Fly me to the moonIn other words,「月が綺麗だ」 カノンが隣に腰を下ろすと、ミロは夜空を見上げたまま、言った。寝転んだミロのはねた髪に、草が纏わり、夜風に揺れる。土の香りが鼻孔を擽り、ひんやりとした空気が肌を撫ぜた。 天蠍宮の回廊の更に奥から漂ってくる、主の小宇宙を辿っていけば、満天の星に巡り合う。 無数の石の小室を抜け、狭い石段を降りては昇り、また降りる。切り落とされた崖で囲まれ、天空にぽっかり浮かび立つその場所は、小さな秘められた裏庭である。閉じられた宮の最奥に、こんなにひらけた場所があると知っているのは、当の主一人――と、踏み入ることを許された、二人目。 しばらく無言で見上げてから、カノンはミロを振り向いて言った。 「お前に、月を愛でる風流があるとは知らなかったぞ」 太陽の光を身に纏い、翳りを知らぬ姿には、月とは随分寂しげで、らしくはないように思われた。 月光を吸い込む青い瞳が、くるりと動いてカノンを見た。真一文字に結んだ口から出る言葉はなくとも、大きな眼はありありと、心外だ、と語っていた。しかし、思うところもあったのだろう、すぐに再び月を捕らえ、ミロはぽつりと呟いた。 「確かに、以前は気づかなかった。月を眺めてみようなどと、考えたこともなかったかもしれん」 明るい朝のエーゲ海と同じ色をした瞳の奥には、丸い月が浮かんでいる。 「惜しいことをした。今は、美しいと思う」 若い心は柔らかく、変化を認める潔さは、憧憬の念を呼び起こす。 月は大きく、満ちた姿は迫るほどで、眩しいくらいの光に照らされたミロの顔は、いつもよりも白く見えた。 思えば、聖戦のあの夜に、頭上に在った満月も、何も語らず見守っていた。 赤い閃光、青い眼光。 黄金の太陽でありながら、眩いばかりの光ではなく、激しいばかりの熱でもない。厳しく冷たく、凛として差し出す眼差しは、しかと覚悟を促した。頭上に浮かんだ月と同じく、静かに全てを受け止めた。 「少しお前に似ているな」 懐かしそうに言ったカノンを、ふいと下から振り仰いで、ミロは怪訝な顔をした。 「そうか? 俺はお前の方かと思ったが」 蒼みを帯びた白銀を羽織り、黒銀の海に覆われる。水を抱かない月の海。 さも真剣に、難しげに、ミロのつくった顔が可笑しくて、カノンは笑声を投げ上げた。 「太陽の光で輝くからか」 つい零れ出たものは、些か本気の冗談だったが、しんと止まった無音の中で、カノンはすぐさま後悔した。悪気はないが、自覚がある。しかし、断じて自嘲ではない。 似てはいても、非なるもの。光っていても、借り物の光。太陽と隔てる絶対の壁は、生まれ落ちた数分の差より、遥かに高く聳えていた。嘆きの壁とは遠いところで終わった役目に、ざわめく感情は、今はない。 それでも、顔を見られないのは、後ろめたさの表れだろうか。いつまで待っても、怒りの声も、軽蔑混じりの嘆息も、何も聞こえては来なかった。恐る恐る首を回すと、青い視線が待っていた。じっと見据えるその瞳には、感情らしきは読み取れず、カノンにしばしの困惑を誘う。 「見るのは俺だ」 碧い瞳が堪え切れずに、伏せられようとする前に、迷わぬ声がまっすぐ来た。はたと上げたカノンの視線を、ミロはしっかり捉えて断じた。 「どちらも俺には、輝く星だ」 口の端を軽く上げ、自信ありげにフッと笑う。 他にもいろいろあるだろうに。否定するにも慰めるにも。けれど、頑なに身構えた鎧の隙間をぬって、それはすとんと胸に届いた。 こいつが言うならそうなのだろう。他のすべての者たちが、地球は回ると言ったとしても、ミロには天動説が相応しい。これの周りを回るというなら、月も決して悪くない。月にとっては水の星こそ、何より輝く唯一の星。 「月から見える地球の色は、さぞかし美しいんだろうな」 きっと優しい光が見える。 「お前の話は飛び過ぎて分からん。が、それはそれで、いいかもしれんな。地球の青は海の色だ。それこそお前の色だろう?」 薄闇の中の道標。そうか、月でも太陽でも、水の星の輝きも、俺にとっては同じなのだ。闇を貫き道を照らす、光はすべて、こいつのものだ。 カノンは静かに目を細め、ひらりと身体を翻した。月の光を背に浴びて、己の光を閉じ込める。見下ろすカノンの髪先に、代わりに銀の光が宿る。 「月が綺麗だ」 目元に浮かべた微笑みと、柔らかい声を言葉に乗せた。 「見えないぞ」 「俺には見える」 腕の中の青い光は、不思議そうに首をかしげた。伝わらなければそれでもいい。俺が知っているならば。 ミロは僅かに顔を緩め、何も聞かずに、カノンの頭を抱き寄せた。知らないままでも伝わるのだろう。洒落た言葉も粋なムードも、触れ合う心には敵わない。 見ているものは月と星。重なり合った影は一つ。更けゆく夜に、沈んでいった。 In other words, I love you. |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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