太陽の欠片聖域にひとひらの花びらが舞い降りる。 朝まだきは既に肌寒く、守る者の少なさが、その寒さをより、際立たせる。石の階段を一歩一歩踏みしめながら上る。その身に纏う黄金聖衣の重みは、踵が石を打つ音となって、まだ星々が光る暁暗の空に響く。 あの運命の夜、幾度となく背を向けようとしたのは、羞恥と畏れと、しかし踏み出したのは、胸に穿たれた罪悪の杭が、懺悔と断罪を求めたからだっただろうか。その一歩を、今も忘れることは出来ない。断頭台へと続くかの如く無限にも長く感じられた女神への階段、罪人は目に見えぬ足枷に繋がれ、重い足を引きずった。 比べることなど出来ない、比べ得るものでもない。だが敢えて言うならば、あの時よりも、なお重い、今我が双肩にかかるものは。 この石段を上る一歩を踏みしめるごとに、心に刻み付けていくのだろう。女神への敬愛と忠誠、そして受け継いだ使命。自らを戒めていた足枷をいとも容易く砕き、進むべき道を照らした赤い閃光は、もうない。しかし、その光は今も、瞳の奥、深く脳裏に焼き付いて、目を瞑れば鮮明に思い出すことが出来る。光が指し示した先に開けた未来に今在る自分は、ここを守った十二の戦士、幾多の失われた命が望んだものを、これから先も守り続けていく。この世に、たった一人残された、仮初の黄金聖闘士として。 「また行くのか」 暗闇から声がかかる。獅子宮の柱に背をもたせかけて腕を組んだ男の顔は、陰になって見えないが、確かにカノンの方を向いていた。カノンは問いに対して、口元を僅かに上げただけで、答えなかった。 「随分早起きだな」 柱から体を離し、一歩前へ出た男の口調は、別段含んだ意図の込められたものには思われない。 「ゆっくり上っていけば、程よい刻限に女神神殿に着く」 「ゆっくり、な」 もともと口数の多い男ではない。それ以上の言葉を紡ぐことはしなかった。このままいつものように、通り過ぎても良い。だが今日は、無言を貫いてきたこの男が、珍しく声をかけてきて、そしてカノンも、誰かと言葉を交わしたい気分になっていたのかもしれない。ふと、口を開いた。 「一輝よ、お前が大人しく十二宮に留まるとは、意外だったぞ」 獅子宮に在る不死鳥座の聖闘士。そのどことない不調和に、今なお、カノンも、そしておそらく当人も、慣れることが出来なかった。 「しかも、お前だけ、とはな」 聖戦を生き残った他の青銅たち、彼らの方がまだ、相対するべき宮に似つかわしく思えたかもしれない。だが、彼らが在することを許された宮にいることは、決して多くはなかった。 「俺は群れるのが嫌いだ」 「天邪鬼だな」 「個人的な感傷など持ち合わせてはおらぬ」 直接の師弟であった者たちが、師の守った宮に何を感じるのか、想像することしか出来ない。一輝の言葉は、それを歯がゆいと思う、苛立ちの裏返しなのかもしれない。 双児宮から来る無人の十二宮の道すがら、必ず人の気配がするところが、ここ獅子宮だということは意外であり、しかしどこかで、納得することも出来た。 「お前は良いのか」 短い会話を終え、去ろうとするカノンに、彼が何を言おうとしているのか、分からなくはない。だが。 「わたしは双子座の黄金聖闘士だ」 フッと笑ったどこか寂しげな顔に何か言うほど、この男は無粋ではない。石段を上るカノンに、背を向け、見送った。 覆う空の闇は仄かに明らみその漆黒を散らし、それでも夜の星々は輝き続ける。人類が生まれ落ちる遙か前から宇宙に在る無数の煌めきは、人の生と死と、生と死と、更にまたその生と死を、見続けていくのだろう。 通り過ぎる宮には誰もいない。一つ、二つ、そして、三つ目。此処を訪れる度に去来する想いに、名が付くことはない。感情とも呼べぬばらばらの破片が、鋭利な刃となって皮膚を掠め、確かめる間もなく四散して消える。 聖域にある黄金聖衣は七体。纏う者を持つものは、一つ、双子座の黄金聖衣のみ。兄より預り、兄に返し、今また、預かっている。一人残されたのは、黄金聖闘士でなかったが所以、その自分だけが、今は、黄金聖闘士である。 いずれ年若い青銅の聖闘士たちも、その身に纏う日が来るだろう。砕け散った黄金聖衣を前に、深い悲しみに涙を流しながら、この世に唯一となった幼き修復師は言ったのだ。 『何年かかっても、必ず元に戻してみせる』 彼の瞳は雫を溢れさせてもなお強く、幼さを残した顔は、既に一人の男のものだった。誓ったのだ。他の誰でもなく、彼の師に。 彼らが、かつてそれらを纏っていた黄金の戦士たちから託された思いを噛みしめながら、その聖衣を纏う日まで。聖域に、我が身の必要がなくなる時まで。 無人の宮の柱に頭を預け、夜明けを待つ。静寂は耳を風の音に敏感にし、がらんとした宮内は目に虚しく、此処が、無人であるということを、意識させる。 「いないんだな」 つい、こぼれ出た言葉を悔やむ。だが、聞き咎める者など誰もいないのだということに、安堵すると同時に、胸に深い空洞が生まれた。 刻まれた十四の星は、たった一つが欠けている。代わりに与えられた一つの点、それが繋がれた命。もう傷跡は痛まない。なのに何故か、心臓の拍動が力強く己を生かす度に、欠けた一欠片を求めて、その裏が、僅かに疼く。 天蠍宮の入り口に、黄金の輝きを纏って誇り高く立つ守護者の姿を、見たことはなかった。だが、此の場所に残る記憶か、主を失い今は静かに収まる蠍座の聖衣の思い出か、見たはずのない光景は、残像を伴って目の前にありありと描き出される。 同志と呼んだ、たった一人の男は、太陽の光となって、届かないはずの冥界の奥深くで輝き、そして散った。 彼らが残した希望。 聖戦は終わり、光は今、全ての生命を照らし、地上に満ちている。 白み始めた空を見上げ、此処で待ち望む。 太陽の通る軌跡が蠍座の上に在るこの時には、光と熱となってお前の一部が地上に降り注ぐのだと思おう。 だから夜が明けて、太陽の欠片に乗ったお前にまた出会えるまで、此処に佇むことを、許せ。 |
Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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