辺りが徐々に白み始めた。
 海風に煽られて踊る髪が頬を打つ。顔に当たる風の冷たさに思わず首を竦めて吐いた息は白く、一瞬大気に漂ってから、掻き消えた。両手をポケットに突っ込んだまま歩くカノンの足取りは、どことなく重い。同じように身を縮こまらせて数歩先を行く後姿にかけた声には、願うような気持ちが諦めきれずに漏れ出でた。
「なあ、ここいらでいいんじゃないのか?」
 振り向いたミロの顔は、着こんだ外套のファーフードと、念入りに巻かれたマフラーに隠れて上半分しか見えなかった。いつも以上に眼光が鋭く見えるのは、冴え渡る空気と、その冷気に耐えるよう、顔の筋肉に力が籠められているせいだろう。湿気を含んで幾分延びた前髪が、瞳の縁にかかる。
「もう少し先まで行く」
 口元を覆ったマフラー越しに、くぐもった声が返ってきた。すぐさま前を向いて、緩めた歩みを再び元の速さに戻したミロに続きながらも、カノンは蹴った先に転がっていく石の行方を追い、ふいと目を伏せた。
「よりによって、どうして此処なんだ?」
 ざっざっと砂利を踏みしめて、無言のまま進む男の揺れる背に向けて、ため息を巧妙に隠した声色でもう一度投げかけた。
「此処は」
 一瞬躊躇い、そして、胸の内に燻っていたものとは違う言葉を継ぐ。
「どちらかというと、夕日を見る場所なんだが」
 今更何かに囚われているというわけではない。だが、それをわざわざ口に出して言うことは、何となく女々しいような気がしたからかもしれない。言ったことだって本当だ。夕日の方が、綺麗だと言われているんだ。
 此処、スニオン岬は。

 聖域の年越しに、特別な儀式などはない。日が暮れ、夜が明けて目覚めれば、次の年が始まっている。厳かに淡々と、過ぎゆくのを待つのが常であった。今生の女神が日本の一少女として生を育んできたために、女神への敬愛に行事への物珍しさも加わって、最近では、随分と東の小さな島国の風習が聖域にも伝播しつつあるとはいえ、長年の習慣はすぐに変わるものではない。
 帰る所のある者は去り、銘々が望む過ごし方を許された今年の暮れの聖域は、一段と人気が少なく、閑寂な雰囲気を漂わせていた。珍しくもサガが日本で正月を過ごすという女神に随行し、何か吹っ切れたのか以前よりは頻繁に聖域外に出るようになったミロが、これまた異教徒の風習であるクリスマスとやらに誘われたまま留守にしている十二宮で、カノンはそれこそ一年に一度あるかないかの、のんびりと静かな、だがどこか空虚なひと時を過ごしていた。
 このまま年が終わる。特に感慨もなく、かといって寝る気にもなれずにぼんやりと起きていた一年最後の日が変わる直前に、ギリシャから遠く離れた地にいるはずのミロが、双児宮に姿を現したのには、流石にカノンも少し驚いた。来たと思ったら、いきなり言った。
『今から日の出を見に行くぞ』
 そして今、スニオン岬への途を歩んでいる。

 出所は、日本贔屓の女神か、ミロの友人か友人の弟子かその弟子の兄弟か。大方、滞在先で話題になって、興味をひかれたのをそのままに、聖域へ持ち帰るやいなや双児宮を強襲したというところなのだろう。カノンはミロに付き合うのに、文句を言うつもりはない。だが、一般的には観光地で、夕日の名所であっても、カノンにとってこの場所は、単にそれだけの意味に留まる場所でもない。だから、エーゲ海を臨む小高い岬の突端に、数本の柱を残したポセイドン神殿を仰ぎ見て、カノンは呟いたのだ。どうして此処なのか、と。
「沈むのより、昇るのを見る方が良いだろう」
 意識を飛ばしていたカノンは、いつの間にか立ち止まっていたミロの背に、危うくぶつかりそうになった。
「一年の、最初の日の出を見るのに、意味があるんだそうだ」
 突き当たった先、ひらけた空には既に朝焼けが拡がり、薄黒かった海面も僅かずつ色づき始めていた。柔らかな波が、浅瀬に覗く岩の間を抜けて二人ののる低い岩壁で砕け、軽く飛沫をあげた。
 ミロは真っ直ぐに遠い水平線に向けて顔を上げ、徐々に明るさと赤い色調を強める光を全身で受け止めるように、大きく息を吸い込んだ。それは何かを迎える一つの厳粛な儀式のようで、見守るカノンも自然、丸めていた背筋を正す。女神以外の、起源も理由も知らない異文化の風習を、その実いたく現実的なこの男が、むやみに倣ったり有難がるはずもあるまい。なのに、端然としたミロの姿には、そんな疑問を差し挟んではいけないような、真剣さが溢れていた。カノンは、ゆっくりとミロの隣に並び、己もまた、その瞳が見詰める光源へと視線を移した。
 朝焼けが映り込んだ冬の海は穏やかで、波が細かく揺れる度に、きらきらと赤い煌めきを目に届けてくる。水平線を縁取る空が、薄紅色の羽衣を纏ったようにすっと色を変えた。空と海との境界のすぐ真下で、いまかと出番を待つ太陽の隠しようもない力強いエネルギーの兆しが、橙黄色の輪を空に描く。
「これまでの苦難を洗い流し、心を新たにするのだそうだ」
 色彩が織りなす刻々とした変化に、知らず魅入っていたカノンのすぐ横で、独り言のようにミロは言った。はっきりとした口調に、思わずカノンは隣に並ぶ顔を振り向き、そして不意に、随分前にこぼしたカノンの呟きに対する返事なのだと、悟った。
「此処が、いつまでも苦難の思い出を引きずる場所である必要はない」
 きっぱりと光の射す方へ向いたミロの顔を、赤い光が照らす。ミロの瞳はカノンには向けられず、徐々に輝きを増す光を捉えて離さない。だが、赤い輝きが映る青い瞳と微かに笑った口元で紡ぐ穏やかな口調は、太陽を抱く今のこの海に似て、大らかにカノンを包み込むように感じられた。
「カノン。お前が、見ておくといいと思ったんだ。此処で。新しい年が始まる時を」
 俄かに周囲が明るさを増した。切れ切れの雲の隙間を埋め、淡い水色に滲むように、ほんのりと染まっていた空が、鮮やかに紅に塗り替えられる。光のヴェールが水平線の向こうから海の表面を滑り、足元の岩を撫ぜた。強烈な十字の光線が岩山の影から射し込んで、瞬く間に放射状の光芒を全天に放つ――――。
 そして、周囲を赤い光の氾濫の中に飲み込みながら、輝く星が現れた。
 赤から橙黄、琥珀、それは黄金色に煌めく光。
「太陽の光だ」
 ミロは目を細めて、嬉しそうに声を弾ませた。少し無邪気なその様子は、この男にしては、とても珍しいものだと思う。
 罪や穢れを洗い清め、過ぎし一年の禊ぎをする。身も心も生まれ変わって、新しい年を迎える。此処がカノンの罪の象徴の場所なら、新たな生を受けるのも、此処がふさわしいのかもしれない。
 聞きかじった知識の中で、ミロがどこまで正確な意味を把握しているかは分からない。分からない、が、分からなくても構わないと思う。此処で、生まれ変わる光をカノンに見せるために、ミロは帰ってきた、それが分かっていれば。
「そうだな。だが――」
 カノンは一言一言を、噛みしめて言った。
「俺にとってあの光は、お前の光だ、ミロ。あの時、スカーレットニードルの赤い光を見た時から、俺の新しい人生は始まった」
 太陽は恩恵と共に畏怖の対象である。それは断罪と救済を同時に為した、あの赤い光とよく似ている。
 微笑んだカノンの顔には、先刻まで浮かんでいた複雑な、耐えるような表情はない。
「忌まわしい記憶を呼び覚ますこの場所にも、お前の光が届いていると知れれば、少しは好きになれそうだ」
 今度はミロの方が、真っ直ぐに光に曝されたカノンのすっきりとした横顔を、しばし見詰めて、呆れたように言った。
「スカーレットニードルをそんな風に言う奴は初めてだぞ」
 俺の必殺技がそれじゃあ形無しだと、不満げに口をとがらす。
「そんなに至る所に在っては、有難味も何もないじゃないか」
「どこにいてもお前の光が射す。そう考えれば、世界中が愛しく思えるな」
 冗談ともとれないカノンの言葉に、ミロは諦めたようにふっと顔を緩め、それから思いついたとばかりに勢いよく、海と空を振り仰いだ。
「だが、アンタレスは、初めてだろう」
 赤い光の中心の、たった一つの燃え立つ星を指してミロは笑う。
「赤い光がスカーレットニードルなら、今日の太陽はアンタレスだ。二度と同じアンタレスはない。目にする度に新しい人生の幕開けだな」
 太陽の光が、昇るその度に色を違えて輝くように、巡りくる日にも同じものはない。
 そうだ、こいつの言う通りかもしれない。この黄金に輝く星を見る度に、俺は赤い最後の巨星を想い、請い願うのかもしれない。生まれ変わるその時を刻んだ、赤い光を。

 ミロの肩に頭を預け、カノンはその柔らかい髪に顔を埋めた。冷えた大気の粒子を含み、しっとりと重みのある髪が、寄せた頬にひんやりと纏わる。ミロはちらりとだけ、周囲を気にして身を固くした。まばらな人影は遠く岬の上に見えるのみ。昇る朝の光に、それぞれの明日を願う。
「離れろ」
 言う割には、強張らせた身体の力を抜いて、かけたカノンの体重を緩く支え返してくるのが伝わってきた。
「寒いんだ。温めてくれ」
 カノンはミロの形ばかりの文句を聞き流して、本当は出不精で人一倍寒がりの男の体を温めるように抱き寄せた。
「温いな、お前は」
 遠くから見れば、逆光に曝された二人の姿は、身を寄せた一つの黒い影と映るに違いない。
「やっぱり、太陽みたいだ」
 
 水平線から解き放たれた赤い光は、じきに空高く駆け上がり、黄金の光に身を変えて、世界中に降り注ぐだろう。
 赤い蠍の心臓は、黄金の輝きを纏った俺の太陽で、胸の奥の一番深い部分には、いつでも、どこにいても、その光が焼き付いている。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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