のシャツを離し、代わりに俺の両方の二の腕をきつく掴んだ。
「与えられるものをただ受け取り、失うことを恐れるためか。違うだろう?」
怪我人とは思えない強固な力で引き下ろされる。それとも俺の力がどこにも入っていなかったせいなのか、引かれるままに下に座り込んだ先には、先程下肢が引っかかった丸椅子があった。一緒に降りてきたミロの視線は、その間も確かに俺を見ていて、逃れることを許さない、というより、翳らない光を確かに示していて守るように降り注がれる。向かいのベッドに浅く腰を掛けて、掴んだ腕はそのままに、しっかりと俺の目を見て言う。
「俺たちの命は、守るために使う命だ。その覚悟がない者など、この聖域にはいらん」
分かっている。それが正しく、誇り高い戦士の姿であることは。これ以上無様を晒さないように、なんとか答えようとした声は、喉の奥で掠れて音にならなかった。
「俺の命は女神に捧げた。いつ、失うものとも分からん。女神の聖闘士の誇りを愚弄するようなことを、二度と言うな」
訪れた沈黙に、たぶん求められているのは許諾の返答だろうということは分かっていた。
どんな敵を前に、己の命を懸けて女神のために戦うことを、俺は躊躇いはしないだろう。それはこの男も同じで、それが俺たちを繋げる唯一で絶対の絆で。なのにこの男を失う覚悟を受け入れきれないでいることは矛盾していて、その誇りを軽んずることでもあり、だから、知られたくなかった、誰よりこの男には。
たった今俺を殴った拳の示すままに怒り、罵倒してくれればいいものを。情けない俺に愛想を尽かして、冷めた目で見てくれれば、その方が幾分楽になる。きつい言葉を吐きながら、何でお前が、そんなに苦しそうにするのか。お前にそんな目をさせたいわけじゃないんだ。なのに。
「お前を失うことが、怖かったんだ」
やっと、絞り出すように出たのは、矛盾を承知しながらなおも燻る心の叫びで、どうしようもない、軋んだ悲鳴だった。
静かな瞳で見守っていた男は、そんな俺の様子を見て、それから何も言わずに、掴んでいた腕を離して力なくうなだれる俺の上体を引き寄せた。包帯越しの肩に、触れる痛みなぞ感じはしないとでも言うように強い力で俺の顔を押し付けた。まだ生々しい血の匂いが微かに残る。頭を押し付ける腕の力は強いのに、背を叩くもう一方の手は不釣り合いに優しくて、発する言葉もまたそぐわない。
一呼吸おいてから、続けられるミロの声はあくまで淡々としていて、それを耳元で聞いていた。
「いつまでかはわからんが、それまでは、俺の傍にいることを許す」
背中に添えられていた腕がその動きを止めて、僅かに力が籠るのを感じた。
「俺の傍にいろ」
やはり声は出せずに、かわりに肩口でなんとか、頷いた。
「誰かのせいで疲れた」
腕の力がふっと緩んで解放されたのを寂しく感じながら、笑ったミロの顔をもうずっと見ていなかったような気がして、懐かしく思う。ミロはそのまま、ベッドに仰向けにひっくり返り、大げさにため息をついた。
「すまん」
決まりの悪い、情けない顔が可笑しかったのだろう、口元の端だけ上げるこの男特有の笑い方をする。
「身体も痛いな。余計な力を使ったからな」
だが馬鹿にするような嫌な笑い方ではない。その違いは微妙だけれども、この男なりの親愛の情を表すこともある。
「悪かった」
ベッドの上でごそごそと体を回し、薄い掛布を引き寄せて丸くなる。丸くなるのはこいつの癖だ。寝る体勢をつくりながら、ちらりとだけこちらに視線をよこす。
「悪いと思うならそこにいろよ」
広くはないベッドだが、それでも不自然なくらい端に身を寄せて横を向き、落ちかかっていた俺の髪をひと房掴んで引いた。引かれるままに顔を寄せる。前髪が軽く触れ合った。
「俺だって、誰の傍でもゆっくり眠れるわけではないんだ」
知っているだろ、口の中で呟いてから、間近にある視線を合わせてくる。そこから更に引き寄せられて、合わせた額の下、小さく告げられる命令を聞いていた。
「俺が眠るまでそこにいろ」
「あれは何だ?」
「番犬のつもりなんじゃないでしょうか」
「番犬が寝てしまっては、用を足さないではないか」
「そう思っているにしては、あなたも、随分嬉しそうな顔をしていますよ」
量の多い癖毛に覆われて眠る男の体は、狭いベッドの中の更に端に丸まっていて、その横で丸椅子に座ったままベッドに突っ伏している男の肩も、穏やかに上下している。
「珍しいものを見た。あれが安らかに眠っているのを見るのは久しぶりな気がする」
困ったものだと言いながらも、緩んだ兄の顔は嘘をつけない。
大の大人の、しかも普通より体格のいい男どもで、そのうえ髪も長くてうっとうしい程量が多い二人が、互いの頭を寄せ合って寝息を立てている。
「これが微笑ましく見えるのなら、あなたの目も相当に偏ってものを見ているように思えますね。私には暑苦しいだけに見えますけど」
そう言うムウの笑顔も緩やかで、皮肉の影は見られない。
誰かの気配にも気づかぬほど、のうのうと眠る。戦士としてどうなのだということは、あとで説教でもされてやればいいだろう。
互いの傍が安心して眠れる場所であること。つまりはそれが、答えである。