深海の眠り薄暗い回廊を、足早に通り抜ける。主を得たはずの今でもここは、無人であった時と同じく静かで、動くものの気配もない。絡み付いてくる得体の知れない居心地の悪さは進むことを躊躇わせるのに、その裏で、数分の道のりさえ無限に長く感じる気持ちの方には、焦燥が募る。こうして訪れるようになって、数か月以上が経つ。先に何があるか、もう知っている。冷たい石の壁と高い天井、中央に据えられた寝台以外は何もない部屋。変わらない光景、移ろわない刻。 わざと肩で風を切り、大股に勢いをつけ歩を早めたのは、沈殿する大気に引きずられる己を鼓舞せんとの無意識が、働いたせいかもしれない。黄金聖衣の踵が石を蹴る音が、やけに大きく、薄闇の中に響いた。 ここは刻が止まっている。十三年と、それ以上。 『何故カノンは蘇らない!』 最初に訪れた得も言われぬ怒りを、噴出するに任せてぶつけた相手は意図されてのものではなかったが、関係性から必然でもあり、結論から言うと、ミロのその選択は、間違ってはいなかった。 『ミロ、大きな声を出すな。落ち着かなければ話もできん』 『サガ、お前こそ何故そんなに落ち着いていられるのだ。カノンなのだぞ』 『カノンは死んだわけではない』 被せるように言うサガの押し殺した声音に、ミロは思わず黙った。 『だが傷が重い。未だに生死の淵にある』 一度は黙ったものの、次の瞬間吹っ飛んでいたのは、たぶんどこかの頭の螺子だ。 『そんな理不尽なことがあるか! 一度は死んだはずの俺たちが、五体満足に生を享受することを許されておきながら、生きている故にカノンだけが目覚めぬなど理屈に合わん』 『それが理なのだ。分かれ、ミロ』 寝台の上に横たわる人物を見下ろす自分の顔には、どんな感情が浮かんでいるのだろうか。開かない瞳には揺蕩う海を宿しているのか、その色を思い出そうとしても、知らないのだという事実に辿り着く。心に感じる憤りや、納得のいかない苛立ち、原因の分からない焦り、その中心は、光を灯さない微かな炎心、それが己を突き動かしている。様々な感慨が綯交ぜになって、結局映るのは、淡泊に無感動な無情。こうして見下ろす度に思うのだ。どうやって顔には表情がのっていたのだろう、と。 時間的にはとうに癒えているはずの傷さえ、治りゆく予兆も見せていない。胸元までかけられた布で大半は見えないが、先から覗く不自然な方向に向いた足先や、胸、肩、首にまで及ぶ焼けただれた皮膚が、壮絶な戦いの痕を思わせた。 小宇宙は生命であり、内なる宇宙。極限まで高められ、弾けたものが、こうして生命を繋ぎとめておけること自体、奇跡なのであろう。いつ何時、蜘蛛の糸のようにか細い糸が切れて、身体から魂を手放してしまうのか、その瀬戸際にあるだろうことは、いつまでも生々しいままの傷跡が示していた。 それはひどく不確かで、危ういバランスの中にある。傾いた天秤の皿の上にのった砂のように、さらさらと零れ落ちていくことになったら、蘇った自分たちと同じように、その時こそ再び新たな生命を与えられてこの世に目を開くことが出来るのか。誰もが考えまいとしても一度は頭をよぎったであろうことを、決して口にすることは出来なかった。摂理に反する。そんなことは分かっている。だが、生き残ったが故に、死に行くのだとしたら、それは摂理に反してはいないのか。是非もない。その不条理に、人間は異を唱えることなど、出来はしないのだから。 『お前がカノンのために憤ってくれた時、嬉しかったのだ』 その頃はまだ月に数度。双児宮に立ち寄るようになっていたミロを迎えたサガが、珍しく漏らしたのは、彼にとっては気の緩みか、失言の類だっただろう。 『私にはできないことだ』 感じていなかったはずはない、不条理に対する憤りや嘆き。兄が弟を想うことを許されないことなど、あるはずがない。だが、罪の意識を一人抱え続けている男は、自らにそれを禁じている。 『私はカノンに影たることを強いてきた。私のことを、カノンは恨んでいるだろうな』 寂しそうに言ったサガは、この世に蘇って以来、ほとんど双児宮を離れることはなかった。なのに、横たわる弟の傍らに兄の姿があるところも、ミロは見たことがなかった。 『サガ、それは違う』 そう言ったミロに、サガのことを慰める意図があったわけではなかった。 『そう思っている人間が、躊躇いなく双子座の聖衣を脱ぎ捨てて、お前の元へ届けたりするものか』 眠るようなカノンの顔には、無念だとか、心残りといったものは微塵も滲んではおらず、為し切った男のそれであることが伺えた。だから、感じたままを口にしたミロの言葉に偽りはない。憂いのある瞳が微かに揺れ、しばらくの無言の後、ぽつりと言って、サガは笑った。 『兄である私よりもお前の方が、カノンをよく、分かっているのかもしれないな』 自ら救われようとしない男の闇は、似ているようでいて、はっきりと、双子の弟のものとは違っている。 あの激烈な聖戦の幕開けの、一瞬の邂逅は、通り過ぎる幾多の戦いの、ほんの一つに過ぎなかった。向き合った男の小宇宙は悠然と大きく、飲み込まれそうなほど、強い意志の力を秘めていた。それにもかかわらず、突き付けた真紅の針を、その男は甘んじて身に受けた。交える拳はなくとも、あれはまぎれもなく本気の戦いで、受け取ったものは確かな覚悟、だからそれに全力で応えた。撃ち込んだアンタレスが留まった理由を、自分でも説明することは出来ない。指が胸の中央に達し、その拍動を感じた時に、ただその時に、これでいいと思った。 理由は分からない。いつからかと言われても、それも定かではない。運ぶ足数はいつの間にか増え、今は一日を置くこともない。 あの時あらん限りの生きる意志を見せつけた男が、何を感じて生きて来たのか。何を背負って冥界を駆け、最後の時何を思ったのか。知ってみたいと思った時に、どこかで熱が生まれ、消えないままに色のない炎を燃やし続けている。 焼け焦げた肌の上からは、針の痕は見出せない。だがその実、スカーレットニードルの傷跡がどんな風に残るものなのか、見たことなどないのだ。知りたいと思ったこともなかった。これまでは。 刻んだ星があるべきはずの鎖骨の上を、指でなぞる。 敵と共にたった一人で死ぬことを選んだ男は、今なお、ただ独りで生きている。この男が、生と死の狭間でぽっかりと浮かんだまま、刻と世界から取り残されていくのが、ひどくやるせなく、そして無性に許せない。 カノン、お前がいなければ、サガの刻は動き出さない。動き出している聖域の刻も、どこかで僅かに何かが足りない。それから。 「俺のアンタレスを受けずに、死ぬことなど許さない」 精一杯はった虚勢の声は、自分でもおかしいくらいに虚しく、高い天井の闇に飲まれた。呟きは、打って変わって小さく、頼りなげに低く、石の床に沈む。 「いい加減に目を覚ませ」 作り物のように綺麗な顔の開かない瞳を、動くことを忘れた表情で見下ろす。 俺はお前に聞きたいことがある。 お前の瞳の色を知りたいと、思う。 太陽光も届かない、深い海の底で眠るというなら、その夢に在るのは安寧か孤独か。せめて微かな光と熱でも、届いてくれればいいと思う。 長い沈黙の後に、もう、何度目になるか分からない、その名を呼ぶ。 「カノン……」 |
Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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