「ミロ、頼みがある」
「断る」
 思い描いて半年、練ること三か月、下準備に一か月かけた周到な計画が、三秒で終わりそうになっても、めげないのが、カノンという男である。
「聞かずにそれはあんまりじゃないか」
 一瞬遠のいた意識を立て直して、すかさず会話を繋ぐ粘り強さは、たぶん長所だ。しぶとさと打たれ強さには定評があるのだ。黒いやつ並みに。
「お前が俺に頼みごとなどしたことがあったか。どうせくだらんことだろう」
「初めての頼みごとなら、少しは叶えてやろうかと思う優しさは、お前にはないのか」
 よく聞いてみると、確かにあんまりなのはミロの方な気もするが、結論から言うと、最も正しかったのはミロの野生の勘である。間髪入れずに答えたのも、対カノン自動スキルが発動したからに違いなかった。
「それなら尚更聞くぐらいよさそうなものだろう」
 しかし、この程度のことですごすごと引き下がるくらいならば、はじめから話題に上らせはしないのだ。食い下がるカノンに、ミロはあからさまに胡散臭そうな顔を向けたが、一応、情を交わす相手へのひとつまみくらいの優しさはあったらしい。ふんと鼻を鳴らしてから、鷹揚に答えた。
「そこまで言うなら、聞くだけ聞いてやってもいい」
 こうして、カノンの長い夜は、幕を開けたのだった。

 ミロが双児宮へやって来たのは、夕刻過ぎのことだった。互いの宮を行き合うようになって久しいが、通うのはカノンの方がずっと多かった。ミロの来訪は気まぐれで、毎日来るかと思っていれば、ぴたりと途絶えることもある。時間もまちまち。未だにカノンは、正確には、この猫科大型猛獣の行動を、把握しきれてはいなかった。
 だが、犬科か猫科かが判明すれば、行動パターンは格段に読みやすくなるというものだ。ヒト科では? というつっこみは、もっともではあるが、つまらないので捨てておく。縄張りパトロールは猫科の日課、どこに落ち着くかは気分次第。居心地のいい寝床と、口にあう食事、適度な強さで髪を撫でる手がありさえすれば、居つく確率はぐんと増す。強いてはいけない。急いてもいけない。自由に気ままに機嫌よく、過ごしてくれればそれでいいのだ。それは、作戦というよりも、猫にメロメロな猫飼いの日常なのではないかという疑問が分かる人には、きっとカノンの気持ちも分かるだろう。
 腹も膨れて、酒も少々、風呂にも入り、後は寝るだけ。誘えばきっと、嫌とは言わない。もうすぐ日付は変わるころ。
 こうしてカノンは、某月某日、大雑把で周到な計画によって手に入れた千載一遇のチャンスに、意を決して切り出そうとした、のが三分前。

「しかしそれでは話せんな」
 受けたダメージはおくびにも出さず、思案するようにカノンは言った。裏では、頭を光速に回し、百八通りのシミュレーションパターンを叩き出す。人はやり直せるものなのだ。一度失敗しても、次を過たなければ、人生に希望は繋がれる。
「その前に約束しろ。聞いたからには叶えてやると」
「おい、意味が分からんぞ。何故に俺が言うことをきくことが前提となっているのだ」
 カノンは、煩悩の数だけ想定した分岐のうち、慎重に一つを選んで答えた。
「男の沽券にかかわる問題だ。俺もいい歳になるからな。口にするのに決意が必要なことが、世の中にはあるということだ」
 言い回しにも気を遣う。さりげなくも、伝わるように。
 ミロは、その実勘が良く、ものも見ていれば、頭の回転も速い。そういえば、今日の昼間に会ったサガは、妙にそわそわしていたものだ。明日のミロの予定を聞いて、特にないと答えたら、分かりやすくうなだれていた。それからしばらく、カノンが好きな食べ物だとか(そんなことはもう知っている)、小さい頃のことだとか(二人揃って出かけられたことはほとんどないそうだ)、一人で出かけた場所の話を後でカノンに聞かせたり(カノンはただ何も言わずに頷いていたと)、脈絡のない話が続いた。そんなにカノンが気になるのなら、明日は二人でどこかに行って来たらどうだと言ってみたら、少し困った顔をして、そうだな、と曖昧に笑っていた。
 ミロは、外から見てもほとんど分からないくらい、厳しく釣り上がっていた目の角度を緩めて、やはり鷹揚に言った。
「言ってみろ。ただし聞くだけだ。きいてやるかどうかは、話次第だ」
 そうだ。明日は、双子の誕生日。

 カノンは神妙にうなずいてから、ミロに向き直った。口に出すまで数十秒。
「口でして欲しい」
「何をだ」
「ナニをだ」
「……」
「……」
 一応、最初に断った。くだらん類の話だと。
「何かと思えば馬鹿か! くだらん!!」
「くだらんとはご挨拶だな。俺がどんなに葛藤していたものか」
「くだらんものをくだらんと言ったまでだ。そんな他愛のないことに、頭を悩ます方がどうかしている」
「お前と違って繊細なんでな」
 どの口が言うと言いたいところだが、煩悩が多いほど、引き出しは増える。カノンは、ミロの汚らわしいものを見るような目付きを鮮やかにスルーして、爽やかな笑顔を作った。
「だが安心した。俺の心配は杞憂だったわけだな」
 ちなみに、ミロの目付きにちょっと萌えたのは秘密である。
「そんなにあっさりときいてもらえるのなら、悩む必要などなかったな」
「はあ!? 今の話の流れでどうしてそうなる!」
 至極当然なミロの反応は、裏を返せば想定内。
「他愛のないと言っただろう。ちっぽけな男のささやかな願いをきくくらい、お前には容易いことだったな」
「そういう意味で言ったのではない!」
「二言はあるまい。男だろう」
「煙に巻くな! お前の話術には誤魔化されんぞ」
「こんな時でもなければ、頼めないんだ。な、いいだろ」
 プライドを刺激しつつ、情にも呼びかけ、ねだってみる。ここまで来ると、単になりふり構わずの部類なのではないかと見えなくもないが、言わないでおいてあげて欲しい。他人から見てどんなに馬鹿らしいことも、当人にとっては重大問題なことは、往々にしてある。
「いいわけあるか! 何故俺がそんな商売女のような真似をせねばならんのだ。そこまでやって欲しければ、その辺の女にでも咥えさせておけ!!」
 だが、必死の思いが、必ずしも伝わるとは限らないところが、現実のシビアなところでもある。ついに我慢できなくなって、深夜に響く大声を上げたのは、当たり前のようにミロの方だった。
「ひどいな」
 カノンは少しトーンを下げ、肩を竦めてみせた。
「俺は商売女扱いか? いつもやってやっているのに」
「頼んでおらん! お前が勝手にことをすすめるんだろうが!」
 そして、いくら予想していたとしても、実際に言われた時の痛みまでは想像できていないのも、よくある恋愛事情である。
「そうか気にいらなかったのか……」
 カノンは軽く笑おうとしたが、頬のこわばりに妨げられた。へこたれないのが取り柄ではあるが、恋する相手への防御力はゼロに近い。
「嫌ならもうしない」
 これ以上、ブロークンハートになる前に、撤退。
「……」
 と、決意した矢先、ふと、微妙な間でもって口を噤んだミロに、カノンは気がついた。一瞬眉間に皺を寄せ、難しげにつくるしかめ面。はっとするでもなく、怒り出すでもなく、考え込んで、でもどこか、歯切れの悪い。
 直前は何を話したか。そんなに深刻な話をしていたか?
 恋は盲目、まったく的外れに突っ走るのも恋ならば、やけに鋭くピンと来るのも、恋する男ならではである。
「……何が可笑しい」
 自然顔が緩んだ。カノンをギロリと見て、ミロの口元がぴくりと引き攣る。
「いや、お前。そんなに深刻な顔をしなくても」
 堪えきれずに笑い出したカノンを悔しそうに睨みつけて、ミロがくるりと身を翻す前に、カノンはふかふかの髪ごと腕の中に収めた。
 実は好きか。そんなに好きか。
「分かっている。心配するな。好きな時にいつでもやってやる」
「やって欲しいとは言っていない」
「だが嫌ではないんだろう?」
 耳元に口を寄せて言ってやると、むすっとしたまま返事はない。必死に男のプライドを守ろうとするのも、言うと怒るから言わないが、可愛くて仕方がないんだとカノンは思う。こういう姿を見られれば、何だかもう、姑息な策も残りの煩悩も、全てどうでもいいように思えるから、不思議なものだ。たった一言一仕草で、気持ちは天にも地にも行く。
「さっきのは言い過ぎた」
「ん、何がだ?」
 腕の中でミロがぼそりと言った。
「お前を商売女の代わりと思ったことはない」
 女にもお前にも悪かったな。そう付け加えて、ばつの悪い顔をしたミロに、シチュエーションとは場違いに、カノンは少し感動していた。悪いは悪いと認められる潔さは、いつもカノンの上に輝く憧憬の光だ。
「俺もだ」
 カンはぽつりと言った。
「お前だからして欲しい。誰でもいいわけじゃない」
 出てきた言葉は頭のどこも通らずに、心から直に口へといった。
 今度のミロは、大人しかった。勘が良いし、ものも見ている。つくりものには目もくれないが、物でも心でも感情でも、本物を映す目は青い。
「……期待はするなよ。よく分からん」
 青い瞳を揺らして、腕の中のミロが小さく呟いた。
「どうすればいいか、とか」
 目を剥いて覗き込んだ顔は、相変わらず仏頂面だったが、仄かに恥ずかしそうなのが、もうそれだけでどうしてくれようという感じなのだが。
「経験はないのか?」
「あってたまるか。どうしたら男のものを咥える機会が巡ってくるというんだ」
 大層間の抜けた質問だったが、むっとして間髪入れずに返ってきた返事は、つまりはそういうことで、だからまったく、そこまで俺を喜ばせて、いったいどうしようというのだこいつは、本当に。
「例えばこういう時なんだが」
 危うく逃げられそうになるのをぐっと捕まえ、カノンは顔を綻ばせた。
「すまん。つい嬉しくてな」
 用意も周到も、結局いつも、ミロの前では吹きとぶ。
「上手くしようとする必要はない。お前がしてくれるのなら、それだけで」
 なんだかんだで丸く収まるのが、この二人の常であると、二人以外の聖域の住人は、もうみんな知っている頃の話。

 ベッドに横たわる姿を見るのはもう珍しくもないが、下肢の間の低い位置から見上げる視界は、いつもと違う。こういう風に見えるのかと、カノンの碧眼と見交わしてから手元に視線を落とし、ミロは思った。半勃ちの根元を両手で支え、そっと近くに唇を寄せる。口で言うほど抵抗はない。見ている景色もしていることも、カノンのすることをなぞるのだと思えば、嫌悪感もない。カノンはどう思っているか知らないが、普段は余裕でミロを翻弄するくせに、全くその自覚がないから、腹立たしいのだと、ミロは思う。
 だいたい、本当に馬鹿なのだ。本当にまったくくだらない。せっかく年に一度のチャンスを、こんなことに使うとは。それよりもっとくだらないのは、そうでもせねば叶わないのだと、こいつが思い込んでいることだ。
 生まれたことを祝福と知らずに生きてきた男が、ようやく知るようになったのだ。誕生日は祝われても良い日だと。そして、望めるようになったのだ。人並みに何かして欲しいと。態度はともかく実は優しいこの猫は、きっとなんだって叶えてくれたことだろう。
「しかし、お前も奇特な男だな」
 ミロは触れる直前で唇を離し、カノンを見上げた。
「男ならば誰しも好きなものかと思ったが。年に一回で気が済むとは」
 カノンが疑問の形を口にするより早く、ミロは続けていた。
「"誕生日の"お願いなんだろう? これは。そこまでお前が気負った頼み事だ。そうそう易々としていては有難味もなくなるというもの。せめて、心ゆくまで大事にしてやろう」
 そう言ってから、ミロは手の中のものに、口を近づけた。
「待て!」
「どうした? して欲しいんじゃないのか」
「して欲しい! が!」
 カノンは、きょとんとするミロの手を止めて言った。
「確かめておきたい。願い事の有効期限はいつまでだ?」
「誕生日中に決まっている。終われば無効だ。当たり前だろう」
 もういいか? と目で言うミロに、カノンは迷った末に、ようやく口にした。
「ミロ、もしも俺が、誕生日ではない日に頼んだとしたら?」
 少し考えてから、ミロは答えた。
「俺の気が向いたら、だな」
 そして、口の端を軽く上げる。
「気が向いたら、いつでも」
 男の欲には限りがない。でも、最初から諦めているこの男には、ミロに関することはどこまでも欲張ったっていいのだと、ミロ自身は思っている。でも、今は。
「ああ、そろそろ日が変わるな」
 呻くカノンを可笑しそうに眺め、ミロは半分硬くなったものを無慈悲に放り出した。ひょいと跳んでカノンの横に寝転がり、耳の傍で囁いた。
「誕生日の有効期限は丸一日だ」
 にやりと笑う顔はいつものお決まり。
「たっぷり時間はある。よく考えるのだな」
 ミロは、頭を抱えるカノンをよそに、ごそごそとシーツの中に潜り込んで、あっという間に寝息をたて始めた。
 カノンの一年で一番眠れない長い長い夜は、まだ、始まったばかり。
 そう。今日は、双子の誕生日。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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