翼をください夜空を横切る光の帯を、河に見立てた人々がいた。天球を流れ出した乳の環と、見る人々もいた。 白くなくてもいい。翼があれば。 ノーザンクロスが指し示すものは一つ。そんな国に住む者たちが祈った、一夜限りの願いごとの話。 太陽の恩恵を受けた聖域の中で、夏の盛りであってもどこか涼しげな空気を纏っているのが宝瓶宮である。その宝瓶宮に、一段と爽やかな風が吹き抜けていったのは、数日前のことだった。 「これはまた、どういった趣向だ?」 友のもとを訪れたミロは、宮の入口に飾られた見慣れぬ植物を見止めて、呟いた。さらさらと風にそよぐ緑色の尖った葉は心地よい音を運んで来たが、ギリシャという国の、こと石造りの十二宮にあるには、大変そぐわぬもののように思われた。 「ミロ、知らないのか? これは笹と言うんだ」 二人の少年が振り向いた。答えたのは、ミロと馴染み深い少年の方である。氷河は、銘々の文字の書かれた細長い紙を、その笹の枝に結ぶ手を休めて答えた。もう一方の少年、アイザックは、無言で、礼儀正しく会釈をした。 「沙織お譲さんが、聖域でも七夕をやってはどうかと言うから」 概ね予想通りの答えだ。女神が聖域に戻られてから、彼女の育った日本の風習が、度々聖域にももたらされるようになった。はじめは困惑していた者たちも、今では大分慣れ、次の行事は何だろうかと楽しみにするようになっていた。 今回の行事主任を仰せつかったのがカミュ、と、なれば、当然の如く手伝いに馳せ参じるのが、この弟子たちということだ。 つつがなく平和。それは、実に喜ばしいことだと思う。心から。 ミロは、氷河のアイスブルーの瞳を見返し、フッと口元を上げた。薄い金色の髪が、笹の葉と共に風に揺れている。 「で、その七夕とやらは、どういったものなのだ」 「日本の行事なんだ。七月七日にやる祭りで、短冊に願いごとを書いて笹につるすと叶うと言われている」 「それは祭りでの風習だな。起源はまた別にある」 宮の奥から聞こえてきた声に、涼しさが一層増す。 「そうなのですか」 師を前にすると、自然、姿勢が正されるのは、長年の習慣の故だろうか。だが、表情は柔らかい。 「牽牛、織姫の話を知っているか。アイザック、氷河」 「それは聞いたことがあります」 氷河が答えた。 「発祥の地中国では、鷲座のアルタイル、琴座のベガを、それぞれ、牽牛星、織女星と呼ぶのだ。二人は夫婦として仲睦まじく暮らしていたが、仲が良過ぎて仕事をおろそかにしたため、天帝の怒りをかった。二人は天の河の両岸に別たれ、織姫が本来の天分である機織りに努めるならと、一年に一度、七月七日に会うことを許されたのだ。祭られる織姫に裁縫の上達を願うことから始まった祭りゆえ、芸事に利益があると言われている」 「芸事というと、俺たちは技のことを願えばいいのか」 氷河はアイザックを肘で小突き、そっと耳打ちをした。背も体格も、氷河と然程変わらないのに、大人びた面差しは、既に少年を脱し、青年へと変わろうとしている。私語を嗜めるように、アイザックは片側の目で氷河を制した。 「もとはという意味だ。何を願っても構わない」 師の一言一言に律儀に頷く氷河と、表情を崩さずじっと見つめるアイザック。ミロは、かつて彼らの修行の地であったシベリアのことを思った。昔からこんな調子だったのだろうか。弟子をもたないミロには分からないことが、師と弟子たちとの間には多くあるのだった。 カミュは二人を交互に見てから、言葉を継いだ。 「逸話には続きがある。天の河を渡すのは、かささぎが橋を架けるとも、上弦の月が船となるとも言われているが、雨が降ると水かさが増し、渡れなくなってしまうのだ。故に、七夕の夜に降る雨のことを、催涙雨と言う。織女と牽牛の流した涙の雨だそうだ」 「ひどいな。別れても会いたいと思うに決まっているだろうに」 「あくまで異国の言い伝えの話だ」 神妙な顔つきをする氷河に、カミュもまた難しい顔をする。顔かたちや姿は違っていても、どことない雰囲気というか、この二人は、よく似ている。 「それを渡すのが、君の星ではないのか」 口を挟んだミロの方に、同時に二つ、遅れて一つの顔が向いた。 「ノーザンクロスは、河の両岸に翼を広げているだろう」 「ああ、確かに」 氷河は、得心したとばかりに大きく頷いた。 東の国ではかささぎが渡すという橋を、西の国では翼を広げた白鳥と見た。時代も場所も、遠く隔たってはいても、星を見上げて似たように空想を思い描く。人は繋がっているという証拠だと、ミロは思う。そして、ふと、ここにはいない一人のことを想った。見上げる星空のない場所でも、きっとどこかで繋がっている。 「なら俺は、雨が降らないことを願おう」 唐突に言い出した氷河を、今度は同時に三人が見た。なんでもないように、氷河は続けた。 「誰だって、会いたい人に会えないのは辛いだろう」 純白の大きな翼をもつ少年。その翼は、折れることを知らない。瞳に映る空は、どこまでも高く、青い。笑顔の眩しさに目を細めたのは、ミロだけではなかっただろう。 「あなたも書いていかないか?」 氷河は一枚の短冊を、ミロに差し出して言った。 「俺はいい」 ミロは静かに目を閉じて答えた。 「でも」 「願いは自ら叶えるものだ。誰かに叶えてもらうものではない」 行き場なく、寂しそうに彷徨った氷河の手を収めさせ、ミロは笑って言った。 「君が、俺の分まで書いてくれ」 日は西へと傾き、準備は滞りなく終わろうとしていた。 今日はこの辺で。共に夕餉をとの氷河の熱心な誘いを辞して、ミロは天蠍宮への帰路につく。師弟水入らずを邪魔しては、俺がカミュに恨まれるからなと冗談めかして言えば、すぐさまそんなことはない我が師もミロが一緒の方が嬉しいはずだと、生真面目に反応するのを止め、ミロは軽く手を振り別れを告げた。空の色の瞳が、宮の中へ引っ込む前に、何度も残念そうに見送ってきた。 帰り際にもう一度見上げると、西日に照らされ赤く染まった笹の葉が、夏の夕暮れの爽やかな風に吹かれていた。飾られた五色の短冊の数だけの、願いごとを抱きながら。 「いいのか、行かなくて」 ミロは、笹の前に佇むアイザックに声をかけた。師弟水入らずの中には、彼のことも入っている。カミュと氷河が作業を終えた後も、アイザックは一人残って続けていた。横顔からは、表情は読めない。読めないのは、ミロの方に向ける側には、感情を映す瞳がないからだと気がついた。 「氷河たちが待っているぞ」 無口な隻眼が、じき行きますと、小さく答えた。 それがいつからか、ミロは知らない。三人でシベリアにいた時からのことなのか、別たれた道が遠く離れていったせいなのか。 カミュと氷河に一歩引いて接するアイザックの心情も、何事もなかったように振る舞う氷河の心遣いも、時々はたと止まるカミュの仕草も、ミロの立ち入るべきものではない。 聖戦後、神々も各界の戦士たちも蘇った。かつての遺恨はすべて水に流し、女神と海皇の間に和平がなったことは、歴史的な出来事である。結果、クラーケンの海将軍として、氷河と戦い死んだアイザックも、こうして度々聖域にやって来ることができるようになったのだ。しかし、人の心は、そう単純には出来ていない。 無情の半面の裏側は、どんな顔をしているのだろうか。そう思って改めて眺めると、アイザックの持つ気配は、彼の師とも、弟弟子とも、あまり似ていないのだった。 「俺に翼はない」 仮面の横顔がぽつりと言った。 何のことか、ミロには分からなかった。何故、ミロに言うのかも。夕暮れの赤とざわめく葉の音に誘われた寂寥か感傷が、たまたま零れでたその刻に、通りすがっただけかもしれない。だからミロも、その時、感じたままを口にした。 「翼なら、そこにある」 自分に向けられた指を見返し、初めてこちらを向いた顔には、驚きの表情がのっていた。 女神アテナと蘇った海皇ポセイドンが邂逅を果たした夜、出来ることは、会談の行方を粛々と見守るだけだった。沙汰を待つ間、各々の思いを胸に、足を運んだ海の中のアクアリウムは、豪奢なホテルの下にあるとは思えないほどひっそりと、神秘的な青い色に覆われていた。ガラス越しの全天の海。圧倒的な水の底では、ぽつり取り残され、異質なものは自分の方だという思いが、頭をよぎる。 その時、頭上を大きな影が横切っていった。無限の青の中を悠々と泳ぐエイの姿、それはまるで、飛んでいるようにも見えた。 「気休めは要らない、……です」 「俺は思ったことを言ったまでだ」 アイザックと氷河と、この場にいないもう一人と。同じものを見上げながら、違うことを考え、無言で歩いていた。 変わってしまった関係を、悔やむ必要などない。変化は生きている証である。三人の師弟たちが、再び同じ場所で、同じ時を過ごせることを、奇跡と呼ばずしてなんだろうか。 腫れものに触るようではなく、気を遣いすぎるでもなく、ごく自然に共にいるということ。それは緩やかに温かく、染みこんでいくだろう。どんなに忘れまいとしたところで、頑なになりきることなど、人には出来ないのだ。生きていることの力は、それほどまでに、強く、大きく、エネルギーに満ちている。 ミロはひらりと身を翻し、アイザックを残して、下りの階段に足を掛けた。 「何も聞かないのか。……あの人のことは」 追う声が、背中に届いた。 「特に聞くようなことはないからな」 振り返らずにミロは答えた。 同じ水の空を見上げていたもう一人は、海に潜ったきり、未だ一度も帰らない。 「知らせがないのは息災だということだろう。違うか」 「……違いはしない」 渡れない河も阻む天の声もあるわけではない。あったとしても、誰かが渡してくれるのを大人しく待つような性分でもない。水かさが増して渡れんと嘆くくらいなら、自分で泳いで渡っていく。けれど。 小器用で不器用なあいつが、一人でけじめをつけると言うなら、気が済むまで待ってやろうと、そう、決めた。 「だが! あなたは……ッ」 石の段を蹴る靴音に重なった声音は、それまでミロが知るアイザックのものとは違っていて。抑えきれない小さな叫びに思わず振り向くと、そこには少年の顔があった。傷ついたのは自分だというような。それを恥じて隠すように。大人びて見えても、彼もまだ、子供の範疇の齢。そういえば、氷河よりも生まれは遅かったのだったなと、ミロは思い出していた。 若い心は繊細で感じやすく、そして、柔軟で強い。子供に理解するのは早かろう。いや、分からなくてもいいものだ。大人の意地の張り合いなんてものは。 「そうだな」 少しだけ俯いた隻眼に、ミロはうっすらと微笑んだ。降りた数段をまたのぼり、氷河よりは硬い顔と、徹した強さと、でも同じくらい優しい少年の、遥かに柔らかくない髪に、手を置いて言った。 「一枚、貰おうか」 握りしめた手を開かせ、しわの出来た短冊を、ミロはそっと受け取った。 *** 海の底の神殿。帰ってきた、と今は言う。 長くいたわけではない。愛着とは違う。間違いなく違う。それでも、頭上の空をなす水がつくりだした青い光は、たとえ一時の慰めだったとしても、光を失った瞳には平等に優しく降り注いだ。 魂はいつも、彼らと共に、彼の北の地に飛んでいく。だが、心の一部は、海の底に残された。 「海龍」 アイザックは、翻るマントの後ろから声をかけた。素顔を覆うマスクは、もうかぶっていない。 白鳥座への想いが、憧憬だけだった時は終った。深い海の底で、幾度見上げたことだろう。翼を広げて飛ぶ大空はなく、そこにはあつい水の空が覆いかぶさっていた。 俺はあの時知っていた。ポセイドンが傀儡であることを。俺"たち"なのだ、知っていたのは。だから、俺も同類だ。 十数日ぶりに長雨がやんだ。やむ時を待たずに、一人は死んだ。一人は生きて、その罰にうたれた。どちらが幸せだったのか、答えが出ることはないだろう。再び得た命が尽きるまで、一生、抱え続けていく。飲み込んだまま、生きていく。 「カノン」 言い換えられた己の名前に、振り向いた男は、深海の色の瞳を大きく見開いた。 自分だけが、ぬくぬくと幸せに暮らしてはいけないとでも、思っているのか。馬鹿馬鹿しい。それこそ自意識が過ぎるというものだ。 「あなたがどうなろうと、世の人にとってはどうでもいいことだ」 それは欺瞞かもしれない。だが。 「だから」 短く切って、アイザックは続けた。 「好きに行けばいいんだ。俺のように」 これも嘘だ。でも。 「俺は、あなたがどうだろうと気にしない」 でもいいのだ。俺には純白の綺麗な翼はないのだから。 「俺は俺の意志で此処に留まり、クラーケンの鱗衣を纏った。あなたが、俺のことを気にする必要などない。何もないんだ」 代わりに、水の中を自由に飛ぶ、力強い翼がある。 少しだけ、揺れた言葉尻に、アイザックは唇を噛んだ。 *** 下の宮から見物に来たアルデバランは、大きく枝を揺らす笹の枝を眺めて、ほうと、感嘆の声を上げた。 「随分立派なものが出来上がったな」 青、赤、黄、白、紫、より糸に結ばれた五色の短冊、色とりどりの吹き流し、あみ飾り。どこからか、歌が聞こえてくるようでもある。 カミュは、満足そうに腕を組んで立っていた。横に並んだアルデバランは、その視線の先を追い、ふと、怪訝そうに首を傾げた。 「これは?」 「優しい連中だ。皆、私の自慢の」 枝の低いところに、三色の短冊が、それぞればらばらにそよいでいた。アルデバランは身をかがめ、それから、ぼそりと呟いた。 「同じ願いごとが、三枚……?」 全ての恋人たちに。 たった一人のために。 一組の恋人たちに、せめて――。 |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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