綺麗なお姉さんは好きですか?既に夜は更けていた。近づいてきた小宇宙はよく知るもので、天蠍宮の居宅の扉が断りなく開けられても、ミロは落ち着いたものだった。ソファで寛いだまま動かないのは、勝手に入って来いという無言の許可のしるし。鍵のかからぬドアならば、深夜の来訪者が姿を見せるまで数秒もかからない。たとえかかっていたとしても、開けて入ってこられるのであるが、この人物に限っては。 「一晩泊めてくれ」 ドアを閉めて、ついでにかかっていなかった鍵をかけて現れたのは、やはり見慣れた顔をした、小宇宙から感じた通りの人物。のはずなのだが。やや高い声のトーンと、まるでかの兄の如く数本余分に入った眉間のしわと、苦虫をかみつぶしたような顔に、ミロは違和感を覚えた。なにかが違う気がするのだが。背をもたせかけていたソファから身を起こし、入ってきた人物に向き直った。 「風邪でもひいたか?」 聖闘士が風邪などひくのかという疑問もあるが、とりあえずおかしいのは声だ。それだけではないような気もする、というか、間違いなくもっと何かがおかしいうえに、風邪をひいたら声は掠れるか低くなるんじゃないだろうかというもっともな疑問は、全体的に醸し出される違和感の前に無視された。 つかつかと歩み寄り、隣にどかりと腰を下ろした男の顔を、ミロはまじまじと見つめた。見慣れた今でも綺麗な顔だ。深いため息をついて苦悩を標した表情も、薄絹のように垂れかかる髪に縁どられ、大変様になる。神の化身と呼ばれた兄と瓜二つの外見をしたこの男もまた、神に愛される外見をしている。 ――男。それはミロが一番よく知っている。何故知っているかは想像に任せる。 もともと綺麗な外観ではあるのだが、顰められた眉とその下に伏せられた深く碧い色の瞳は、憂いを帯びて今日は一段と美しい。いや否定したい気がするのだが、瞳の奥に細かく煌めく光に吸い込まれそうな心地さえする。額に当てられた指は長くて、動かす度に優美な弧を描き、形の良い手、余計な肉のついていないほっそりとなめらかな腕が連なり……。 細すぎやしないか? そして顔の位置がいつもより低い。ミロより若干背が高く、僅かだが体格のいいはずの体を、今は確かに見下ろしている。それに、普段比較的タイトなシャツが、今日はやけにゆったりと着られているような。首回りのゆとりが胸元深くにまで及んでいる、となれば。 見てはいけないものを見る後ろめたさを感じつつも、確かめずにはいられない好奇心が勝り、ミロはそのまま視線を下方へと走らせた。 「カノン?」 ミロは漸く言葉を発した。言葉尻がわずかに上がったのは、せめてもの抵抗である。自分の何故かある胸の谷間にあらん限りの不審と驚愕を込めた視線を注ぐ男に、カノンは同じく疑問形で答えた。 「そう見えるか?」 「……一応は」 確かにカノンには見える。サガだと言われれば、今回に限ってはそうかもしれないと騙されてやっても良い気もしたが、ならばサガだということにしておけと答えられでもしたら、やはり全力で問いただす他なくなる。そもそもサガだとしても、ないはずのものがあるのだから、何の解決にもならない。すでに大分思考が変だ。 「何を食った?」 「食い物でこんなことになるか」 当然の答えである。かといって、普通今朝まで男だったものが夜には女の体になっているなど、中国の呪泉にでも誤って落ちなければ起りえないのだから、大きく間違った問いかというと、実はそうでもないのかもしれない。だが、口調は間違いなくカノンであり、本人はそれほど動揺していない様子に、ミロも多少落ち着きを取り戻した。胸を凝視するなど女性に対して失礼なことをしたと気を取り直しかけるも、カノンはそもそも女性ではないわけだから別にいいかと、現実逃避とそこだけ現実の願望が混ざり合った思考は固まっていて、結局視線は固定されたままである。要は結構好きらしい。 カノンはうんざりした調子で、ぐいとミロの額を小突き、上を向かせた。 「じろじろみるな。穴が開く」 カノンにしたら、穴があったら入りたい方である。ミロは名残惜しそうな顔で、目の前の顔にぼそりと呟いた。 「お前は随分落ち着いているな……」 既にひとしきり動揺して一回り回った後なのだが、ミロはそのことを知らない。 「迷惑な神の力の暴走だ。一晩すれば元に戻るだろう」 「そんな神いたか?」 「さあな」 「……」 「……」 本来ここで会話が終わってしまってはいけないのだが、今回はとりあえずそういうことにしておく。二人にも納得してもらうことにする。 「まあ、テロメアを狂わせて、赤子に戻す神がいるくらいだ。染色体をいじってYをXに変える神がいてもおかしくはないだろう」 たとえいたとして、何故カノンが被害者になっているのかの説明にはなっていないのだが、それもこの際おいておく。 「お前まさかまたよからぬ癖を起こして、神を誑かそうとして罰が当たったのか?」 「人聞きの悪い言い方はよせ。あれは若気の至りで、しかもべつに誑かしたわけではない」 カノンの説明によると、どうやらその性転換の神(仮)に、我らが女神が頼みごとに行く供についていったところ、頼みを聞く代わりに代償を払えということで、そばにいたカノンが第一の犠牲者になったそうだ。 「いったい女神は何を頼みにいかれたのだ?」 「女神のお考えは、俺たちには分からん」 繰り返すようだが黄金聖闘士は女神に弱い。ことカノンは兄もろとも特に弱い。これが沙織お嬢さんに慣れ親しんだ青銅聖闘士たちなら、どうせくだらないことですよね、と一蹴できるのだが、彼女をこの上なく美化している彼らには分かるはずもない。神なんだから神格化して当然という向きもあるが、この世界に出てくる神は総じてろくでもないので、彼女だってその一人であるのだから、やっぱりろくでもないかもしれない、なんてことは決して言ってはいけない。 「しかし、それならば、暢気にしていて良いのか? 戻れなくなりでもしたらどうする」 人情家ミロは、こんな突拍子もない設定、元い、状況でも、友人(以上)を気遣う気持ちを忘れない。Sっ気はあるが、大変心優しい青年なのだ。 「いや、大丈夫だろう。ただの嫌がらせのようなものだから、十二時間たてば自然と効果が切れるとおっしゃっていた」 おそらく女神が、であろう。ということは、どうやらこれは、性転換の神(仮)と女神の間に交わされた取引の一環に違いない。 「とはいえ、このなりを聖域中に曝して歩くわけにはいかん。女神は神殿に留まるようにと勧めて下さったが、あそこではサガと出くわす危険が高い。色々な意味で、今の状態でサガと会うのは、お互いの精神的ダメージがでかすぎる」 だからここにやってきた、とカノンは言ってから、もう一度深いため息をついた。なんとなく、取引の一環というよりも、目的そのもののような気がしてこなくもないが、戻るという神のお墨付きがあるならば、さほど焦る必要はあるまい。 サガに会いたくないというカノンの気持ちも分かる。イメチェンした姿で初登校するよりも、家族に冷ややかな目で見られる、しかも相手は自分とそっくり、のことの方が堪えることがある。そういう心境に違いない。サガの方にしても、自分とそっくりの外見をした弟が、そっくりな妹として登場したら、卒倒するならまだしも、ショックのあまり黒くなりでもしたら大変だ。いや、カノンは、サガの自己愛、兄弟愛が高じて、アブナイ兄妹愛にでも発展することを、恐れているのかもしれないが。自分の容姿が完璧で完全だと思っている人間が、自分と寸分も違わぬ美麗かつ性別的にも問題ない(血縁的には問題あるが)姿で現れたら、何をしでかすか。それだけ今のカノンの姿は、人目を引くものがあった。 改めて見ると、今のカノンは、間違いなく美女と表現できた。もともとの長身は、多少骨格が縮んで小柄になりはしたものの、依然180p近くはあると思われ、筋肉がおち幅が狭まった分、華奢でさらにすらりとして見えた。普段よりも高いと思った声は、女性としてはハスキーで、どこか耳に纏わりついてきて鼓膜を擽る。腰まで伸びた髪はつややかに流れ落ち、同じ色の長い睫毛は深い海色の瞳を翳に隠す。顔の輪郭はかわらないのに、頬と口唇がふっくらと、肌に明るみが射すだけで、こうも印象が違うものだろうか。生物の神秘に、感動しかけたミロだった。ところで。 ミロは、大変切り替えの早い男でもある。スカーレットニードルのアクションから真央点に繋げるコンビネーションは、もはや鉄板である。そして、しっかり男である。 時間が経てば元に戻ると分かっているのなら、別段慌てる必要はない。目の前にいるのはカノンである。普段からそれこそ知らぬ仲ではない。そして今は女である。なにか躊躇う理由があるか? 否。 かちりとミロのスイッチが入る音に、今日のカノンは気づき損ねた。突然頭上に影が落とされて、はたと見上げると、ごく近くにミロの顔があった。次の瞬間には、天地が反転して腰を下ろしていたはずのソファに背を預けていた。見上げた先に、やはりミロの顔があって。 「こういう時、どうしたら元に戻るか知っているか?」 愉しげなミロの口調に、カノンは直感的に悟った。このパターンは知っている。普段なら、カノンにとっても願ったりな状況である、が。 「おとぎ話ではたいてい王子のキスで元に戻るだろう?」 カノンにしてみたら、オオカミのところから逃れて、オオカミのところへ逃げ込んだと言うべきなのかもしれないが、いつもは自分の方こそオオカミなので、あまり強いことは言えない。悔いるならば日頃の行いである。 「お前がそんなロマンチストだとは思わなかったぞ。本気でそうだとで信じているのか?」 「いや?」 ニヤリと口の端を上げてミロは笑った。こういう表情をしている時のこの男は、たいてい良からぬことを考えている。だが、こういう時が一番生き生きしているのも事実である。 「それはお子様向けの絵本での話だ。本当の童話では、王子と“結ばれて”だ」 女が抱きたいのか、カノンを抱きたいのか、カノンが女だからいいのか。どれだか真意は分からないが、どれだってやろうとしていることは同じである。 「今更俺とお前の間で、問題になることがあるか?」 「……いや、ないな」 だろう、と言って服に手をかけようとするミロに、せめてベッドにしないか、と、まさか自分の口から出ることになるとは思いもしなかった台詞を吐いて、カノンは三度目の深いため息を吐き出した。あとは、危うく姫抱きでもしそうな勢いのミロを、どうにか押しとどめるだけだった。 *** 「お前……好きだな」 「お前は嫌いなのか?」 「いや……まあ、好きだな」 ほれみろ、と言うかわりに、ミロは顔を埋れさせ、抱きつく腕の力を強くした。 胸元で蠢くふかふかの髪が、子供っぽくていつもより素直で、なんだか妙に可愛くて。これはこれで良いかもしれない、なんてことを一瞬思ってみたとかみないとか。 後は二人だけのひみつ。 *** 「どうせ、そうだろうとは思ったさ」 憮然とした顔を取り繕おうともせず、ミロはベッドの上で胡坐をかき、カノンに背を向けていた。朝目覚めてみれば、当然のように軟らかいものはなく、かわりばえしない立派な胸筋があったからだ。 「戻ったな」 声も体も元通り。不貞腐れた様子で、背を向けたまま頬杖をついているミロを、カノンは後ろから抱き寄せた。こちらが常態である。放っておけと示す仕草に、カノンは思わず吹き出しそうになった。お前、そんなに残念がらなくても。カノンはミロの耳元で、甘い声をかけた。 「俺は見ず知らずの女どもに嫉妬しかけたぞ」 「別に普段と変わらんだろう、俺は」 「自覚がないのか? 終わった後、あんなに抱きつかれたのは初めてだ」 ミロは、ああ、と面倒くさそうに返事をした。 「仕方がないだろう。あっちのほうは、疲れるんだ」 「ああ、確かに疲れるな」 「……」 この日、最大の失言をしたことを、カノンはすぐに悟った。肩越しに振り返るミロの彼の友人並みに冷たい視線から、うっかり目を逸らしたのも、敗因である。 「……お前、そっちも守備範囲なのか」 「……………。誤解だ。俺は、」 「なにが誤解だ。どうりで色々慣れきっていると思ったぞ」 「いや、慣れるというほどには」 「さぞかし俺が些細なことに振り回されているように見えただろうな」 「そんなことは思っていな」 「前も後ろも使い放題か。経験豊富で結構なことだ。いったいどこで習ってきた。まさかこの前も」 「断じて違う! 最近そっちは使っていない。お前以外とはしていない!」 「最近? やっぱり昔はあったのか! 相手は誰だ!? 悪かったな! どうせ俺はお前以外は女しか知らん。というか、それが普通だろう!? なぜ俺の方が経験が足りないような気にならねばならんのだ!!」 「お前が正しい。間違っているのは俺だ」 とりあえず、謝ってなだめすかす作戦に出たが、今日のミロはそう簡単には収まらない。ヒートアップは留まることを知らず。 「ふざけるな!! お前にばかり全部持っていかれてたまるか」 ついに完全に頭に血が上ったミロは、仁王立ちで赤く染まった爪を突きつけ、宣言した。 「万が一俺が女になっても、一晩中遊び歩いてお前には指一本触れさせんから、覚悟しておけ!!」 どんな脅しだと頭の隅で思いながらも、ちょっぴり想像して、それは本気で困る、と慌てふためいたカノンだったとさ。 |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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