海で拾った宝物前編穏やかな日差しが、柱と柱の間から、双児宮の中まで射し込んでいた。晴れた空は気持ちが良い。高いところにある雲が流れ、見上げるカノンの上に落ちた影も、風にのって緩やかに動く。柱の台座を枕代わりにして寝転んだカノンは、伸ばした腕を空に掲げた。親指と人差し指の間に挟んだ小さな環の中から覗く世界は、広く大きく、全てのものが輝いて見えた。 お前がこれから生まれ行く世界は、どんなに美しいものだろう。 雲から顔を出した日の光を受けて、銀の石座に戴いた貴石が一閃の光芒を放った。透明感の増した煌きに、薄く目を細める。自然に頬が緩み、カノンは声をあげて笑っていた。 「随分とご機嫌じゃねえか」 脇を通り過ぎて行こうとしていた隣人は、笑い声に足を止め、目敏くカノンの手のものを認めた。 「もらい物か? 隅に置けねえなあ」 「いや、拾った」 「拾った?」 ふうんと怪訝な顔を覗かせただけで、それ以上は何も言わずに、デスマスクは双児宮を後にした。長居はしないに限る。巻き込まれるのは御免だと、竦めた肩が言っていた。 ひとしきり、きらきらと光の反射を楽しんでから、掌に世界を収め、カノンは勢いをつけて跳ね起きた。 そろそろ行こう。今日はきっと、待っている。 仰ぎ見た遥か上の宮からは、暖かい陽光が惜しげなく降り注いでいた。 I pray for Heaven's blessings on you. 青い空と海、白い壁。ギリシャの夏を絵に描いたような景色の向こうを、海鳥の群れが横切っていった。遠目に見える入り江には帆船が集い、パレットの上で混ざり合ったブルーの絵の具さながらの海の上に浮かんでいる。家々の間を埋める緑は、風景にみずみずしさを添え、花壇から溢れかえるほど豊かに生い茂ったブーゲンビリアが、赤紫色の鮮やかな花弁を風に揺らしていた。 「お前がこういうところに来たがるとは珍しいな」 高台のテラスに設けられたカフェの一角で、のんびりと長い手足を寛げていたカノンは、遠く海を眺めながら言った。 「ああ……」 曖昧な返事を返すミロに、柔らかな眼差しを投げてから、カノンは再び海へと視線を戻した。 「別に俺は、どこでも良かったわけだが」 お前といられれば。付け加えて、機嫌よさげに伸びをした。 夏も終ろうとする頃とはいえ、地中海性気候のギリシャは、まだ暑い。からりと爽やかな風に吹かれて、カノンの長い髪がさらさらとそよいでいた。同じ長髪でも、癖の強いミロとは違い、真っ直ぐなカノンの髪は、潮風を受けると軽やかに舞う。彼の経歴がそう感じさせるのか、カノンは海の似合う男だと思う。 エーゲ海に浮かぶ離島の一つ。本土と繋ぐ船便の悪さのせいもあって、俗世の喧騒から隔てられたこの島には、素朴な情緒が残されていた。のどかな空気の中で、時計の針さえもその歩みを緩め、しばしの休息を楽しんでいるかのようでもある。来ることになったのは、珍しく日が重なった休暇に、更に極めて珍しいことに、ミロが出かけようと言い出したからである。 女神の勝利で終わった聖戦ではあったが、いずれの世界にも残した傷は殊の外深く、そのままでは正常な機能を営むのもままならなかった。結果、神々の間で何かしらのやり取りがなされ、現状は既定路線に戻ることとなる。聖戦時に行き合ったカノンと、互いに憎からず、似通った心持ちでいるらしいことが分かり、好きだと言われれば、ああそうかと答えられるような間柄になったのも、思えば不思議な巡り合わせだ。日々の任務を終え、一緒に飯を食っては、天蠍宮と双児宮を行き来して、時には夜を越す。そんな変わらない日常で別に不都合なことはなかったし、カノンからも不満の声が上がることはなかった。とりたてて変化もなく、強いて言えば、カノン限定でするようになったことが、二つ三つ増えたくらいなもので。情も深まれば、自然と――まあ、だから、そういうことだ。 ともかく。そもそもがあまり聖域を出たがらないミロとしては、たとえ休暇が重なったとしても、朝夕共にするようになっていた食事に昼が増え、夜の腕枕か抱き枕に、昼寝の膝枕が加わるくらいのつもりでいたのだ。幸いなる女神の思し召しがなければ、実際にそういう過ごし方をしていただろう。 お美しい瞳を輝かせて休暇のプランを問われた女神に、どこにも行く予定はないと(当然だが、各種枕の件は伏せて、である)お答えしたのが一か月前。それからお召しの度に、グラード財団総帥として訪れられた国々や、招かれたシャトーホテルで毎晩催されるパーティ、クラシック流れる豪華客船でのクルーズなどの思い出話を、お聞かせくださるようになったのが翌日から。ミロが想像も及ばない世界各国の旅風景が、ギリシャ国境の内側、ゆったりと流れる河を挟んで広がるオレンジ園や険しい崖の上に建つ古い修道院へと移っていったのは、休暇まであと一週間と迫った頃だった。 『それはどちらにあるのですか』 女神に誕生の祝福を受けたというギリシャ領の小さな島の話になった時、ミロは初めてあいづち以外を口に出した。女神はぱっと嬉しそうに微笑み、そしておっしゃった。 『行ってみてはいかがですか? せっかくの休日ですもの』 ここにきてようやく、ミロは女神のお心遣いに気がついたのだった。 お優しい女神は、世界中の人々の幸せを願っておられる。その中には、聖闘士たちも含まれた。再び与えられた人生を謳歌出来ることの喜びを、誰よりも彼らに知って欲しい、と。あるいは、これまで、聖域に在る以外の意義を許容し得なかった運命への、哀しみなのかもしれないが。 ひたすら戦場に生きてきた。平和の世でのびやかに時を過ごす日のことなど、考えたこともなかった。しかも、一人ではなく。 ミロは、向かいの男が、襟付きのシャツを肘上まで捲りあげて、心地よく潮の匂いを楽しんでいる様を眺めた。 ミロがいつにも増して無口なのは、なにも機嫌が悪いわけではない。落ち着かないだけなのだ、色々と。 聖域では取り立てて服装など気にする風でもないのに、どこから調達したものか、黒いベストに同系統のスラックスは、一見してあつらえものだと分かる。前ボタンを外し、軽く緩めたタイを無造作に垂らした様がだらしなく見えないのは、生来の造形と、ミロの与り知らぬところで身につけた経験の賜物で、気取った風情もなく、適度に着崩したなりは、嫌味だと揶揄する隙さえ与えなかった。 環境もあるし、服装もそうだが、何よりこの雰囲気のせいかもしれない。 気後れなどとは無縁とばかり、飄々と振る舞うようでいて、聖域では、こんなに肩の力を抜いたカノンを見ることは出来なかった。すっかり見慣れているはずの姿が、なんだか妙に新鮮に感じられた。 柄でもない。ミロは、乾いた口唇を舌で湿らせた。認めたくないが、ここに来てから、正確には、二人で聖域を出てからずっと、少し緊張しているのだ。 「ミロ、どうした?」 カノンに声を掛けられて、ミロははたと我に返った。どうやらずっと見詰めていたらしい。思わず目を逸らすと、目の端で、カノンが困ったように笑っているのが見えた。 「夕食時まで時間もある。その辺をぶらついてみるか」 カノンは、もう一度大きく伸びをした。 「西の岬がいい」 ミロの声に、カノンは出かけた欠伸を飲み込んで、驚いた様子で振り向いた。返事を待たずに席を立ったミロの後ろで、そういう返事が返ってくるとは思わなかったのだろう、本当に珍しいな、と呟くのが聞こえた。 海の香りを含んだ風が鼻腔をくすぐる。数歩後をついてくるカノンの気配を背に感じながら、ミロは白い石畳の坂を下っていった。無意識にジーンズのポケットに入れた手に、硬い感触が触れる。触れた指先で、ミロは、その小さな環の形を、そっとなぞった。 |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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