更夜を横切る光の帯。天球を別つ星の河。
 揺蕩う宵の半月の、船に渡され巡り合う、年に一度の星合いの刻。
 流した涙が雨になる。

 大きく切り落とした石造りの窓から眺める西の空の地平線に、青白く光る半月が弦を残して沈もうとしていた。日が落ちると日中のうだるような暑さが嘘のように、辺りの気温を下げる。涼しげな風に吹かれて、天蠍宮の石壁の窪みに溜まっていた雨露が、ぽとりと遥か眼下に落ちて消えた。草木を濡らす匂いには、止んだばかりの雨の名残りが感じられる。
 まだ宵のうちから、何をするでもなく漫然と、こうして窓際に佇んでいた。夜の空を薄明かりに照らしていた月が姿を消すと、それまで隠れていた星々が、俄かに輝きを増し始める。もうすぐ日がかわる。これからは、出会った星たちの時間である。
 ことり。暗がりの向こうがたてた小さな物音に、ミロはゆっくりと顔を向けた。どこからともなく潮の香りを連れてきた懐かしい気配は、遠慮がちに入口で、その歩みを止める。
「月はもう沈んでしまったぞ」
 まだ見えない顔に投げかけた声は、高い天井に響く。灯のない室内で頼りになるのは、今や、窓から漏れ入る微かな星明りのみである。長身の人影は逡巡するように肩を揺らし、それから、意を決して一歩を踏み出した。
「今しがた、乗った船が着いた」
 その答えに、ミロは、ふ、と口元だけで笑う。みたてた船でどこを渡って来たと言うのか。ロマンチストもいいところだ。だが、分かる自分も同類かもしれぬ。
 天空に零れた乳白色の環、銀河という呼び名の方に、馴染みがある。だが、たまには、東の大陸の言い伝えに、思いを馳せても良いではないか。今夜はそういう夜なのだから。
「息災か」
 間近にやって来た男の顔は変わらず端正で非の打ちどころがない。だが、のせた表情は、叱られるのを待つ子供のようにどこか強張っていてぎこちなかった。本当にどうしようもない。今更、こんな時に怒りなどするものか。
「見ての通りだ」
 そう言うカノンの顔が、少しばかり痩せたように見えるのは、柄にもない感傷のなせるわざだろうか。ミロは窓辺に寄りかかっていた体を起こし、鱗を持つ衣を身に纏った男に向かい合った。曇りのない太陽の輝きを放つ黄金とは異なるその煌めきは、きらきらと海の波に反射する七色の光を見ているようで、なんだか無性に苦しくさせる。初めて、その姿を目にした時の痛みとも怒りともとれぬ感覚が、体を通り過ぎ、だが、それももう、随分昔のことだ。
「どれくらい経つ?」
「六月と十日」
 一切便りを寄越さなかったくせに、即座に答えたカノンの心情を理解できないほど、繋がりは浅くはないと思っている。だから、待っているのだ。本来の性分を押し留めて。
「聖域で、何か変わったことは」
「女神のご要望で七夕祭りを。宝瓶宮に大きな笹が飾られている。後で見に行ってみるといい」
 一言切ってから、ミロは続けた。
「つまりは、つつがなく平和。ということだ」
 ふっと笑い、緩んだミロの雰囲気に、幾分安堵した風情が伝わってきた。
「それを知っていて、来たんだろう?」
 口唇を歪めて薄く笑うカノンの複雑な顔の意味も、おそらく正確に分かっている。口実が必要な大人は厄介だ。
 当然身長差も変わらぬまま。僅か上からミロの瞳を覗き込む碧眼は、夜の星明りがよく似合う。深海の色、今、この男が身を沈めるその場所と、ここ聖域の間を別つ河は、誰の手によるものだろう。
「何を願った?」
 自分への問いには答えずに、笑ったままで問うたカノンから、目を逸らさずにミロは答える。
「雨が降らないようにと」
 開かれた瞳孔に星光が映り、すっと奥に吸い込まれていった。伏せた睫毛の下の碧の瞳が、なんだか泣きそうに揺れる。
「雨が降ると、お前泣くだろう?」
「……逆だ。会えなくて、流した涙が雨になるという」
 天の河の両岸に別たれた二つの星。年に一度の逢瀬の夜に、降った雨で溢れた河に、阻まれ嘆く涙の雨。
「いや、合っている。だが、どちらでもいい。半分は叶った」
「半分?」
「半分」
 肩に乗せられた頭の重みを感じながら、後頭に回した腕に力を込めた。
 本当に、願ったのはそういう意味ではない。だが、分からないなら、ずっと知らないままでいい。
 隔てる河などありはしない。増水しても河ごとき、一方通行の渡し船などに頼らずとも、お前が会いたいと言いさえすれば、いつでも越えて行けるのだ。
 降り続いたのが四十の昼夜、水の引かない百五十日。
 女神への贖罪を果たしても、ノアの洪水になぞらえた長雨への悔恨がつきることはない。背負って生きていくと言うのなら、それを止めることはしない。だから、せめて、願うことにする。
 雨が、降らないように。
 その胸の内に降る雨が、いつか優しく包むものだと知る時まで。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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