半開きのドアの隙間から、薄明かりの漏れる室内へと滑り込む。奥の寝台の脇に灯された燭台の光が、周囲の様子をぼんやりと浮かび上がらせていた。足音を忍ばせて近づく脇で、豊かな長い髪の先端がベッドから零れ落ち、くるりと巻く。そっとベッドに足をかけると、体の重みで、弾力のあるマットが僅かに沈んだ。
 手足を投げ出して脱力した姿、覗き込んだ顔の表情は穏やかで、はだけて露出した胸は、規則正しく上下していた。目を瞑ってはいるが、その気配から眠ってしまってはいないと分かる。シーツの波に埋もれる素肌に顔を押し付けると、引き切らない汗のにおいが鼻の奥を刺激する。返る反応が欲しくて、首筋から顎へと舌を這わせ、時に甘噛みする。直接肌に触れる毛先の感触がくすぐったかったのだろう。一定のリズムを刻んでいた呼吸に、引っかかりが混じり、最後には堪えきれず、ミロは声を上げて笑い出した。仰向けに転がったまま、少しだけ体を寄せてスペースを開け、俺の方をゆっくりと向き直った。近くから投げかけられる視線は、優しげな、青い色。
「なんだ。昨夜は散々相手をしてやったのに、まだ足りないのか? 仕方のない奴だな」
 甘さを含んだ小声で囁く。ミロは俺の首に腕を回して引き寄せ、自ら頬を摺り寄せてきた。これではどちらが甘えているのか分からない。俺はそれに応えるように、長い睫毛に縁どられた瞼にキスを落とす。ふと気づいて舐めとった目尻の乾きかけた水分の痕は、塩の味がした。
 絡みつく腕は硬く筋肉質で引き締まってはいるが、その仕草は柔らかく、そっと背中まで下ろされた掌は暖かい。この腕に抱き締められる時にはいつだって、込み上げる愛しさで胸がいっぱいになるのだが、厳格なガードが緩み、普段は隠されている情の深さが前面に出て来る今のような時のミロはまた特別だ。背筋を伸ばして凛と立つ、黄金に輝く姿は眩しくて、誇らしくもある一方で、自分との隔たりになんだか無性にやるせないような気分になることもある。だが、そんなミロが、築いた防壁を全て取り払って見せてくれる、ありのままの姿の前には、つまらない感傷などいっぺんに消し飛んでしまう。この時間は俺にとって、ミロを独り占めに出来る至福の時なのだ。
 突然、ミロの肩がびくりと竦み、触れ合っていたはずの顔が離れた。
 ――あいつだ。俺の至福の時を、いつも邪魔しに来るのは。惚けていたミロは気づいていなかったようだが、俺には目を向けずとも、生まれた時から馴れ過ぎた気配は、分かりたくなくても分かってしまう。
「止せ、くすぐったい」
 それは、俺と同じ顔と瞳と姿を持った奴。足をばたつかせたミロが、下半身に纏っていたシーツの中で跳ねる。
 どこに潜って何をしているんだ。外ではすらりと取り繕ったこいつの本性を、美しいだの何だのと誉めそやしている連中に見せてやりたい。俺は忌々しさに唸り声をあげそうになったが、すんでのことで堪えた。絡んでいた腕が外れ、すっと体温が遠のいたのを、寂しいと感じたからだなどと、思われたくはなかった。
 こういう関係が始まってから、どれくらいになるだろうか。もともと、自分のものとなる場所など持っていない。執着や愛着などとは無縁で、どこに行き、どこに流れて行こうとも、縛られず、自由であったはずの俺を絆したのが、ミロだった。“天蠍宮”に出入りするようになってから、なし崩し的に居座るに至るまでの時間は、そう長くはかからなかった。否定しようとしても、もはや出来ないところまで来ていた。ミロの元を離れての生活など、今となっては想像もつかない。だが、俺は、俺がいない間のミロのことを、全て知っていたわけではなかった。

***
 あれもまた、偶然の出来事だった。元来、開放的なことを好む性分なのだろう。基本的に開け放たれていることの多い“天蠍宮”の中で、唯一必ずきっちりと締められていた扉が、その夜に限って、ごく僅かだけ開いていた。何故それが気になったのかは、おそらく理屈ではない。漏れ出る明かりに目が留まったのだったかもしれないし、夜の闇に鋭敏になった聴覚が、僅かな音を聞き咎めたせいかもしれない。ふらふらと引き寄せられて、隙間から覗いた中で見た光景は、俺にとって、初めて見るミロの姿だった。
「………は………ッ……」
 投げ出された足が不規則に揺らめいて中空に浮き、時に引き攣ったようにつま先が伸ばされる。広く波立つシーツの中央に向かい合って座した二人の間に距離はなく、密着した裸体に回された腕は、その落ち着くべき場所を探し、絶え間なく長い髪の間を梳いて彷徨っていた。下から腰が押し付けられるのに合わせて上がる声は、今まで聞いたミロのどの声とも違っており、合間に吐き出される息遣いさえ、やけに大きく耳に響く。
「ミロ」
 呼ぶ声は、俺のものではない。背を向けているミロの表情は窺い知れなかったが、堪えるようにじっと息を詰めて俯いていた顔が、声に応じて僅かに上向くのが分かる。どちらからともなく近づき、重なり合ったことの意味を、俺の頭は理解しようとはしなかった。
「っぅ、……ああ…!」
 再び始まった律動に、逃げ道を探す腰がぐっと引き寄せられれば、背とその先に連なる首筋を伸ばし、喘ぐように上げた顎で、ミロは虚空に小さな声を響かせる。彷徨っていた手と、小刻みに震わしていた脚を、堪らず絡みつかせて体を締め付ける仕草は、促すようにも、捕らえるようにも、縋るようにも、そして求めるようにも見えた。ミロが大きく首を振ると、豪奢な髪の房も獣の尾のように左右に大きく振れる。
 普段はこれでもかという程、警戒心の強いミロが、俺の存在にさえ気づかないほど夢中で我を忘れている様に、振り向かせたいという欲求が勝ったのか、ちらちらと巻いた髪の先が揺れるのに誘われたのか。
 内側の衝動の命ずるままに飛び出していた理由も、説明することは出来ない。突然走った痛みに、驚いて振り向いたミロの肩越しに、碧い瞳と目が合った。見覚えのある深い色、しかしそれは、俺の知るどんな種類の表情も、浮かべてはいなかった。ミロが俺にかけようとした声は、抑えきれずに喉から漏れ出た高い声にとって代わられた。一瞬気を取られた隙に強く突き上げられ、持ち直す前に再度。一度外れたたがをとり戻す術はなく、堪える努力も虚しく、一気に追い上げられていく様を、静止の声さえ上げられずに、ただ見ていた。びくりと一際大きく戦慄いたかと思うと、ミロは背中を弓なりにのけぞらせた。内股の筋肉が痙攣し、足先が突っ張り、喉の奥からは音にならない声が発せられる。振動を伝えた声は、長く後を引いてから、虚空に消えた。それが終わりの合図だった。
 気づけば、興奮でミロの背中に突き立てていた爪痕から、うっすらと赤い雫が滴り落ちていた。
「お前も混ざりたいのか?」
 ぐったりとして、荒い息を吐くミロの頭を宥めるよう撫でながら、薄く笑った口がそう告げた。空いた方の指先で、俺の顎をついと掠めるのに、俺は全く動くことが出来なかった。気圧されたなどとは思いたくない。だが、そこにいる人物は、俺のよく知るものとは全く違っていた。知らない顔、初めて聞く声。その瞳の色にだけ、たぶん見覚えがある。
 そして裁決は、俺の主によって下された。
 肩口に伏せていた顔を持ち上げ、陶然とした表情で振り返る。いつもより早い鼓動と浅い息と。上気した顔には、汗で湿った前髪が張り付いていた。
「もう少し待っていろ。お前の相手は今からしてやる」
 固まったままの俺を抱き寄せて、ミロはまだ興奮の余韻に濡れた口唇を、落としてきた。
***

 ひとしきりシーツの中で暴れて満足したのか、俺たちを両腕に抱いて上機嫌で笑うミロを前にしては、もはや何も訴えることが出来なくなる。それ以前に、ミロに捕まえられて強引に口付けでもされようものならそれだけで、どんな鬱屈も吹っ飛んで許してしまうのだ。
 本当は、ずっと独り占めにしたい。だが、当のミロは俺とあいつの両方を御所望だというのだから、不本意ながら無理やりにでも納得するしかないのだろう。俺の不満げな様子が伝わりでもしたのだろうか。ミロはまた、少し困ったようにふっと笑った。
「そう妬くな」

「妬けるな」
 入口の方から突然投げかけられた声に、その場にいた皆が顔を向ける。両手にマグカップを持った綺麗な顔の男が、器用に足でドアを開け、部屋に入って来るところだった。
「カノン」
 これを“綺麗な顔”と言うのだということは、もう知っていた。ミロが言っていたのを聞いたからだ。
「こいつらがじゃれ合っていたんだ」
「俺には三匹がじゃれ合っているように見えたがな」
 ミロと違う低い声に最初は驚いたものだが、何度も顔を合わせ聞き慣れるうちに、段々と心地よくなってきたので、もう怖くはない。
 俺たちを残して起き上がったミロの後ろに体を滑り込ませ、カノンは首筋に口付けた。湯気の立つ片方のカップを、ミロは大人しく受け取って口に運ぶ。
「裸のままこいつらとじゃれ合うのはやめろ」
 ミロも俺たちより遙に大きいのだが、カノンはそのミロよりも更に一回り大きい。脚の間にすっぽりと収まって座らされた姿勢を、プライドの高いミロは嫌がりそうなものなのだが、何故だかミロはそれを許していて、そればかりか、カノンが来ると少しミロの雰囲気が柔らかくなるのだ。ということを、カノン自身はよく分かっていないようなので、教えてやりたいと思うのだが、生憎俺にはその術がない。
「お前も仲間に入れて欲しかったのか?」
「馬鹿を言え。これではいつまでも傷が消えんだろう、と言っているのだ」
 カノンは長い指先をミロの背中に這わせ、何本も入った爪痕をなぞる。既に痂疲が落ちたものから、まだ赤く腫れを残すものまで。なぞられる感触に、ミロはくつくつと喉の奥で笑った。これに関しては、大変申し訳ないと思うのだが、モフモフがふわふわ揺れるのを見ると、つい理性が吹っ飛んでしまうのは、俺たちの本能なのでどうしようもないところなのである。
「だいたいお前がドアをきちんと締めておかなかったのが悪い」
「あの時だけだろう。それ以来、最中はちゃんと締めている」
「なのに決まって終わった後は開いているな」
「こっちは駄目だ。ブランデー入りはお前たちには毒だ」
 ミロが手をおろした隙に、舐めようとした試みは、カノンによってあえなく阻止された。途切れた会話を修正しながら、カノンはもう一方の手に握っていたカップに息を吹きかけて冷ましながら、下におろした。
「入れてやらないと寂しいだろう。お前はこいつらを構い過ぎだ。本当に妬くぞ」
「……それは俺の台詞だ」
 ミロが小声で言ったことを、俺たちにマグに入ったミルクを与えるのに気を取られていたカノンは聞き逃していた。カノンはかなり毎回、肝心なところを逃しているように思えてならないのだが、俺にとっては今の最優先事項はミルクであるので、ひとまずそれについてはおいておく。
 温いミルクに舌をつけようとすると、それまで丸くなって寝ていたあいつが寄ってきた。狭いのだ、俺が先に飲むのだ。
「こいつら喧嘩ばかりなんだ」
 呆れたように言うミロに、カノンは更に呆れたような口調を作る。
「当たり前だろう。同じ家に主が二人いれば当然だ。俺とサガを見ていれば、分かりそうなものだろうが」
 少し思案するようなそぶりを見せてから、カノンは続けて言った。
「兄の方は双児宮で引き取ろう。なに、たまに顔を合わせるくらいの方が上手くいくんだ、兄弟は」
「どっちが弟か分かるものか?」
「分かるさ。そういう顔をしている」
 そう言ってカノンは、俺の頭をミロより少しだけ大きな手で撫でた。この手も嫌いではない。
 なあ、と見下ろす瞳は、深い夜の海の色に似ているんだと、いつかミロが言っていた。俺たちの瞳の色と、よく似ているのだと。俺には自分の瞳の色は分からないが、俺たちの目を見てミロが優しい顔をする理由は、きっとカノンのためなんだということは分かる。ミロは俺と違って、こいつに言葉で伝えることが出来るのに、何故だか俺たちに言うことを、カノンに言おうとはしない。
「駄目だな」
 少し考えるようにしてから、ミロは言った。
「何故だ?」
「俺が、こいつらが一緒にいるのが好きだからだ」
 カノンの胸に寄りかかるよう体重を預けて、ミロは満足そうに言う。
「せっかく双子に生まれたんだ。揃っている方が良いに決まっている」
 でもカノンも、実は分かっているのだと思う。そうだ。言葉がなくとも、ちゃんと通じるものは通じるのだ。
「それに俺は知っているぞ」
 悪戯っぽい笑みも、穏やかな顔も、俺のものではあるのだが、カノンとは分けてやってもいい。カノンがいると、ミロの笑顔が少しだけ増える。
「お前たちは良く似ている。本当は兄貴が大好きなくせに。素直じゃないな」
 カノンに抱えられたまま、ミロは俺を抱き上げてこつんと額を合わせてきた。
「俺が大好きなのはお前なんだが」
 カノンは言葉を切って、ミロの髪に顔を埋めて幸せそうな顔をする。その幸せは、俺にも分かる。
「お前が言うのなら、そういうことにしておこう」
 そうだな。そういうことにしてやっても良い。
 あいつはミルクで腹が満たされて、暢気に丸くなっていた。
 似ているのが嫌なのではなく、区別されないのが嫌なのだ。好きか嫌いか、そんなものは通り越してしまった。あるのは空気のように当たり前の真実で、事実。この世に唯一無二。“かけがえのない”、と人間の言葉で言い換えるのだと、どこかで聞いた。
 同じ顔に鼻頭を近づければ、同じ色の瞳がくるりと見返してくる。しなやかな体躯をぐっと伸ばすのは気持ちが良い。ぴんと立てた長い尻尾を、一度だけはたと揺らしてから、ごろごろと喉を鳴らした。

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拍手
Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
ねむたい宇宙 http://sleepycosmos.halfmoon.jp/