ギラギラと降り注ぐ太陽に、視界が揺れる。
はっ、はっ、はっ。
耳に響く浅い息づかいがやけに大きく、それが自分のものとしばらくしてから気づく。岩に擦れた背中に感じる鈍い痛みは、まるで他人事のようで、胸まで迫った水の冷たさは、体を引き締めながら芯の熱を暴いた。揺れているのは、太陽に浮かされて朦朧と惚けた脳みそのせいなのか、打ち寄せる波に乗じて突き上げられる度に、支えを失った体がなすすべなく揺り動かされているせいか。律動はうねりとなって襲い、理性ごと絡め取って深い海の底へ引きずり込もうとする。岩に砕けた海の一部が、白い飛沫となって頭上から降りかかり、舌に感じる潮の味に思わずむせこんでも、酸素を求める陸の生き物の性は貪欲で、また口を開き、喘ぐ。
溺れそうになりながら見上げる目の前の男は、揺らぎもせず、光る海を背負って立つ。見知ったはずの顔は逆光で翳り、明るさに慣れた目には、その表情は捉えきれない。挑んだまま飲み込まれそうになるのを、かろうじて底の岩礁についた右足で必死に踏みとどまる。相手にしているのは、海そのものか。見えないはずの口唇が、僅かに動いた、ような気がした。
これは誰だ? お前は、誰だ?
さく、さく、さく、と。
金属のソールが砂に沈む乾いた音が、平らかに連なる浜辺に二組の靴跡を残し、穏やかな波の調べに混じる。一つは真っ直ぐに速く、一つは緩慢に遊ぶよう。故に生み出される二つの足音は、ばらけてはまとまり、追いかけ重なり、不規則な音階を奏でていた。
背後に負う岩壁はどこまでも高く、白い断崖の先には蒼穹がひらける。目の前に拡がる海は、透き通る翡翠から深みを増すにつれて瑠璃、そして紺碧へと色調を変え、遠い果てで空と接する頃には、完璧な青の境界線を引く。外界から隔絶された青と青の狭間に浮かぶ孤島は、つい先刻まで閉ざされていた嵐の痕も消し去り、ただ無動に、そこに在った。動くものは、砂浜を滑る波と、その身に纏う鎧に太陽の光を反射させて歩く、二つの人影だけだった。
「どこまで行く」
さざ波と足音の作る不思議な音の調和を破り、低い声が気怠い熱を籠めた大気の中に発せられた。
「その先には海があるだけだ」
後を行く男の歩調はゆったりと、つかず、離れず、その距離を保つ。ところどころに転がっている明るい色の岩々は、かつて岩壁の一部を成していたものに違いない。既に長い年月を風と水に曝され、滑らかな曲線の輪郭に削られていた。
「お前を呼んだ覚えは、俺にはない」
砂浜は入り江を形作る崖の突端で終わり、先には、海の中に崩れ落ちた無数の大きな岩石が積み重なっていた。急峻な白い壁面と水に届くほどに茂った灌木は、この海域に浮かぶ島特有の情景を描き出している。
振り向くこともせずに行くミロは、波打ち際と更に遠くの水平線を見据えて言った。
「俺一人でことは足りたのだ」
女神の命令は絶対。しかし任務は終了。既に片がついた今、共に居る理由はない。捨て置けば良いところの、言っても始まらない不満がつい口をついて出てしまうのは、若さの故とばかりは言えないだろう。鬱積した感情を隠し切るには、歳も苦労も足りてはいない。
「結果、先行してその様か。黄金聖衣がなくぞ」
すかさず切り返された言葉に、揶揄する調子を感じ取ったのもまた、感じる側の問題でもある。纏った聖衣の表面には、まだ乾ききらずに赤黒い液体がへばりつき、黄金の輝きをくすませていた。頭を振りかぶって、睨み返したミロの鋭い視線を、男はすげなく受け流した。
カノン。その名を知ったのは、然程昔のことではない。存在は吹き抜ける風のように飄々と、あるいは流れる大河のように悠然と。留まらず移り変わり行く在り様は、その身を覆う衣が、黄金の太陽の光を受けながらも、七色の波長を煌めかせるのと、よく似ている。キラキラと乱反射を起こす捉えどころのない美しさに、ミロは思わず目を細め、それから背けた。
「迎えが来るまで、お前はその辺で鱗でも乾かしていろ」
背後に感じる存在感を遮蔽して、ミロは眼前の海へと歩み出た。何か声がしたが、聞く気はなかった。断ち切るよう勢いをつけ、頭から身を潜らせる。太陽の熱射でうだる空気から一面を隔てただけなのに、海中は嘘のように冷たく、透明な水を潜り抜けた光が底の砂に映っていた。豪奢な髪が水中で躍るように広がり、長い蠍の尾を映した薄い影が、海底で揺らぐ。潜った時と同じに勢いよく体を起こすと、水分を含んだ髪の重みがずっしりと頭と肩に掛かり、重力の存在を思い出させた。顔を流れる雫が髪を伝い、照りつける太陽から逃れて、ぽたぽたと海へと帰っていった。その色は、僅かに赤みがかっている。
「海水で洗おうなどと正気か。後で塩まみれになって苦労するぞ」
投げかけられる声を無視して、ミロは浜から遠ざかり、岩場へ向かっていった。体を避けて纏わりつく海は、腰回り、胸元近くへとその深さを増す。篭手の血を洗い流してから、ミロは右の肩当てに手を掛けた。右肩から胸、対側の脇腹に至るまで斜めに入った赤い筋が、濡れた手で表面を摩ると、じわりと滲む。左右の肩甲、それから胸甲と前当ての装備を解き、水に清めると、あれ程濃かったはずの赤は、それよりも遙に膨大な量の澄み切った水に飲まれ、個性を失っていった。一瞬だけ、溶けた絵の具のように渦を描き、すぐに消えた。
己が傷を負うようなへまなどしない。だが、返り血を頭から被る不手際を晒したことも、ミロの誇りを十分傷つけていた。それ以上に、呆気ないほどあっさりとついた結末は、何とも言えぬ後味の悪さを引いていた。
異常現象は、時として生物の輪から逸脱した生命を生む。それが、度重なる神々の戦いの余波、正しい統制を失する間隙から生み出されたものなのかは、定かではない。この解答を突き詰めることは、おそらく禁忌である。在るのは事実。
とある海域に近づく船はある日を境に次々と行方を消し、捜索は吹き荒れる嵐に阻まれ、いくつもの人命が失われた。運よく生還した者たちは、口を揃えて言った。雷雨とうねる波の間に、巨大な影が赤い目を光らせてこちらを見た、と。元凶を追って、事象の目たる孤島に辿りついたならば、為すべきことは一つ。
カノンの前だという気負いが働いたのは、否定しない。激しい雨風の作る暗闇とて、聖闘士の鋭敏な感覚を鈍らせることは不可能である。放ったのは一撃。ただし、援護を拒絶し、必殺以外を自己に許さぬ戦闘は、無意識に敵との距離を詰めさせた。生物の絶命を意味する血飛沫を避け切れなかったのは、思っていた以上に気が昂ぶっていた証拠なのだろう。動かなくなった甲羅の下に、その巨体からは想像もつかないほど小さな丸い殻がいくつも隠されていたことに気づいたのは、全て終わった後だった。ミロが口も指先も動かすよりも早く、母亀が守ろうとしていた卵は一つ残らず粉々に砕けていた。いとも容易い事だったろう。星々さえも砕け散らせることの出来る男にとっては。
『ウミガメの類だな。ここまででかいものは見たことがないが』
前髪から落ちる血を拭いもせずに、浜に伏した死骸と跡形もなくなった生まれる前の命を凝視するミロの横に並び、一点の汚れもない姿でカノンは言った。
『でかいだけの、ただのカメか』
『本来の生態を失った巨体は、それだけで十分、化け物だ』
『ただのカメに、嵐を巻き起こす力があるものか』
『考えるな。そうだろうがそうでなかろうが、どちらでもよい。押しつける相手のあった方が、安心できる生き物なのだ。人というものは』
非難を込めて上げた視線の先にあったカノンの横顔には、僅かばかりの動揺もなく、ミロはこの男が、ことの全容を予感していたのだということを知ったのだった。
「だから、俺に任せておけば良かったものを。相手は海の眷属、境界域とはいえ海界の領分だ。始末をつけるのも、本来はこちらの役目」
ミロが、輝きを蘇らせつつある聖衣を水から引き上げようとした時、頭上から声が降ってきた。いつの間に砂浜から回り込んで来たのか、端正な顔がすぐ近くの岩の上から覗いている。
黄金聖闘士級が二人も必要な任務では、そもそもなかった。海と陸との境界、故にこの人選には、政治的思惑が大きい。
“こちら”とは、どちらのことだ。
募る声を飲み込み、燻る火種を握り潰し、ミロは無言で、自らの分身たる蠍の一部を、なだらかな岩の曲面に置いた。ミロにとって、蠍座はすなわち自分。それ以外の選択肢を、ミロはもたない。
「……まあ、言っても無駄か」
カノンは途切れた言葉の後に、小さく呟いた。
選択は、カノンの手にあった。
サガとともに双子座を守護する位として聖域に留まるか、あるいは海龍として海底に潜るか。
問うた女神の前で、一片の迷いも感じさせずに、カノンは言い切ったのだ。
『地上のみならず、海をも混乱に陥れた罪は、再び授かった一生涯をもって償う』
凛として響く低い声は、ざわついた周囲を続く言葉で黙らせた。
『だが、その身を海においたとしても、この命は女神のために、魂は常に聖域にある』
誰も異を唱えられなかった。
神の恩赦によって、聖戦で失われた総ての命が舞い戻った後、ミロはカノンの名を呼んでいない。
「仕方がない。奴らが生きることそのものが、人とは相容れない。共存できないのなら、どちらかが滅びるのみだ」
淡々とした言葉が、ざらりと体の内側を撫ぜたような感覚に、ミロはぴくりと肩を震わせて声の主を振り仰いだ。夏の日は、ミロの心中などお構いなしに、青空を背景とした岩の舞台を鮮やかに照らし出す。海を臨み、風に向く颯爽たる風姿、光が反射して放たれた、黄金とは違う複雑な色味の輝き。一瞬でも、それが似合っていると思ったことを、ミロは許すことが出来なかった。
「……何が言いたい」
低く、唸るように言ったミロに、カノンも理解した。
聖域と海界と、人と人に断じられた生命と。
「深読みなどするな。言葉通りの意味だ」
「お前は――」
これまで何度も、握り潰してきた火種だった。消えずに燻り続けていた。焔は一瞬で燃え上がった。
「――どちら側の人間だ!!」
埒もない平行線。人魚姫の童話の頃から、陸と海に住まう者が、相容れることはない。
カノンの双眸の碧は、陽に輝く海の青よりも深く、光の届かない底の色に近い。ミロは食い入るように、波立たず、感情の揺らぎを感じさせないその瞳を、睨めつけた。
大きく、溜息をついて、カノンは傾がせていた体を正し、目を閉じ、そして開いた。
「海には海の理がある。海界の秩序にポセイドンの威は必要だ。だが、諸刃の剣でもある。力を持てば、再び争いの引き金になるやもしれん」
静かに、整然と。流暢な語り口は、真実のようでもあり、同時に全て虚構のようでもある。
「保険をかけるなら、異端が良い。枠に収まらず持て余し、切り捨てても痛くない。海界に打ち込んだ楔と見るか、再び仇なす脅威と見るかは、見る者次第かもしれんがな」
訪れたしばしの間を終わりと見做し、ミロは重い口を開いた。
「小難しい講釈など聞いていない。聞いているのは答えだ」
同じくらいの時が経ってから、カノンの口が短く動いた。
「同じものは二つもいらん」
視線は外されぬままである。
「俺は、お前の話をしている」
降り注ぐ太陽は、露わになったミロの肩と背を容赦なく焦がし、熱を受けた肌の上では、逃れ損なった水滴がじりじりと焼かれていた。長い髪を潮風になびかせるカノンの姿は、どこか涼しげで、たった岩一つ分に過ぎないはずの隔たりを、無限のように感じさせた。睨みあったままに、時が過ぎる。
間を繋ぐのは、同じ太陽だった。太陽が生んだ沈黙が、場を支配していた。
一切は静止し、四方に開ける空と海の中に在りつつも、二人の間にあるこの空間だけは、周りから切り取られ、二人を閉じ込める檻であるかのように錯覚させる。赤く揺らめく大気が覆いかぶさり、海の息吹が肌を叩く。気づけば、超然と高みに身を置き、先ほどまで、駄々っ子を諭すようにうっすらと浮かべられていた口元の笑みは、カノンの顔から消えていた。この男を、同じ高さまで、同じ深さまで、引きずりおろしてやりたい。不意に浮かんだ衝動が果たして正しいものだったのか、激しい暑さに麻痺したミロの脳は、その判断をも失っていた。
「……まったく、これだから」
涼しげだったカノンの額から、一筋の汗が流れ落ちた。
「人が必死に繕おうとするものを、いとも簡単に暴く」
深く光の届かないカノンの瞳の奥に、ちらりとだけ何かが瞬いた。独り言のようにぼそりと出た声と共に、一瞬だけ滲んだ苦渋に嗤う表情は、次の時には消え失せていた。
「お前のせいだぞ。俺を本気にさせたのは」
――大きな影が、空を舞った。
叫ぼうと、始まりの一字の形を作ったミロの口から名が発せられることはなく、飲み込んだ息で、喉が引き攣れただけだった。首筋を捻り、上空を蹴って飛翔する姿を追った両眼は、陽光の直撃に眩み、視界を失う。水が跳ねる音と上がる飛沫の柱を、掲げた腕で防いだ、と、同時に、大きく空が回り、鈍い衝撃が体を走る。背後の岩に押しつけられたのだと、ミロは遅れて理解した。両腕を掴むカノンの力は強く、金属同士がぶつかり合う硬質な音が、波間に響いた。
「感傷でも当てつけでもない。俺は、俺が最も活かされる道に生きる。俺自身と、女神のために」
近過ぎる距離は、焦点を結ぶのに時間を要し、ようやくピントの合った目が捉えた顔は、今まで見てきたどの顔よりも真剣で、ミロは捉えた目をそのまま、奪われていた。
「女神の前で言ったことに偽りはない」
耳に届くカノンの声は、ゆっくりと、鼓膜をくすぐる心地よい潮騒のようで。
「お前に赦された時に、誓ったことも」
あまりにもゆっくりと、揺蕩うように、言葉が紡ぎ出されるものだから、ミロは、まるで自分とは関係のない出来事のようにそれを聞いていた。
「纏っているものの色など上辺にすぎん。俺はいつでも、黄金聖衣を纏っている。お前があの時、そうと認めたから。ずっと」
見詰めてくる瞳は、やはり深海の色。ただその奥に、航路を示す灯が閃いたように思われた。
「フッ、姑息な計算がなかったとは言わんがな。その他大勢の中に埋もれるなど、御免こうむるということだ。双子座の二番手より、海の覇者の方が幾分ましか。目的のためなら、俺は手段を選ばぬ男だ。お前もよく知る通り」
「お前は、何を言っている?」
口から出たミロの声は小さく、らしからぬ迷いを含んでいた。だがそれは、混乱によるものというよりも、むしろ、この男の話す言語が理解できないという意味での困惑に近い。
近すぎる綺麗な顔の中央で、水滴を弾いた目元が、ふと緩んだ。
「俺が気になるだろう? いつも俺のことを目で追っていた」
口調はひどく落ち着いていて、反論を許そうとしない。
「なのに目を合わさない。こうと断じれば真っ直ぐに突き進むお前が、己の感情を持て余している」
言われた言葉が浸透していくと同時に、ミロの大きな目は見開かれ、強い眼力は更にその強さを増す。みるみると変化するミロの表情に気づかないはずはないのに、滔々と続けるカノンの様は、いっそ不敵ですらある。
「お前の目に入ればいい。怒りだろうと、嫌悪だろうと、お前から向けられるものがあるのなら」
「自惚れるな、誰がッ!!」
漸く吐き出したミロの口唇は、怒りに震えながらも、継ぐ先を失っていた。
「お前はっ……! 勝手に一人で納得して、いつもだ! ……ッ…、人がどれだけ…っ……!」
気は急くばかり、言語は失われたかのようにまとまりを欠く。何か言ってやらねばと思うのに、何を言いたくて、何に憤っていたのか、ミロにも分からなくなっていた。最後は、ただ、叩きつけた。
「お前の、その余裕面が気に入らんのだ!!」
「余裕?」
初めて、カノンの声に抑揚が混じる。
「お前の前で余裕でいられたことなど、一度たりともない」
打って変った面差しに息を飲む。燃え立ったはずの怒りが、覗き込んでくる深い碧に吸い込まれ、瞬時に熱を奪われていた。
「今も」
ミロの上をなぞるカノンの視線は、艶めいていて、ぞくりと背筋に震えが走り、別のところに違う熱が疼くのを感じた。
太陽は今も頭上で輝いていた。物憂げな波音に狂わされて、頭の中にがんがんと耳鳴りが鳴り響く。
果たして、捕らえられていたのは、幻か自分か。その問いが意味を為さないということを、ミロはもう、本能的に理解していた。
「俺は今、世界を手に入れるよりも困難なものを欲している」
伸びてきた手が、波立つ水面の下で、腰の裏に掛かっても、ミロは動かなかった。
「ぅッ……、はっ、ッ…」
見上げる顔に、容赦なく太陽が照りつけ、目を焼いていた。額から噴き出した汗が目の端に溜まり、鼻溝を流れて口唇を濡らす。潮も汗も涙も、同じ味をしている。混じり合った一滴は顎を伝い、海の一部となった。
唐突に、ずり落ちそうになるミロの体を強い力が引き上げた。背中に食い込む岩肌に顔を顰めるが、左膝の裏に回された腕に力がこもり、抱え込まれた腰を引き寄せられて、それどころではなくなった。
「ぐっ」
浮力で浅瀬を彷徨っているばかりだった結合が一息に深まり、思わず呻き声が漏れる。不自然な体勢で強張らせた脚の筋肉が、細かく痙攣を起こしていた。唯一の支えである右足は心許なく、つま先で必死に海底を蹴る。なけなしの意地が、完全に体の制御を委ねてしまうことを拒んでいた。
「強情だな」
笑ったようなカノンの気配に、ミロはぎっと歯ぎしりで返した。しかし、悔しさに試みようとした反撃は、落とされた口で首筋を強く吸われ、あえなくその機会を奪われた。柔らかい口唇が筋に沿って鎖骨へと降りていく感触に、ぶるりと身震いする。
胸はせわしなく上下し、割れた腹筋には力が込められる。わざとではない。カノンの手が下腹部を弄る度に、硬くなったミロの一部を掠めるのだ。互いの体動が作る水流でさえ、刺激となって纏わりつき、ミロを苛む。
どこが余裕がない、だ。好きなようにミロの体を操る男に、抗議の声を上げようにも、それでは自分が翻弄されていることを認めるようで、癪に障る。口を噤むことで保った矜持が、結局カノンを思うままに振舞わせていることに、ミロ自身は気づいていない。感情の部分は抵抗するのに、前身に触れる金属の冷たい感触は、既に熱を持ったそこにはやけに心地よく、込み上げてくるもどかしさに、ミロは思わず身をよじった。
噛み殺した嬌声とともに、掴みかかった掌に感じた感触は硬く、そこに二種類の金属の介在を思い知らせる。幅の広い肩当ての、指先に触れる滑らかさはよそよそしく、今まさに、情を交わしている相手のものとは思えない。爪を立ててもその痛みは、この男には届かない。だが、頑なに覆われた襟足の下に手を忍ばせて、見えない首筋に痕を残してやる気にもならないのだ。
何一つ、この男が晒しているものはない。己の無防備に比べれば。
ミロに残された聖衣は、頭部と四肢のみ。自らを守るべきものを取り払われた頼りなさに、羞恥よりも焦燥が先んじて、内側を駆け巡るようでもある。なのに、相対する男の方は、胸板も、腰を掴む掌も、下肢を割りさく膝も、七色の鱗で身を固めている。唯一、繋がっている箇所だけが、生の肉体を直に触れ合わせているだけなのである。
肩にあてた拳に、ミロはもう一度力を込めた。
「いい加減に素直になれ」
押しのけようと腕を伸ばすミロを、カノンはいなすように擁く。
「お前の思い通りになど……!」
「そう拒絶されると傷つくんだがな……」
それならば、どうしてこういうことになっているというのだ、と言ってやれれば、話はすむのかもしれない。だが、それに対する答えも与えられないミロには、カノンを責める資格はないのだ。
「なにも……ッ」
これ以上、何を晒せというのだ、とミロは思う。ただ一つ言えること、それは、ミロの本心でもある。
「何一つ晒そうとしない男に、手に入れられるものなどあると思うな!」
一層近い距離で睨みつける青い瞳の前に、カノンはまた、答えはせずに、目を伏せた。
「掴まっていろ」
反論をするよりも前に、体の下から押し上げられる。いやがうえにも質量を増す圧迫感と、上りくる衝撃から逃れようと、ミロはカノンの肩にしがみついた。密着した面積が広くなれば、素肌に接する冷たい境界を意識させる。膝裏に回されていた腕がすっと外され、自由になった左脚は、しかし次の行き場を見出せずに、カノンの腰に絡めたまま所在無く水中を泳いだ。
ミロの顔に触れようと伸びてきた腕は、途中でぴたりと止まる。ちらりと己の左腕に目をやったカノンは、ふと首を傾げて、今更気づいたとでもいうように篭手を外し、無造作に下へ落とした。ミロは薄く開けた目で、それが海中へと沈んでいくのを、見えなくなるまで追っていた。
「よそ見をするな」
珍しく苛立たしげに、ミロの顔を引き戻しそうとしたカノンは、守られぬ指先に当たる尖った感触に、一瞬、戸惑いを見せた。牙を向ける蠍の冠、内を守り敵を貫き、直に触れられることを拒む。覗き込むミロの瞳を見て、カノンが何を感じ取ったか分からない。改めて両手をかざし、隔てるものの存在を、カノンはミロの頭から取り去った。それは、厳かな戴冠とは逆の行為である。だが、ミロは何も言わず、逆らわず、それに従った。カノンの手から離れた蠍の尾は、ゆらゆらと、海龍のたてがみの眠る見えない底へと潜っていく。そこには、聖衣と鱗衣が、折り重なって沈んでいるのだろう。
左の頬に感じる硬く冷たい感触か、右の頬に感じる肌のぬくもりか、初めて触れ合う口唇に生まれた熱なのか。どこに真実があるのだろう。それとも、どこにもないのだろうか。ただ、今、感じる全ては、事実である。
口づけを続けたまま、冷たい手が首後ろに滑り込み、同時に温かい方の手は、首筋を撫でて水の中へ。ミロは意図を察しながらもカノンを妨げることはせず、すと目を瞑った。直接触れてくる手と指先で導き出される快感は、内に閉じ込めたはずの何かを引き出すようで、それは、もしかすると、知らないでいた方がいいものなのかもしれない。この関係においては。
水の中に浮かぶ体は自由だ。そして、見せてはならないものを覆い隠す。抵抗をやめない腕とは裏腹に、人知れず両脚は腰に絡み、離れがたしと引き寄せる。
本当に、余裕などないのかもしれない。幾重もの硬い衣で守るものは、覚悟か欺瞞か。自らの内側を見せようとしない、見せられない男が抱く傲慢と孤独は、どこに流れていくのだろう。そんな事がミロの頭をよぎったが、込み上げる快楽の渦に飲まれ、求め合う舌の間から漏れた声に、かき消されていった。互いを守る鎧を抱きながら、生まれ出でたところの海へ、精を解き放った。
足が底についた感触で我に返る。気をやっていたのは一瞬だったのか、まだ、腰回りに甘い解放の余韻が漂っていた。静かに抱擁を解かれ、触れ合っていた部分が離れると、ミロは、形容しがたい寂寥感に見舞われた。
遠くなったカノンは、じっと海水を掬った掌を見詰め、呟いた。
「生命は海に還る。お前の一部も」
それは、ミロに向けてのものではなく、おそらく、誰に向けたものでもない。カノンの左手から、さらさらと零れ落ちた液体が、その母体へと還っていった。
「貴様……っ!」
はっとその意味を理解して、ミロは、羞恥に頭に血が上るのを感じた。しかし、握られた拳は、この男らしくない寂しげに流した視線に打たれ、振り下ろす先を失った。
「俺も同じだ」
その呟きが、何を指し示したのか、ミロには分からなかった。
「そろそろ迎えが来る頃だ」
ぼんやりとミロが立ち尽くしている間に、一分の隙もなく全身に鱗衣を纏う姿で、カノンは砂浜に立っていた。再び身を黄金に包めば、何事もなかったかのように、情交の痕は内側に秘められる。一人遠ざかるカノンの背を追って、ミロは体で海を切った。内に潜れば空を飛ぶような自由を与える海は、二つの足で歩くには、なんと重く抵抗するのだろうか。拒絶し受け入れぬ者に、海は無情な不自由で報復とする。
「体が重い」
陸にいるはずのカノンが、ミロの思うことと同じことを言った。
「不便だな。陸の生き物は」
蠍の尾を象ったマスクを手に、ミロは叫んでいた。
「カノン!!」
振り返った男の顔は、見慣れているはずなのに、知らない男のようでもある。
全て太陽のせいにしてしまえればいいのに。そんな感慨がミロの頭に浮かぶ。だが、たぶん、そうはできないのだろう。少なくとも、自分は。
「お前は、聖闘士だ。……忘れるな!」
海龍の名を冠する男は、何も言わずに静かに笑った。