I belong to you幕間 インテルメディオ ★足元の急な傾斜を滑り降りると、乾いた土埃が舞い上がる。うっそうと茂る樹木の間を縫って、カノンは裏手の崖下へと降り立った。頭上には、モノカティキアの白い壁が、夜の空に浮かんでいる。崖の高さとあいまって、さながらそそり立つ絶壁のようでもあったが、一箇所だけせり出したルーフ付きのバルコニーと、壁をつたいのびあがった野生のブーゲンビリアが、その冷たい印象を和らげていた。緑の葉と赤い花が白い壁を飾り、絡みついた蔓がバルコニーの屋根を彩る。動植物の飼育に無頓着な家の主の意と趣味に反し、華やかすぎる赤い花弁は、鮮やかに咲き誇っていた。勝手に生えたにしては実に見事で、随分愛されてしまったものだと、カノンは声を立てずに笑った。 バルコニーの窓はきっちりと閉じられ、灯りがもれる様子もない。それはそうだ。背後に広がる視野の向こうには、遠い山岳に舟を模った月が、姿を現そうとしている。下弦の月が登る頃。時刻はもう夜更けである。 カノンは傍の樹に背を預け、白い壁を見上げた。低いところまで垂れ下がった葉が夜風に煽られ、カノンの頬を軽くくすぐる。夏の光を蓄えたギリシャの草木は、夜にも太陽の匂いを運んできた。それは、カノンの大好きな匂いと似ている。 カノンが穏やかな視線を窓の奥に投げかけ、夜の風と香を楽しんでいると、前触れもなく、バルコニーの窓が開いた。姿を現した人物は、探す素振りもなくぴたりと視線を落とし、カノン、と呼んだ。 「ミロ」 カノンは口元を綻ばせて、呼ばれた名に応じた。ミロ、この家の主にして、鮮烈な赤に愛された男の名である。 「こんな夜更けに何の用だ」 ミロは抑揚のない、淡々とした調子で尋ねた。だが、必ずしも不機嫌というわけではなさそうだ。幾分やわらかい口調が、そのことを示していた。 「それに、来るなら堂々と正面から入ってくればいいだろう」 何のために鍵を渡したと思っているのだ。暗に言い示すのは、非難のようでいて、許可でもある。正門へ繋がる小径から脇へそれ、わざわざ家の裏手まで回り込んできたカノンへの、いかばかりかの疑念も含まれていた。 「もう寝ているかと思ったんでな」 実際、寝ていたのだろう。ざっくりと着崩した室内着に、よく見ていなければ気づかない程度の髪の乱れ、そして、普段のきりりと締まった眦が僅かばかり緩み、腫れぼったい様子が窺える。灯りは消えたまま、部屋の中に光を見ることはできない。なにより、カノンが見上げているバルコニーは、ミロの寝室の窓であるのだから。 「起こしたのは、悪かったな」 「不審者が家の周りをうろついていて、起きないとでも思ったのか」 軽く毒づいてから、ミロはもう一度、はじめの問いを繰り返した。 「それで。本当に、何しに来た」 「顔を見せに来た」 「顔?」 「昨日の今日で顔を見せないと、お前、気にするかと思ったんだ」 しばらく間があってから、ごく小さく呟く声が聞こえた。 「馬鹿を言え」 目が慣れてきたとはいえ、暗闇では、ふいと伏せられた顔の表情までは読みとれない。だが、昨日の今日、という言い回しで伝わるくらいには、昨日という日はミロにとっても特別なのだ、と思うくらいはいいだろう。ミロが自らの内側に触れることを許し、カノンが許された日である。 甘くはないが、やわらかい。無言で流れる空気感さえ、昨日以前と今日とでは、微妙に異なっているように感じられた。そういう関係を結んだ途端にさっぱり来なくなったと、思わせたくはない。だから、無理を押して来たのだ。双子の兄を振り切り、山と積まれた仕事になんとかけりをつけて。だいぶ遅くなってしまったけれど。 カノンが預けていた背を木の幹から離す気配に、ミロがすかさず声をかけた。 「帰るのか?」 「用は達したからな」 カノンにしてはあっさり過ぎる引き際に拍子抜けしたのか、幾分驚いたような声の調子である。カノンは苦笑を漏らした。どれだけしつこいと思われているのか。 用は十二分に達した。顔は見せたし、顔を見られた。あとは別れの挨拶を告げれば、今宵の逢瀬は幕を下ろす。 カノンは、ミロのいるバルコニーから流れ落ちる蔓花のひとふさを手に取り、赤い花びらに口唇を落とした。 「今日はこれで許せ」 ところどころに赤い飾りをちりばめた緑の蔓は、逢い引きのために垂らされた髪のように、ミロとカノンを繋いでいる。蔓花を髪にみたててキスを落とすなど、ロマンチストも度が過ぎる、が。 「ここまで来たら、してやる」 頭上から降ってきたぶっきらぼうな声に、カノンは一瞬目を見張った。しかし、すぐに頬の筋肉を緩め、笑いかけた。蔓を支えに軽々と駆け上ったカノンは、長い足を柵にかけ、ひらりとバルコニーの内側へ身体を滑り込ませる。そうだ、カノンにとってこれしきの高さ、登るのに造作もない。妨げる障壁にもなりはしないのだ。ミロの許しさえ、あれば。 「来たぞ」 ぐっと寄せた身体の距離からは、いつもなら、近い、離れろ、と無慈悲に押しのけられるのが常である。だが、今日はしばらく待ってみても、避けられる気配は見られなかった。 ミロは、軽くうつむいて視線を泳がせてから、意を決したように青い目をカノンに向けた。視線が交わったのは数秒だった。ミロが顎を上げるのに合わせ、カノンも瞼を閉じたからだ。視界の端でぼやけた青い光が迫るのを捉えたすぐあと、やわらかい感触がカノンの口唇に触れた。ぐっと押し当てられ、反動で離れそうになってからもう一度、しばらくじっと触れ合ってから、ゆっくりと離れていった。長くもなく、短くもないキスのあと、カノンの瞳には、少し照れたように目を伏せているミロの姿が映った。上から見ると、ことさらに睫毛が長い。カノンはたまらず、両腕で挟み込むようにミロの頭を抱き寄せた。 「さっきのは嘘だ」 「何が」 「お前に顔を見せに来たと言った。本当は、俺が、お前の顔を見たかったんだ」 僅かに漏らした息遣いのあとには、今度は、互いに近づいていった。先ほどよりも深く、食んだ口唇を舌で撫ぜ、もう一度食んでから軽く、強く、また強く。吸うたびに吐息を交わせば、自然と熱が上がっていった。カノンは大きく息を漏らしてから、ミロのやわらかい髪に顔をうずめて、抱く力を強くした。密着させるよう腰を引くと、居心地悪そうにミロが腕の中で身じろぎ、おい、と初めて抗議の声を上げた。声音には若干焦りがにじみ出ている。それはそうか、昨日の今日だものな。いや、そういうつもりではなかったんだが。 「心配するな。連日無理をさせるようなことはせん」 「……そういうことを言っているのではない」 ばつの悪そうなミロには、悪いことをしたと思う。本当に、ミロに無理をさせたいわけではないのだ。 「今日はこれで帰る」 お前に会えてよかったと言うと、ミロはこくりと頷いた。やはり、少しばかり、これまでよりもミロが素直な気がした。 「ミロ、また明日」 そう言い残して、もと来た蔓を滑り降りていったカノンの姿は、あっという間に暗闇に呑まれ、見えなくなった。 夜明けを明日とするならば、数刻ののちには再び顔を合わせることになる。けれど、どうしようもなく、名残惜しく感じてしまうのは、何故だろうか。それに名がつきかけていることに、まだ気がついていない頃の話。 ◇ 明日が繰り返されれば、おのずと昨日は遠ざかり、新しい昨日に置き換わってゆく。けれど、忘れられない昨日もある。いつまでも背中の後ろにぴたりとついてきて、つい数刻前の出来事のように脳裏の一部を占める記憶は、日を追うごとに鮮明さを増しているような気さえする。 色褪せてくれないのは、いつまでも塗り替えられないせいだ。ならばいっそ、新たに上塗りしてしまえば、そぞろ心にも少しは収まりがつくのではないか。いや、それでは本末転倒だ。ミロは、このところ、頭をよぎっては打ち消してきた考えを、今日も即座に否定した。 初めのことは数に入れないとすると、カノンと交わりをもったのは、七月も半ばを過ぎた夏の盛りのことである。それから二週間ばかり、夏は最後の月へと在り処を移そうとしていた。何事もなく平穏に、つつがなく毎日は過ぎゆき、それゆえ、ミロは、悶々と頭を抱えていた。 何事もなく、とはやや語弊がある。このタイミングで嫌がらせかと疑いたくなるほど、次々と降ってわく任務や雑務ですれ違ってはいたものの、カノンとは、以来、短時間なりとも毎日会うようになっていた。場所はたいてい天蠍宮の居宅。これまで通り共にする食事も挨拶も、これまでより若干過剰なスキンシップも、必要以上に近い距離で紡がれる言葉も、着実にその数を増やし、ミロの中に積み上っていった。これがどういう名で呼ばれる関係か確認し合ったことはないが、確かにカノンとは、そういう関係になったのだ。 ならば。と、思考はここで停止する。ならば、その先に及ぶこともまた、自然の摂理であろう。飛び越えるべきハードルは、既に存在しないはずだった。間が空いたのは、単に互いの都合が行き違い、機会が巡ってこなかっただけで、ということはつまり、いつそういう雰囲気になったとしても、おかしくはないわけで。それは、たとえば、今日かもしれないのだ。ここに思い至ったとき、ミロは全身の血液が頭に昇るのを感じ、その日を境に、ぬくぬくと温かったミロの平穏な日常の体感気温は、一気に十度ほど跳ね上がったのである。熱が上がったのは、ミロの体温の方だったかもしれないが。 「ミロ、どうした?」 耳元で囁かれ、ビクリと身体が震える。同時に、背後からするりと伸ばされた筋肉質な左腕が、ソファに浅く腰掛けたミロの脇をすり抜けていった。コトリと小さな音を立てて置かれた大皿の上には、長方形に切り分けられたスイカと、厚くスライスされたフェタチーズが、コントラスト鮮やかに並べられていた。添えられたスペアミントの葉もアクセントになる。 ミロが振り向く前に、間近でヒュッと風が起こった。次の瞬間、腰の下のソファが大きく揺れ、バランスを崩しかける。が、ぐらついた背中の下にカノンの片手片膝が滑り込み、すんでのところで、ミロはソファからずり落ちるのを免れた。 「大丈夫か?」 元凶が、至近距離で尋ねてくる。 「大丈夫もなにも、お前が飛び乗ってくるからだろうが」 回り込む労を惜しみ、ソファの背を飛び越えてきた男は、まんまとミロの後ろに陣取っていた。支えに使われた右腕は、どさくさに紛れて、ミロの腰に回されている。カノンの脚の間に座らされる形となったミロは、距離をとろうと身体をよじるが、がっちりと背後から抱きかかえられた体勢となってしまっては、ほとんど意味をなさなかった。 「まあ、そうかりかりするな」 カノンはミロの反論を軽く受け流して、先ほど置いた皿に左手を伸ばした。銀のナイフを片手で巧みに操り、真っ赤なスイカと真っ白なフェタチーズを、さらに小さく整えてゆく。どうあっても、回した右腕を解くつもりはないらしい。左手をフォークに持ち替え、スイカの種を取り除くさまは、無駄に器用である。 「好きだろ?」 くるりと向き直ったカノンの顔が間近に迫り、ミロは反射で顔を背けた。 「好き、では、あるが」 この顔面は凶器だと思う。自覚がない分、質が悪い。いや、自覚していたら、尚更、質が悪いのだが。ぎくしゃくと、ミロのあからさまにぎこちない態度にも、カノンは気にする風はなく、上機嫌でスイカの種取りに勤しんでいる。 「そうだろう。今朝方、ライキ・アゴラで見かけてな。これほどの上物に出会えるとは運がいい」 好きかと問われれば好きではあるが、別段取りたててというほどでもない。スイカの話ならば、だが。 ミロは、気を紛らわすために、飲みかけのウゾのグラスに手を伸ばした。だが、カノンにのしかかられていては、思うように動くこともできない。指先がグラスを掠め、乳白色の液体の中で、氷がカランと音を立てただけだった。以前ならば、邪魔だと一喝のもと、簡単にふりほどいていたところだが、最近は、どうにもうまくいかないのだ。 「それはいいから、とにかく離れろ」 自力で逃れられないのなら、と口で抵抗を示すのだが、これもうまくいったためしがない。ミロの豊かな髪にいつでも顔を埋められるので、カノンはこの姿勢をいたく気に入っているらしかった。対するミロは、居心地的にはともかくも、精神的には大変収まりが悪い。すぐに逃れたいところなのだが、カノンの緩んだ顔を見てしまうと、どうにも無下にできず、脱出には悉く失敗していた。 「俺のために我慢してくれているんだろう?」 鈍いなら鈍いなりに、全てに通じて鈍ければまだ捉えようのあるものを。妙なところだけ鋭いのは、実はわざとなのではないか、とミロは思う。自惚れるなと出かかった言葉は、この上なく嬉しそうな顔にあっさりと封じられ、結局ミロは、膝頭で拳を握りしめるしかなくなるのだ。結果、無言の返答は、おそらくカノンには肯定と受け取られている。 自らの膝にぎゅっと押し付けていたミロの右手に、カノンの右手がやんわりと重ねられた。それだけのことなのに、身体が緊張で硬くなってしまうのは、密着した背中から、カノンにはとっくに伝わっているだろう。だからといって、今のミロには、どうすることもできないのだ。心も身体も、なにひとつ思い通りにならない。こんなことは、初めてだった。 「ミロ」 唄うような低音で呼ばれる自分の名にも、なかなか慣れない。というよりも、前はどうして平気で聞いていられたのか、分からなくなっていた。脳髄の底に直接響く声色は、心臓の裏側をぐっと掴む。耳元で囁かれるやわらかいトーンは、身体の内側をふわりと撫ぜてゆく。この口から、この声で、織り出されるミロという音には、個を指す名称以上に多くのものが込められていて、それを知ってしまった今となっては、知る前にはもう戻れなかった。 不意に、ぐっと口元に何かを突きつけられ、ミロは後ろに仰け反った。目の前に差し出された物体は、赤と白と緑。焦点が合うと、それは、カラフルなデザートピックにミントの葉を添えて刺されたスイカとフェタチーズだと知れた。先刻より、カノンがしきりに用意していたものである。丁寧に種まで取り除き、食べやすいように一口大で、口元まで運ばれてきたわけだ。 「お前、俺をなんだと思っているのだ」 今度は成功した。分かっていない様子のカノンを押しのけ、ミロは半身を反らして脇にスペースをつくる。 「それくらい自分でできる」 幼児でもあるまいに、何から何までやってもらったうえに、食べさせてもらうまで甘んじていられるものか。しかし、カノンの馬鹿力は、ミロをしっかりと捕まえたまま、それ以上は放そうとしない。 「別に構わないだろう。誰も見ていないんだ」 「見ている見ていないの話ではない。俺にそういうことをするなと言っている」 「俺はお前が可愛いんだよ」 「可愛いと言われて喜ぶ男がいるものか。俺は女子供のような扱われ方は好かん」 「ああ」 ひとしきりのやりとりのあと、カノンは得心が行ったとばかりに大きく頷き、それから続けた。 「言い方が悪かったな。愛しい、だ。愛しいものを可愛がってやりたくなるのは、自然な感情だろう?」 平然とそういうことを言うのが、カノンという男である。ことミロに対しては加減を知らない。我慢をしていた反動なのか、より一層、明け広げになった気さえする。それ以上、目を合わせていられなくなり、ミロはふいと視線を外した。 「お前のは度を超している。落ち着かんから、よせ」 先を続けるミロの声は、心なしか力が弱い。だが、あっけらかんと言ってのける男に、ミロは今度こそ目を剥いた。 「残念だが、俺にはできそうにないな。お前が慣れろ」 「っ、おまえ、俺を尊重するようなことを言っておいて、自分がしたいようにしているだけではないか!」 「確かにそうだな」 キョトンと愛嬌のある表情になっても、綺麗な顔はさまになるのだから、やはり相当、質が悪い。カノンは思案顔をつくってみせてから、からりと屈託なく笑って言い切った。 「仕方がない。諦めろ」 呆気にとられている暇も、ましてや見惚れて赤面している暇もなく、ぐいと差し出されたスイカとチーズは、ミロに決断を迫った。考えてみれば、ミロの左手は空いているのだから、受け取ればいいだけの話である。そんなことにも頭が回らないほどに狭まった視野の端で、ミロはスイカの赤い汁が、カノンの腕につと滴るのを捉えていた。滴った液体はそのまま肘まで流れ、ぽたりとカノンの大腿の上に落ちた。内股にじわりと赤い染みが広がるさまは、ミロをどうしようもない気分にさせる。 ぎゅっと目を瞑り、カノンの手から差し出された果実と乳製品を一口で胃の中に流し込んだ。美味いだろう、と聞かれた気がしたが、味なぞ分かるはずもない。 何故という疑問もあるだろう。既に一度、ノーカウントをカウントするなら二度、経験したことである。流されたわけではない。覚悟をもって、カノンを受けれたのだ。だが、そこに勢いがなかったかというと、そうではない。そうではないどころか、多分に勢いの為せる技であった。そのままの勢いで、関係を築いていってしまえば、こうも地に足のつかない気分を味わうこともなかっただろう。が、それも、結果論である。 慣れないことへの不安が半分、気恥ずかしさも半分。その場の流れでも勢いでもなく、互いの意思を、行為の意味を、確かめ合ってカノンとするのだと考えたら、もうまともに顔が見られなくなった。生娘もかくあれかし、である。 「ミロ、明日は早く上がれそうなんだ」 呼びかけられて、ミロは、はっと我に返った。カノンは、いつの間にか、ミロの髪に頬を擦り寄せていた。振り払おうにもできないのは、これまでの経験で分かっている。尾骨から背筋にかけて、ぞくっと痺れに似たむず痒さが駆け上る。 「明日が、どうした」 唐突に甘くなったような気がする空気を打ち払おうと、ミロは努めて大きな声を出した。しかし、声が上擦ったせいで、望んだほどの効果は得られない。 「日暮れすぎには来られると思う。だから、夜を空けておいてくれないか」 覚悟していたわりには不意打ちで、要はこの手のことに、心構えなどできるものではないのだ。 何のために? と誘われるまま問いかけてしまえば、囁かれる言葉で、無防備な心臓に口づけられる。与えられたのは、覚悟するまでの少しの猶予だけだった。 「お前と、愛し合いたい」 口から出たとき、声になるとき、人の心に届いたとき、言葉は魂をもつ。よりによって、なんという語彙の選択をしてくれるのか。あれはそういう行為なのだと。カノンとしたのはそういうものだと。意識しだしたら止まらなくなる。だいたい明日とはなんだ。こんな生殺しの状態で、明日の夜までいったいどうやって過ごせというのか。いっそこのまま押し倒してくれた方が、俺の方から跨るかいやそんな馬鹿な。 渦を巻く思考の中心には、ひとつの言霊が生まれてしまった。 『明日、カノンと愛し合う』 ――限界はとうに振り切れた。 カノンの腕の中で、ミロは小さく頷いた。 日が暮れた西の空には、白い月が浮かんでいる。茜色から濃紺へとグラデーションを帯びる空の色は、昼から夜へと移り変わる刻を映し描く。紫の帯に浮かんだ三日月は、夜の訪れを示す徴。だが、始まる夜を前にして、月を見上げる余裕など、まだ持ち合わせてはいない。 ◇ 真夏の陽射しが、双子のレリーフの彫り込まれたアーキトレーブを、容赦なく照りつける。外の暑さは、さぞかし強烈なことだろう。微睡みから醒めたカノンが抱いた感想は、まるで他人事のようである。実際、他人事だった。いかにギリシャの酷暑が猛威を振るおうとも、一歩、双児宮の内に入ってしまえば、そこは別世界である。 カノンが身を横たえるのに選んだ大理石は、宮の外郭を構成する円柱の袂に配置されていた。軽く伸びをするだけで、日光にその長い手足を晒すことになる。が、逆に言えば、そうでもしない限り、いかに太陽といえども、双児宮のカノンに干渉することはできない。 十二宮の神殿内部は、もとより守護者の力と神聖な加護によって、外界とは一線を画する。こと双児宮は、独自の特性も手伝って、ほかの十二宮よりも、さらに隔絶が顕著であった。真夏であろうと、真冬であろうと、閉ざされた空間に季節の概念はなく、ただ刻の止まった大気が満ちている。 ときに不気味なこの双児宮の特性も、夏の昼寝どきに限れば歓迎すべきだな、などと暢気な発想が出てくるあたり、大分平和惚けが進んでいる証拠である。元来それは、外敵を退けるための防衛手段であり、内なる歪みを秘匿するためのものでもあったのだから。 カノンは頭の後ろで腕を組み直し、円柱の隙間から空を見やった。目に眩しい青空には雲ひとつなく、半円より幾分ふっくらとした月が白い姿をちらつかせていた。 シエスタの時間を本来の用途通りに費やすのは、カノンにとっては珍しいことだった。そのうえ、場所が双児宮ともなれば、輪をかけて希少な出来事である。教皇の間から、此処第三の宮双児宮まで長い石段をはるばる下りてくるのは、手間といえば手間なのだ。途中、たとえば、天蠍宮あたりにでも寄せてもらえるのならば、そちらの方がカノンとしては好都合なのであるが、今日はあいにくと主が不在だ。にもかかわらず、カノンはいたく上機嫌だった。昼に不在でも、夕刻には帰ってくる。そして、夜には、会う約束を取り付けてある。 ミロのことを考えれば、自然、口元は緩む。カノンがこうして双児宮に戻っているのも、ミロがしきりに気にするからだった。主のいない不在の宮だと、双児宮を称したミロの直感は、部分的には当たっているが、少しばかり誤解があると、カノン自身は思っている。双児宮は、これでも幼少期の十年以上を過ごした場所である。当時の記憶が必ずしも良いものではなかったにしろ、勝手知ったる慣れた場所ではあるのだ。むしろ、外に出ることが叶わなかったカノンにとって、双児宮こそが、自らの世界であったという見方もできる。なので、カノンが今の双児宮に抱く主たる違和感は、カノンが双児宮にいるそのことではなく、サガが双児宮にいないことによるところが大きい。とはいえ、カノンはわざわざ訂正してまで、ミロを煩わせるつもりはなかった。 たまにはひとりで過ごすのも悪くはない。こうして、ミロとの思い出に浸ることができるのだから。 カノンは再び瞼を閉じた。ミロといるときには、目の前のミロ以外のことを考えるなど不可能だった。どんな些細なことでさえ、この瞳に、この鼓膜に、刻みつけずにはおられない。ミロとの間にあった出来事は全て、痛みを伴うことでさえ、貴重で得難い宝石のようなものだった。真紅の閃光であったり、雷のような衝撃であったり、緩やかに染み渡る感動であったり、そしてただ、ただひたすらに満たされた、幸福な時間であったり。 たとえば、三日月の夕べのように。 それは、蕾が綻ぶ瞬間に似ていた。朝露に濡れた蕾が丸く膨れ上がり、青々とした萼を幾重にもぎゅっと引き締めているさまは、弾ける刻を待っているにもかかわらず、必死に堪えているようでもある。しかし、いかに閉じようとも、先端の色づきは既に隠せず、花弁の色を覗かせる。 自らの身体に起こっていることを受け入れられないというささやかな抵抗と、訪れる変化に身を委ねていく相克が同時に起こり、好きだと繰り返すカノンの声に呼応するように、硬かった身体が徐々に開かれてゆく。そして、開いてゆくのは、ほかでもないカノンに対してなのだ。 シーツを握りしめ、顔を覆っていた腕が、カノンの首の後ろに縋るように回され、抑えていた声、耐えていた吐息が、求めるようにカノンの名を呼ぶ。ひとたび綻びれば、あとは転げ落ちるように。それが閨事のうわごとであったとしても、自らの快楽を口にのせて、何度も気をやる姿は、禁欲的ともいえるこれまでのミロからは、想像もつかないものだった。 小さな息遣い、指先の僅かな動き、瞳の奥に揺らぐ焔、ミロの全てを見逃すまいとする自分と、さらに強くミロと繋がり、より高くミロを昂らせ、どこまでも深くミロを恍惚の海に沈めたいと欲する自分が、相争う。ひとり分の肉体しかないことが口惜しい一方で、ミロを独り占めにしているという歓びに打ち震える。繋がっているこの刹那、満ち足りた心を抱えてなお、ミロの中もまた一分の隙なく己だけで満たし溢れさせたいと、仄かな欲が頭をもたげる。それらをないまぜにした感情の行きつく先、ただひたすらに幸福な時間。カノンの前に、自らの快楽も肢体も露わにして、内も外も曝け出したミロの姿は、一生、忘れられない光景だった。 頑なな蕾が瑞々しく開かれ、一晩で大輪の花を咲かせる。その一部始終を目の当たりにしている感動が、そこにはあった。花に喩えたと知れば、ミロは怒るかもしれないが、カノンとしては、それ以外、表しようがなかった。強いて言うなら、花というより華である。 天蠍宮の浴室で顎まで湯に沈め、ミロは恥ずかしげに、今夜のことは誰にも言うな、と言った。向かい合って浸かれば、伸ばした脚が重なり合う。カノンが首を傾げると、ミロはその先を察知したのだろう、慌ててカノンが口を開く前に遮った。情事のあとのせいか、湯の熱に当てられたのか、いつになく顔が赤い。立ち上がりかけたが、まだ下半身の感覚が戻らないようで、そのままぶくぶくと湯に沈んでいった。 『全てお前の中に留めておけ。二度と口にのせるな。俺に対してもだ』 カノンが、よほど不可思議な表情をしていたのだろう。ミロはカノンの顔をちらりと見上げてから、観念したように告げた。 『今夜のことは、俺とお前だけの秘密だ。この意味は分かるな?』 分かるとも。端からそのつもりだ。ミロとの大切な記憶を、ほかの誰にも教えるものか。だが、お前と俺だけの秘め事、という甘やかな響きのもたらす効果は別格だった。ミロと秘密を共有する、そのことだけで天にも昇りそうな心持ちがした。カノンは、満面の笑顔で、正面からミロを抱きしめた。ミロは一瞬身体を強張らせたが、すぐに諦めて、カノンの肩口に顎をのせ、身を任せてきた。 反応が可愛くて、ついついやり過ぎてしまうこともあるが、ミロがカノンに許してくれることが、嬉しかった。少しずつだが、ミロから身を寄せてくれることも、身体の誘いをしてくれることも、回数を増やしていった。ミロが誘いをかけるときには、カノンの横に腰掛け、触れるか触れないかの近い位置で。あるいは別れ際の挨拶のあとに。一見、仏頂面の、ただし、仄かに朱のさした顔で、カノンの方は向かずに言う。風呂で準備はしてきた。明日の夜は空けてある。直接的なことを言うには、まだ照れが勝るのだろう。それすら、初々しくて、愛おしかった。 ミロのことを想うと、時は駆け足で過ぎてゆく。何度反芻しても、決して足りることはない。カノンは、ひとつ欠伸をして、気怠い身体を持ち上げた。 柱の隙間から見えるふくよかな月は、先刻より少しだけ西に位置をずらしている。シエスタの時間は、まもなく終わりを迎えようとしていた。 ◇ 熱病とは、よくも言ったものだ。 ミロはいつものソファにどっかりと沈み込み、慌ただしく動き回るカノンを眺めて、ぼんやりとそんなことを考えていた。当のカノンは、あちらの部屋からこちらの居間へ、小脇に衣類や生活用品を抱えてきては引き返し、厳選した品々をきっちりスーツケースに詰め込む作業に没頭している。やっていることは実に所帯じみていても、姿形が整っていると、なんともさまになるから不思議なものだ、と我関せぬ感想を抱いてみるが、カノンが詰めているのはミロの荷物であり、出発は明朝、そして時刻は既に夜である。 物憂げに眉を顰める顔も、遠目に眺めるのは悪くない。あまり近くだと、速くなった鼓動が邪魔をする。だから、これくらいが丁度いいのだ。ミロは誰が尋ねるでもない垣間見の理由づけに、ひとり頷いてみる。 思い返せば、心当たりはないでもない。カノンが傍にいると、どうにも気分が落ち着かない。かといって、いないならいないで、気になって仕方がない。いざ顔を突き合わせれば、心音は高まり、顔が熱くなる。思考は乱れ精彩を欠くのに、神経は過剰なほど鋭敏となり、不均衡の中に揺り動かされているような、妙な心持ちがする。しかし、それらは、必ずしも不快なものではないのだ。 これが病だと言われれば、ああそうか、と納得もいく。だいたい熱に浮かされている最中は、自分が病にかかっていること自体、気がつくまい。過ぎてみて初めて、そうやも知れぬと思い当たる。だから、流行り病にでも侵されて、正気を失っていたものだと、まあ、そういうことだ。 あれは、本当に大失態だ。これまでの人生で三本の指に入るほどの失態で、あれを上回るとなると、聖戦の折に冥界へ乗り込み、かの翼竜と対峙したときくらいか、と考えてしまうほどなのだから、ミロにとっては相当なものである。 あらぬところへの刺激からもたらされる感覚に困惑し、信じがたい反応を示す自らの身体に動揺し、混乱のまま、それらをつぶさに白状させられ、与えられるものをただ甘受するしかなくなった。何を口走ったかほとんど覚えていないが、正気なら絶対に口にしないことだったのは、確信がもてる。全てが終わって放心が解けたあとには、沸き起こった羞恥と怒りで、目の前が赤く染まった。けれど、蹴り落としてやろうと乗り出したあとに、ベッドの下にへたり込んでいたのは、ミロの方だった。浴室まで抱きかかえられて運ばれたうえに、隅々まで洗われてしまった段になって、ようやく観念するに至る。 もうどうしようもなく、取り繕いようのないほどに、カノンに自らの内側を晒してしまったのだ、と。当のカノンが、どの程度理解しているかは別にして。 ミロは大きくかぶりを振った。これ以上は思い出すことさえ危険である。あれはなかったことなのだ。あんな羽目に陥ったのは、あとにも先にも一度きりで、今ならもう少しうまくできる。 幻朧魔皇拳のような精神に働きかける技を使えるのであれば、真っ先にカノンにかけて、忘れさせていたところだが、あいにくとミロにその手の技の持ち合わせはない。もしもカノンが、少しでも口を滑らせるような気配をみせたなら、刺し違えてでも口を塞がねばならぬ、とミロは思い詰めているのだが、カノンの方は、別の理由でしっかりと口を噤んでいるものだから、ミロの矜持はかろうじて守られていた。忘れるどころか後生大事にしているようで、ときどき虚空に向かいひとりにやけ面を晒しているのが、いたたまれなくもある。が、あえて触れると墓穴を掘って大怪我をしそうなので、気づかぬふりをしていた。 あの頃の熱は、確かに病といえたかもしれない。では、今は、どうなのだろう。平熱近くまで下がった体温は、鍵穴よりも狭まっていた視野を、いくらか押し広げた。夜を知らぬから不知夜だとも、ためらうことからいざようだとも、妙なところで博識なカノンに教えられた今夜の月を、見上げる余裕をもてるほどには。 「待て、勝手に人の下着を漁るな」 カノンの手の内を見咎め、ミロは唐突に我に返って制した。まったく油断も隙もあったものではない。 「人聞きが悪いな。漁ってなどいない。選んでいただけだ」 カノンの名誉のために断っておくと、洗濯済みの綺麗に畳まれた下着である。ちなみに、洗ったのも畳んだのも、カノンである。 「同じだろうが」 「嫌ならさっさと自分で仕度をしろ。出立は明日だぞ」 「今からしようと思っていた。お前が邪魔をしに来なければ、とうにできていたところだ」 「どうだかな。俺が来たときには、スーツケースもパスポートも、なにひとつ出てはいなかったように思ったんだが」 事実、カノンの言う通りなのであるが、ミロの方にも言い分はある。 「たかだか数日の旅だぞ。さしてものなど必要あるまい」 「女神に同道を許されたのだ。どんな些細な粗相も許されん」 盆、というものらしい。死者の霊を祀るという、古くからの日本の風習に倣い、急遽、女神が日本へ帰国されることとなった。その護衛に、カノンとミロが抜擢されたのだ。 カノンが同行することになったのは、女神のご指名だった。珍しい人選は、女神のお気遣いだと、ミロは察していた。近頃は、近隣の村々への訪問や、ギリシャ領内での視察など、外の任務が増えてきたとはいえ、蘇ってからこのかた、ほとんど聖域から遠く離れることのなかったカノンへの、少しばかりの息抜きという意味合いがひとつ。そして、こう見えても、カノンは女神の近くに仕えられることに、並々ならぬ感謝を覚えている。それがふたつめだ。 そのカノンが、初めての女神護衛の任務ともなれば、張り切るのは当然といえよう。ミロはカノンのお目付役という名目なのだが、これにも世俗で長らく暮らした女神らしいお心遣いが、色濃く表れていた。 『他国の異なる文化を知っておくことは、今後の聖域にとって大切なことです。人々の生活に触れてみれば、守るべきものの尊さに気づく機会にもなるでしょう。幸い聖域の復興は一段落を迎えています。見聞を広めることも、大事な勤めなのですよ』 神も聖域も、信ずる人々があってこそ。それのみにて成り立つものではない。故に、女神は、黄金位をはじめ多くの聖闘士たちに、さりげなくその機会をお与えになった。 女神のおっしゃることは、ミロにも覚えのあることだった。だから、カノンに聖域外の任務が与えられるようになったことを、内心喜ばしく思っていた。 外の世界というなら、カノンはミロよりも、よほど外を知っている。しかし、一度水没し、闇に包まれたあとに、再び光を得た世界という意味においては、カノンこそ、今の世界を見ておくべきなのだ。さらに言うなら、サガもである。 『一緒に来てもらえると心強いわ。それに、みんなで行った方が楽しいでしょう?』 朗らかな女神の微笑みに後押しされ、教皇代理たるサガから、異例の許可が下りた。当代の女神にとって、日本は第二の故郷である。護衛といっても、さしたる危険を伴うものではないのにもかかわらず、聖域からふたりも同行することとなったのは、こういった経緯であった。 そして今、女神の里帰りに同行を許されたふたりには、明日の出立が控えていた。 「お前の方はどうなのだ。仕度はすんでいるのか?」 カノンは、フッと得意げに笑う。 「いや。まだだ」 「まだ……、だと!?」 予想外の返事に、ミロは不覚にも声を荒げた。焦らねばならないのはどちらだ、と思わなくもないが、顔の良い男が自信満々に答えると、説得されそうになるから極めて危険である。 「女神の護衛で行くのだ。たいした私物は必要あるまい」 「お前のそれは、素か?」 この男は、たまに、信じられないほどとぼけたことを言う。特技の欄に、自分を棚に上げる、と書き加えるべきだと心底思うが、よく考えてみると、さっぱりと自分を棚上げできなければ、海皇を謀ってうまくいくなどと信じ切れるものではないのだから、今更といえば今更なのである。 ひと通りの荷造りをすませ、満足げに頷いたカノンは、今度はミロの方へ向き直った。 「あとはお前の準備だな」 そう言って、つかつかと横に来たかと思うと、ミロの両肩をとんと押した。ソファに仰向けに押し倒されたミロは、慌てて口を開いた。 「こら、明日は早いのだ。そういうことをしている暇はない」 「なに、すぐに終わる」 ミロの上にのしかかるかと思いきや、カノンは床に片膝をつき、ソファの脇にしゃがみこんだ。下方に位置を取り直し、手にはしかとミロの右脚を掴む。 「前から気になっていたんだ」 カノンの手には、どこから持ってきたのか、爪切りとやすりが握られている。 「お前、自分の武器のくせに、まったく気を遣っていないだろう。整えてやるから、おとなしくしていろ」 爪の形とスカーレットニードルの威力は関係がない。百歩譲って、指の爪ならいざ知らず、まずは足の爪にいくあたり、特殊な趣味か、あるいは嗜好か、と訝りたくもなる。ミロの方も、何かに目覚めそうな気がしないでもないが、それはまたのちの話である。 強引なわりに、カノンの所作は丁寧だった。ミロに痛い思いをさせないよう、一本一本慎重に長さを整えていく。立派な体躯の美丈夫が、窮屈そうに背中を丸めてミロの足元に膝をついている姿は、見ようによっては滑稽なはずだが、カノンの真剣な面持ちは、それらを差し引いても美しかった。倒錯的という単語が頭をよぎったが、これにも気づかないふりをしておいた。 これが綺麗だと思うのは、熱のせいだろうか。ひとまず顧みる。そして、そういうことではないのだろう、と結論する。熱があるばかりが病ではない。 「そんなにゆっくりやっていては夜が明けるぞ」 カノンは、さんざん時間をかけて、ようやく脚を左に持ち替えたところだった。足と手と、あと爪十五本分は帰りそうにない男に、ミロは半ば呆れて声をかけるが、カノンは真剣な顔を崩さない。 「神は細部に宿るという。不格好にしては、お前の沽券に関わるだろう」 オイルまで用意しているあたり、カノンの本気が窺える。ブツブツ呟くカノンを尻目に、足の爪などお前以外に見せる機会はないんだがな、とミロは思ったが、口には出さずにおいた。 「まぁ、お前が楽しいのなら、それで構わんがな」 カノンの粘り強さには、流石のミロも根負けしている。これが不治の病かどうか、分かるまで付き合ってやってもいいだろうという気には、もうなっていた。答えが出るならそれまで、出ないならそれはそれで。一生分くらい費やせば、分かるようになるのだろうか。それとも、分からぬままなのか。 どちらでもいいか、とカノンのはねた後ろ髪を眺めながら、ミロは思った。そうだ、どちらでも、たぶん同じことだ。 「何か言ったか?」 視線はミロの足の爪に縫い止めたまま、カノンは言った。 「いいや。好きにしろ、と思っただけだ」 脚を動かさないように気をつけながら、ミロは上半身を反らせ、大きく伸びをした。反り返った先の窓越しに、上下が逆さになった月が目に入った。月がいさよう十六夜月。満ちたあとこそ、ためらうものか。 深まる夜を前に、そういえば明日は早いのではなかったかな、とミロは思い出していた。 ◇ 夜の空に金色の焔が突き通る。芯を燃やす赤い炎は、橙色、金色と色味を変えながら光の強さを増し、鮮やかな衣を翻らせて、滑らかに舞い踊る。静寂の中で、ぱちぱちと火の弾ける音が、耳を打つ。赤々と燃える熱と光に照らされた隣人の横顔を振り返ると、暗い空へうっすらと線を引く煙を、身じろがず見守っていた。いくつもの火の粉が闇を翔び、無数の赤い点を散らして消えた。 誰しもが、誰かを想いながら。立ち昇る炎と煙は魂の道しるべに、迷わず行方を照らすようにと。 天は彼岸に通じている。 明々と焚かれた送り火のあとには、幽かな煙の匂いが残った。 ◇ 「三十五センチくらいだ」 「何のこと?」 瞬は、間髪入れずに聞き返した。氷河の物言いが唐突なのは、今に始まったことではない。金髪碧眼の日本人離れした外見ゆえに、氷河の不器用な会話術は、日本語が不得手なせいだと優しく解釈されがちだが、実態を知る瞬に、通用するはずもなかった。言わなきゃ分からないよと、ことあるたびに諭されているが、未だに直る気配はない。 「距離が」 氷河の視線の先を追って、瞬はなるほどと納得した。氷河たちの数メートル先、ひときわ目を惹く外国人ふたり組が、アイスもなかの列に連れだって並んでいた。その、距離である。 女神の帰省最終日、明日には再び聖域へ発つ。慌ただしかった日程の終わりに、少しだけ時間が空いた。多忙な彼女のことを思えば、本当は、今日出発でも良いはずだった。しかし、女神の配慮か、少女の郷愁か、一日の猶予をもつことになったのだ。 久しぶりの城戸邸でくつろぎたいからと理由をつけ、食い下がる聖域からの護衛役ふたりに暇を出した女神は、そのうえで案内人をつけた。つけられた氷河は、前回の反省を生かして、すぐさま瞬を呼び出し、そして四人は、東京観光の王道、すなわち浅草にやって来ている。此度の氷河の最大の功労が、この人選にあることは、言うまでもない。 周囲より頭ひとつ分抜け出たカノンとミロの後ろ姿は、多くの外国人で賑わう浅草の雑踏の中でも、見失いようがないほど、目立っていた。 Tシャツにキャップという出で立ちは、人ごみに溶け込むための配慮らしかったが、まったくその機能を果たしてはおらず、極めつけのサングラスにいたってはかえって逆効果であった。長身から流れ落ちる髪は艶やかに波打ち、たとえ無造作にまとめられていようとも、豪華さは少しも損なわれていない。なにより隠し切れないオーラが、只者ならざる雰囲気を醸し出していた。どこぞの芸能人のお忍びかと、遠巻きに盗み見られても、当人たちは全くの無頓着である。 案内役として先導するはずが、あまりに目立ちすぎるために気後れしたということと、脚のコンパスの差で、すっかり引き離された氷河と瞬は、数メートル以上後ろから追う形となっていた。 日本人の感覚からすると近いけれど、スキンシップの多いギリシャ人としては、これくらいが普通なのかもしれない。遠目にカノンとミロを眺めながら、氷河はそう思い直していた。 ちょうちん型のもなかに、好きなアイスを挟むことができるらしく、当のふたり組は、どの味にするかを一心に選んでいる最中だった。 氷河を日本人感覚の基準にして良いかというと、これもやや疑問が残るのだが、あえて触れるところではないので、良しとしておく。 浅草寺の参道に並ぶ商店街は、日本でもっとも古い街並みが残る。雷門からまっすぐ歩けば約三百メートルの道のりに、ところ狭しと店々が軒を連ねていた。 まずは浅草寺にお参りして、それからぶらぶら街歩きをして、できれば水上バスにも乗りたいよね、という瞬のプランは、最寄り駅を降り立った瞬間から、見事に破綻した。好奇心と慎重さが同居するミロの性質は、異国の土地のもの珍しい風景を前にして、大きく好奇心の方へ振り子が振られたようで、止める間もなく、ずんずんと見知らぬ方角へと突き進んでいったからだ。 物怖じしないミロにとって、言語や文化の差などたいした問題にはならず、身振り手振りでコミュニケーションを成り立たせ、次々と買いものを重ねていった。カノンの方はというと、止めるどころか、むしろその様子を楽しんでいる有様だったのだから、まるで頼りにならない。あれはなんだ、これはなんだと、ミロはカノンを連れ回し、そのたびにカノンの両手は、無計画に買われた品々で、みるみる塞がっていった。 ラインナップは、まさに混沌と表現できる。いつどこで使うつもりか知れない黒と朱に塗られた対の箸に、太い鼻緒の大きな下駄。人形焼と書かれた白い紙袋は、奇跡のバランス感覚で中身が転がり落ちないよう、カノンの脇に抱えられている。なお、こしあんかつぶあんかで両者が争った結果、ミロのこしあんが勝利したのだ。 これに、各所での買い食いが、適宜追加されては、消費されていった。名物らしいと喧伝されたメンチカツ、たれがたっぷりとかけられた五平餅、きびだんご、ほかにもいろいろあった気がするが、氷河には覚えられなかった。 カノンはカノンで、足を延ばした先のかっぱ橋道具街で、ちゃっかり中華鍋と包丁を購入している始末である。実用面で優れようとも、荷物になるという点では、ミロと大差はない。 漢字一文字が大きくプリントされたTシャツを阻止することはできなかったが、浅葱色の羽織が包まれそうになるのを止められたのは、氷河、此度第二の功績である。 ひとつ路地を横に入れば、風情豊かな店に出くわす。店先の涼やかな風鈴の音に誘われてのれんをくぐると、美しい日本画の描かれた手ぬぐいが何十枚と飾られている。さらにその先の店には、煌びやかなかんざしが並んでいる。脚の赴くまま寄り道をしているうちに、知らず街の奥深くへと迷い込んでゆく。大回りに遠回りと迷い道を重ねた結果、ほんの三百メートルのはずの浅草寺にたどり着かないまま、日は既に傾き始めていた。 無事、アイスもなかを購入できたらしいふたりが、人の流れに逆らって、氷河たちの方へ歩み寄ってきた。上背のある美形は、ただでさえ迫力がある。カノンの腕には、ここに来るまでに買った食べ物と土産物が抱えられており、手ぶらで身軽なミロとは対照的であった。 「氷河、瞬。お前たちにはこれをやろう」 ミロは、カノンが落とさぬように気をつけて持っていたアイスもなかをふたつ取り上げ、ふたりに手渡した。荷物係がカノンで、受け渡し役がミロという分担らしい。散々迷っていたのは、氷河たちの分も選んでくれていたからだった。バニラとチョコチップという選択は、意外に無難、というか、はずれがないという点で、気遣いが見受けられる。なお、カノンの手に残るふたつは、きなこと黒ごまのようだった。どちらが選んだものか知れないが、自分たちの分は冒険をするあたりに、性格がよく表れている。 改めて見ると、カノンとミロは、多くの共通点をもっているように、氷河には思えた。共に黄金聖闘士で、身長が高く、立派な体躯をもつ偉丈夫で、同じように髪が長い。自信に溢れた態度、裏づけられた強さ、そして、なによりふたりとも大人だった。自分より、ずっと。 しかし、属性を挙げ連ねればおおいに似通った特徴をもっているのに、実際に並び立つと、少しも似ているとは思われない。質の違いが互いを引き立て合うのか、面白いほど対照が際立つのだ。 並んで歩くと、肩が触れ合うか触れ合わない程度。だが、ふとした瞬間に、すっと近づくときがある。たとえば、面白い土産物を見つけ、腰をかがめて台に頭を寄せ合うとき。昼の食卓を囲み、鉄板で焼きあがるもんじゃ焼きをつつくとき。悪戦苦闘しながら、読み慣れない文字の地図を解読するとき。もなかに入れるアイスを選ぶため、食い入るようにガラスケースを覗き込むとき。不意に近くなる距離は、確かに無意識の距離で、だから自然な距離なのだろうと、推し量れる。傍にいて自然な距離、傍に寄ることを許す距離。 人との距離は、どうやって測ればいいんだろう。氷河は、いつもそれが苦手だった。ミロとの距離も、ずっと測りかねていた。 氷河たちにしてみれば、たいして珍しくないものを、さも得意げに戦利品としてカノンに見せびらかすミロは、十二宮で黄金聖衣を纏っていたときの凛とした立ち居振る舞いからは、想像がつかなかった。後先考えずに買い食いする姿も、こういうときでもなければ、見る機会はなかっただろう。楽しそうでよかった。ほっとしたような、けれども、なんだか寂しい気持ちにも囚われる。 二十歳という歳はカミュと同じ。六歳の差が埋まることはなく、氷河にとって、ミロはどこまでも大きく、追いつけない大人だった。気さくな態度は、距離が少しだけ近くなったようで、嬉しいと思う。なのに、自分がこれまで見ていたのは、ほんの一部に過ぎなかったと知らされ、かえって遠くなった気もしてしまう。 「思うことがあるなら、本人に言ってみることだな」 不意に上から声が降ってきた。氷河はスカイブルーの瞳を大きくして、くるりとカノンを見上げた。 「大人になれば、自然にできるようになるんだろうか」 カノンからしてみれば、寝耳に水の質問である。しかし、カノンは、茶化すこともなく、しばし考えてから、真面目な顔で答えた。 「実際にその歳になってみれば分かる。大人も、たいして大人ではなかったんだとな」 そういうものだろうか。氷河にはまだ分からなかった。 「もっともやらかしたこの俺が言うのだから、間違いない」 一番年上のはずのカノンは、そう言って、子供っぽく片目を瞑ってみせた。 「カノン、氷河に近づくんじゃない。お前が教えるのは、ろくなことではない」 「ひどい言われようだな。人生の先輩としてだな」 「氷河、教えを乞う相手は選べよ」 あながち冗談とも思えぬミロの顔つきに、氷河はどう反応すべきか困惑する。カノンも、冥界で世話になったときと今とでは、だいぶ違っているように感じられた。それが、環境のせいなのか、人のせいなのか、死を経て蘇った経験のせいなのか、氷河は判断できるだけのことを、カノンに対してももっていない。 女神を信仰の対象とする彼らにとって、日本的な死者の祀り方はどう映ったのだろうか。彼らは、滞在中、一言もそのことに触れなかった。彼らにとって、死して逝く場所は冥界である。そして、彼らは、一度その門をくぐったのだ。 日本では、亡くなってから初めて迎える盆のことを、初盆という。 この一年は、多くのことがあった。戦いで、多くの命が失われた。戦いだけではない。病に伏したものも、年老いて天寿を全うしたものも、若くして命を落としたものも、人も、動物も、この世に生を受けたもの全てに訪れる死。 死者が蘇るという奇跡が起こらなければ、想ったのは、我が師であり、ここにいるミロであり、カノンだったのかもしれない。その当事者たる彼らが、何を思いながら、送り火を見つめていたのか、やはり氷河には分からなかった。 分からないけれど、ひとつだけ、きっと分かったことがある。火を見上げるカノンの横顔を見たとき、その視線の先に、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、同じ人を見ていた気がする。氷河は、自分と同い年の、隻眼となった少年を思い出していた。 仲見世通りの店先につり下げられた赤提灯の中に、灯りが点り始めた。シャッターを下ろす店もちらほら現れ、俄かに寂しさが漂いだす。 立秋と呼ばれる時候。気温はまだ三十度を上回っているというのに、空には、早くも秋の気配が染み出していた。西日を浴び、うっすらと茜色に染まった綿雲に、細かくちぎれたうろこ雲が重なり、空では夏と秋が行き合っている。 「氷河とミロも、六十センチくらいだったよ」 じっと黙って見ていた瞬が、氷河の耳元で声をかけた。瞬の言葉に、氷河は目をしばたかせた。どうやら自分の言ったことを忘れているらしい。 「氷河は、だいたい近いよね」 瞬は、構わず付け加えた。実のところ、氷河が瞬に並ぶ距離も、たいがいに近い。意識しないほどに、それが彼らの自然体で、青銅聖闘士たちは皆、無自覚に互いの近さを共有している。短くも果てしなく濃い時間を共に過ごした。戦いを介し彼らが得てきたもの、かけがえのない絆が、そこにはある。 傍にいることに、理由はいらない。それが、少年時代にだけ許される特権だと、彼らはまだ知らないのだ。理由がなければ、近づくこともできない。大人たちの面倒な葛藤を知るとき、少年たちは、少し大人になる。 「気を許す前は、すっごく遠いのに」 兄さんにさえ、氷河はひょいひょい近づいていくよね。にこにこと微笑む瞬の考えていることが氷河に伝わるのには、もう少し時間がかかりそうだ。自分で思うよりもずっと、氷河は人の近くにいる。 六十センチメートル。ふたつきほど前、ミロが日本を訪れたときよりも、たぶん少しだけ近い、自然に腕の届く距離。 ◇ ベッドに長い肢体を投げ出しうつ伏せに寝そべるさまは、大変くつろいでいて、カノンが部屋に入って来ても、特に気にする様子もない。人が近づけば、ごく微かではあるが、その動きを探るように筋肉を緊張させるのが、動物の本能だ。そんな反応さえみせないのは、カノンが傍にいることに、すっかり慣れてしまっている所以なのだろう。我がもの顔にベッドの中央を占めているのは、あたかも猫科の大型動物である。 カノンは脇から覆いかぶさり、ふわふわとやわらかい毛を優しく撫でた。長い毛はくるくる勝手な方向にはねて、油断をするとすぐに絡まり毛玉をつくる。この艶のある滑らかな手触りは、日頃のブラッシングの賜物なのだ。鼻を押し付けて、胸いっぱいに息を吸い込む。太陽の匂いのする体臭は、じんわりと胸の奥をあたため、安らぎと微睡みを運んでくる。大型猫科猛獣、こと、この部屋とカノンの主であるミロは、特に抵抗もせずに、肩に回されたカノンの手がシーツに散った癖毛を弄るのに任せていた。 カノンはふと、腕の中のミロが、なにやらしきりに紙をめくっているのに気づき、怪訝な顔で、頭越しに覗き込んだ。 「お前でも本を読むことがあるんだな」 カノンは、からかう調子で言ってみるが、当の本人はフンと鼻を鳴らしただけで、取り合おうとはしなかった。どちらが主人か、よく分かっているのである。 「女神の護衛で日本に行ったときに、あまりに暇だったのでそこらにあるのを手に取ったのだ。眠気を誘うのに都合がいいので、年中かぶって寝ていたら、青銅の連中が勘違いして、帰るときに贈られてしまった」 ミロの寝室には、一見不釣り合いなほど大きな書棚が置かれている。あまり拘りはないのだろう。一貫性のないジャンルが無造作に並べられているのを、カノンは何度も目にしていた。が、実際に、ミロが何かを読んでいるのを見るのは、初めてだった。 カノンの長い指が黄ばんだ羊紙の上に添えられ、文字を追ってページの端を這う。そして、ぴたりと止まった。 「お前、ドイツ語が読めるのか?」 頭の上から零される驚きを含んだ声に、ミロは首を半分回して応じた。厚い胸板に阻まれ、形の良い顎と通った鼻筋を仰ぐに止まったが、難しい面持ちは見て取ることができる。カノンは黙りこくって、書物の上に目を走らせている。 しばらく待ってみても、本に気を取られて自分の視線に気がつかないことに焦れたのか、ミロは開いていた本をぱんと閉じて、脇に投げた。ぐるりと身体を反転させ、仰向けにカノンを見上げる。 「えらく退屈で、俺には合わない。興味があるならお前にやる」 「読んだのか?」 「ドイツ語だったのでよくは分からん」 得意ではないのだ、と口の中で不本意そうに呟くのがおかしくて、カノンは空いた腕でミロの身体を抱き寄せた。自分からそういう体勢をつくったにもかかわらず、暑いからひっつくなと、ミロは身体をずらして逃れようとする。身体と身体の間に少しだけ隙間ができる距離で妥協したらしく、横向きに抱えられたまま、ミロはおとなしくなった。 「気に入らなければ捨てても構わん」 続いていたらしい話題を終わらせるべく、カノンは、前髪ごしにミロの額に口唇を落とした。瞼の上、鼻筋を経て、徐々に下へとずらしていくと、ミロは眼を細め、口の端を僅かに上げて受け入れた。薄く笑った口元と、流れるように見下ろす視線は、臣下に奉仕を許す王の振る舞いにも通ずるが、これはミロが気分の良いときにする表情であることを、カノンは知っていた。現に、瞳は穏やかな色を湛えている。 「大きくて重くて邪魔なんだ」 なおも言葉を紡ごうとする口をなんとか塞いで黙らせると、ミロはようやく、緩やかにカノンの首に腕を伸ばしてきた。 「お前、本当に顔だけは綺麗な造りをしているな」 事が終わり、シャワーを浴びて戻ってきた先が、居間のソファに移っただけで、ミロの態度が変わる気配はない。悠々と寝そべり占拠したソファで、すらりと伸ばした素足をカノンに預けていた。今しがた綺麗に磨かれたばかりの足の爪先でカノンの下顎の縁をなぞり、くいと持ち上げる。 ミロの髪と爪の手入れは、いつの間にかカノンの役割に数えられ、こうしてその日の締めくくりに整えるのが日課となっていた。ミロ自身は、自分の髪にも爪にもさしたる興味はないのだが、寝転んでいるだけで綺麗になってゆくのは気持ちがいいし、カノンに触られるのは嫌ではないので、好きにさせていた。なにより、真剣な眼差しのカノンの顔を鑑賞できるのは、悪くない。 「そうか?」 気のなさそうな返事をするカノンは、あと一本、最後に残った左の小趾の仕上げにかかったところだった。 しつこくするとさっさと逃げていくのに、放っておくと纏わりついてうるさいのは、やはり猫が人の皮を被っている疑いが濃厚だ。俺を構えとちょっかいを出してくるミロの右脚を軽くいなし、黙々と作業を続ける姿は、かなり堂にいっている。いちいちミロの悪戯心に付き合っていたら、まるで進まないのは、充分承知しているのである。 「ほかに取柄もないからな。お前がそう言ってくれるのなら、この顔に生まれた甲斐があるというものだ。同じものがもうひとつあるのが、玉に瑕だが」 「そういう言い方はよせ」 ミロは、むっとした顔をつくり、足の裏でカノンの頬をぐいと押しのけた。カノンの自嘲的な物言いは、ミロの好むところではない。ことサガに関する軽口は、努めて言わぬように心掛けているものの、最近ぽろぽろと零れ出しては、ミロの不興を買っていた。ミロの前では気が緩んでいる証左なのだが、かといってミロの方も看過する気はないようだった。 「それに、お前とサガは、自分たちが思っているほど似ていないぞ」 ミロの生真面目な反応は、カノンを思ってのことである。ことさら双児宮に帰らせようとするのも同じであった。時と場合によっては不快に感じるはずの事柄も、捻くれもののカノンをして、素直に受け取れるのだから、恋とは何ごとにも勝る魔法の薬なのだろう。 分が悪いと見てだんまりを決め込んだカノンのにやけ顔が気に障ったのか、ミロは濡れた髪に巻いていたバスタオルをわしわしと擦って床へと放り投げた。これにはカノンもすかさず口を挟む。 「雑に扱うな。髪が傷むだろう」 ミロは面倒くさそうに腕を大の字に広げ、ひっくり返ったままである。カノンは、軽くため息を漏らしてから、爪切りセットを一旦サイドテーブルに除けた。 頑として自分からは動こうとしないミロの両腕を掴んで引き起こし、ソファに座らせる。それから、投げ捨てられたバスタオルを拾って、洗いたての長い髪に、丁寧に巻き直した。ついでに、いつまでも裸のままでごろごろしていられるもの目に毒なので、着替え一式を傍に置いたうえで、肌触りの良いタオルケットで本体を包み込んだ。これで人心地である。 除けていた爪きりを再び手元に引き寄せ、今度はミロの手を取った。自然、正面に跪く形となる。 「まったく。俺の顔がどうこう言う前に、お前は自分の持ちものを大切に扱え。綺麗な素材が台無しだ。それから、ちゃんと服を着ろ」 「お前が脱がせたんだろうが」 ミロが口を尖らせた。ついでを装って付け加えた本命に反応するあたり、ミロの動物的な勘は、いつもながらに冴えわたっている。脱がせはしたが、用事がすんだら着てほしいのが男心だ。 「お前の方こそ着込みすぎだろう」 カノンの方は、同じく風呂上がりでもきちんと身支度を整え、未だに裸のままのミロとは大違いであった。カノンはこの点、意外にも節度を保っており、脱ぐ必要のないときには、しっかり着込んでいるのが常である。対してミロは、初めの方こそ、じたばたと抵抗していたが、あるとき、まあいいか、とスイッチが切り替わったらしく、カノンの前では無防備に、かなり薄着でうろつくようになったのだ。気を許してもらえるのは喜ばしいことだが、カノンとしては、目のやり場に困る。 だいたい散々いかがわしいことをしておいて、今更裸を見たからどうだというのだ。とは、シャワーのあとにきっちり服を身につけているカノンに、ミロが投げた言葉である。それはひとつき前のお前に言ってやったらどうだ? と喉まで出かかるカノンであったが、もちろんやめておいた。百倍になって返ってくるのが目に見えている。 「俺をサガと一緒にするな」 縄張り意識はミロよりも遥かにおおらかなカノンが、着衣に関してだけ厳密になるのは、双子の兄の反動である。この点に踏み込むと、途端にカノンは面倒くさくなるのを、持ち前の勘で察知して、ミロは黙ることに決めた。双子の問題は、重要なことと、どうでもいいことが混在するのでややこしい。どうでもいいことの方は、文字通りどうでもいいので、触れないに限る。 カノンとしても、ミロの爪を弄っているときは、一ミリの誤差もないよう作業に集中したいので、ミロがおとなしくなったのは歓迎すべきことだった。 ミロの人差し指には、特に思い入れがある。この爪から、あの痛みと、あの温かさが、共に生み出されたのだ。今でもその奇跡は信じがたく、故に天啓にも近しい思いを抱いていた。あらゆる敵を刺し貫き、激痛と死を与えるその同じ指先で、生命の灯を繋ぐ。死と再生の循環は蠍座の本質である。思えば、全てがこの指から始まった。だから、終わりも、きっとこの指によってもたらされる。それは甘美な誘惑として、カノンの胸に小さな火種となり、燻り続けている。 カノンの秘めた欲望に気づいているのかいないのか、手入れの最中、ミロはじっと動かぬまま、カノンを見下ろしていた。 「明日は遅くなる。来てもいないからそのつもりでいろ」 全ての爪が磨き終えられるのを見計らって、ミロが口を開いた。カノンは、僅かに首を傾げて先を促す。 「宝瓶宮に行ってくる。カミュと話がある」 先日行われた女神の誕生祭に合わせ、多くの聖闘士たちが聖域に戻ってきていた。古代ギリシャの慣習に則れば、女神の生誕は新年と同義である。パンアテナイア祭と呼ばれ、盛夏のヘカトンパイオン月に、四日間に渡って執り行われる聖域最大の祭典であるはずだった。しかし、聖戦後の現状を鑑み、女神自らの呼びかけによって、慎む向きとなっていた。 それでも、こういうときだからこそ祝うべきだ、という意見も多かった。そこで、女神が人の肉体をもって降臨した日、すなわち城戸沙織の誕生日として、おのおのが自発的に祝うこととなったのである。 カミュもその言祝ぎに訪れ、しばらく滞在しているのだ。 「俺よりカミュが優先か。つれないな」 多少冗談めかしてカノンが言ってみれば、当たり前だろう、と即座に返ってきた。 「お前は黙っていても来るだろう。カミュはこちらから出向いていかないと、なかなか会いに来ないのだ」 まったく何日経ったと思っているのだ、とぶつぶつ言うミロを見れば、昔から随分苦労してきたであろうことが窺えて、カノンは苦笑せざるを得ない。 「お前は双児宮でおとなしくしていろ」 「俺は此処で待っていてもいいんだがな」 「カノン」 未練がましく一応言ってみたものの、ミロの答えは嗜めるような響きをもって、迷いはない。カノンは肩をすくめて笑う。 「冗談だ。それに、実は俺も、明日は聖域を留守にする用向きがある」 「初耳だな」 「言わなかったからな」 「そうか。なら、丁度よかったのか」 安堵したような、それでいて細かく瞳を泳がせるミロは、カノンの反応に少し戸惑っているようにも見える。 「俺がカミュに妬くとでも思ったのか?」 「いや。それは思っていないが」 これにはミロは、あっさりと平坦な声で答えた。たいした信頼ぶりには、男として、喜ぶべきか悲しむべきか、難しいところである。 「お前が寂しがるといけないと思ったんだが。杞憂だったようだな」 思いがけない台詞に、カノンは思わず目を細める。ミロは、カノンの胸にことりと頭をもたせかけた。可愛げのない言い回しで、可愛い態度を不意にとるから、反則である。寂しがっているのはどちらだ。それともわざとか。わざとなら、随分あざといやり口を覚えたものだ。 「そんなことはない。それはもう寂しくて死にそうだ」 あざとかろうがなんだろうが、既に全面降伏しているカノンであるのだから、ほかに選択肢があるわけでもない。現に寂しいのはそうなのだ。預けられた頭をぐっと抱きしめると、包んでいたタオルがぱらりとはずれ、ミロの湿った髪がカノンの顔を掠めた。 「だが、お前の言う通り、双児宮でおとなしくしていることにしよう」 寂しくはあっても、それ以上に、ミロが自分のことに心を砕いてくれることが嬉しかった。自分が抱くものと同じくらいの熱量、とは言わないまでも、一方通行ではない気持ちのやりとりは心地よい。血縁とでさえ通じ合わなかったものが、他人と成り立ち得るということは、カノンにとって純粋な驚きであり、発見でもあり、そして感動だった。これはカノン自身も自覚していないことだが、カノンがミロに抱く感情のもっとも大きな部分は、実は感謝で占められている。 カノンは、ミロの髪の水気をタオルで丁寧に拭き取り、額を寄せて言った。 「ミロ、明日は来ないが、きちんと食事はとれよ。市場で買ってきたプラムはそろそろ食べ頃だ。洗ってあるから、皮はそのままでも食べられるが、種は飲み込むな。マルメロは豚肉と煮込んで鍋の中だ。味はしみているはずだから、火にかけるだけでいい。ただし、火加減には注意して焦がさないようにな。弱火でじっくりだ。弱火というのは鍋底に火が当たらないくらいの火加減だぞ。ロイメンレタスは細かくちぎって、刻んだネギと合わせるとうまい。塩とレモンで味付けするのがいいが、面倒ならワインビネガーとオリーブオイルをかければ十分食えるくらいにはなる。口寂しければ、軒先に吊るした干しぶどうを使え。あとは初物のクルミがあるが、うん、殻は剥いておいてやるから」 「……本当にお前は、俺をなんだと思っているのだ」 口をへの字の曲げたミロの呆れ顔に、カノンはくつくつと笑った。随分、馴れたものだと思う。 カノンは、ミロの右手を取ってぐっと握りしめる。人差し指を自らの指でなぞり、その爪先に口をつけた。 「お前、本当に俺の指が好きだな」 ミロはもう嫌がらず、カノンの口づけを受け入れた。何度も繰り返された儀式は、今では告白よりも、確認に近い。 「本当に好きなのは、お前なんだが」 「それは、もう知っている」 乾いた大地に再び雨が降り注ぐとき、豊穣の秋が訪れる。 明日は再び満月が昇り、巡る季節に誘われて、刻は閑かに動き出そうとしていた。 |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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