海で拾った宝物中編『なに?』 『なんだ?』 『初めてと言ったか?』 『それがどうしたというのだ?』 それは、出立の前日のことだった。 馴れない旅支度の手を止めて、ミロは、宝瓶宮から手伝いに来ていた友のもの言いたげな顔を見やった。 『カノンと聖域外に出かけるのは初めてだと』 『買い物に行ったことくらいはある』 食糧や日用品を補充するのに付き合った、というのが正確な言い方である。それもほんの二、三度ばかり。 『何か月ほど経つのだったか……』 顎に手を当て、尋ねるでもなく独り言のように空を見上るカミュの仕草に、なんとなくばつの悪いものを感じて、ミロは手元に視線を落とした。あからさまに驚かれたり、責められたりするよりも、ミロに意見するのに効果的な手段を、この赤毛の友人はよく分かっていた。といっても、カミュ本人にそのつもりはないのだが。 『何か月、もなにも』 『付き合っているのだろう?』 『……別にそうと言い交わしたわけではない』 『今更、言葉の定義など意味がないのではないか?』 重ねて言うが、カミュに悪気はない。実にクールである。 誤解なきよう補足しておくと、ミロとて、カノンと出かけるのが嫌だというわけではない。縄張りの外へ出たがらない習性と多少の面倒くさがりと、あとは、共にうちにいる時の居心地が、思いの外良過ぎた、というだけのことで。 今回のことも、行くと決まってしまえば、生来の好奇心が頭を持ち上げ、新しい場所や事柄への期待と昂揚は、日が近づくにつれ高まってきていた。つまりは、大変分かりにくくはあるが、ミロにしては最上級に珍しいことに、いそいそと荷造りに勤しんでいたのである。が。 『初めて出かけるのが、祝福の指輪の島へ泊りがけとは、少々事を急ぎ過ぎではないか。お前らしいといえば、そうともいえるが』 カミュがやって来てから様相が変わった。泊りがけ自体は初めてであろうとも、寝台は一つしかない互いの宮で夜を共にした回数は、もう両手足の指の数でも足りないくらいなのだから、急くどころか既にそんなに初々しいものでもない――というか、いったい、こいつは何を想像しているのだ? 言いたくなるのをミロがぐっと抑えたのは、突っ込むと墓穴を掘ることになるのは自分の方だと、分かっていたからである。 『古来より、指輪は神秘の力を持つという。守りや魔よけに使われたのもそういった理由からだな』 とはいえ、カミュが来なければ、ミロはあやうく聖衣ボックスひとつ担いで船に乗り込むところだったのだから、訪問には感謝しなければならないはずだ。 『婚姻に使われるようになったのは、契約の印という意味からだという。左の薬指は心臓に繋がる。心臓を封じて、意思を閉じこめるために、』 『待て、カミュよ。先ほどから何の話をしている?』 聞き流そうと決めた矢先、ミロは思わず口を開いていた。二人の関係は、カミュの静かな暴走に、ミロが根気強く関わりを持ち続けることで成り立ってきた部分が、実は大きい。 『女神に誕生の祝福を受けた島に行くのだろう?』 きょとんとした顔で、カミュは返した。 『そうだ。なのに、どうして指輪の話になっているのだ』 カミュはしばらく考えた後、ああ、と得心したような顔つきで頷いた。 私が聞いたのが間違いでなければ。カミュは前置きをして、先を続けた。 『神話の時代の女神が、生まれた命を祝福するのに、指輪に力を込めて与えたと言い伝えられているのだ。長い年月が過ぎ、祭壇のある神殿が西の海に沈んだ後も、その加護は海に満ちて島を覆い、指輪を波に預けると女神の祝福が宿ると信じられている。今でも島には、その風習が形を変えて残っているのだと聞く』 そう言って、カミュは、ミロのことをじっと見た。 『お前のことだ。誕生日も、特別何もしていないのだろう』 カミュの言わんとすることを理解して、ミロは視線を横に滑らせた。 『必要ないだろう。改めて騒ぐようなことか』 カミュが何か言う前に、ミロは急いで続けた。 『誕生日など生まれた日だというだけだ。特別どうというほどのものでもない』 『お前がそうでも、カノンまで同じように思っているとは限らないのではないか』 『あいつも別に気にした風はなかったがな……』 忘れていた訳ではない。言うなれば価値観の問題だ。お前今日が誕生日だな、と言ったら、ああそうだな、と笑って返された。だから、まあいいかと思って、それで会話は終った。 すぐに返ってくるかと思われた反応は、一向に聞こえてはこなかった。訝しんで視線を戻したミロの目に、考え込むようなカミュの横顔が映った。 『カノンの育ちを考えれば、当然のことかもしれないな』 カミュはまた、誰に言うでもない口調で呟いた。 『祝われるものだという意識もないのかもしれん。隠されて生きてきたのなら、誕生日を祝福されることなどなかっただろう。あることを知らねば、そうして欲しいとも思うまい』 沈黙が流れた。島に行くなら軽い服装の方が良いだろうかと、カミュがまた唐突に違う方向へ話題を変えた後も、ミロは大分長いこと黙っていた。 *** 島に一つしかない港町を出てややもすると、民家はぽつりぽつりとまばらになり、勾配の大きい島特有の急峻な石の階段と蛇行した道を越えて、白っぽい岩肌を見せる丘陵の向こう側に出る頃には、それも途絶えた。こうして見ると、人の住まう領域は島のごく一部で、必要とする以上の手が加えられていない景色には、古くから住民に受け継がれてきたのであろう、自然と神秘への敬意が感じられた。 カノンとミロは、岬へと続く一本道を、連れ立ちながら、少し離れて歩いていた。先を行くミロの足は速く、カノンとの距離は開きがちである。ミロは何度も進む速度を緩め、カノンが追いついてくるのを待った。カノンは、途中、行き違ったロバの鼻頭を撫でたり、丘に咲く花を物珍しそうに眺めたりと、行程そのものも楽しんでいるようである。神の化身と謳われたサガと同じ姿かたちをしているだけあって、カノンはどこに行っても目を引いた。目を引くのだが、不思議と溶け込んでもいた。戦場での圧倒的な存在感と迫力が和らぎ、大らかな雰囲気を醸し出す。ここでのカノンは、とても自由に見えた。 ミロはまた、無意識にポケットの環を手の中で転がしていた。 緊張するなどらしくない。ただ単に、やると言って渡してやればいいだけではないか。 ミロははやる気持ちを抑え、自らに言い聞かせた。 カミュには、不覚にも揚げ足を取られる形となったが、自分たちの関係に、名前を与えて定義する必要などないと思っているのは本当だった。どこかにわざわざ出かけなければならないとか、ことあるたびに贈り物をし合って繋いでいかねばならないような関係だとも、思ったことはなかった。だからといって、何かしてやりたい気持ちがないというのとは違うのだ。 カミュに言われたから、というわけではない。偶然と偶然と偶然が重なった。 同じ時期に休暇になったのも、島の話に何気なく返事をしたのも、カミュから指輪の話を聞いたのも。そして、宿へ荷物を預けに行ったカノンを待つ間、一人手持ち無沙汰にぶらついた港近くの店先で、碧い石のはめ込まれた銀の指輪を見つけたのも。 そういえば、運命とは偶然の積み重ねであると、誰かが言っていた。 碧い色は、海を映すカノンの瞳の色に、よく似ていた。 岬は、路の終着点。坂を上り切って島の突端に足をかけた途端、視界に開けたのは、碧と蒼の織り成す大海だった。潮風に吹かれてぐるり見回す海の青は、一様なようでいて、一瞬たりとも同じ表情を見せない。西の近海には、波に削られた白い岩が幾つもの弓形を象り、波間に顔を出していた。自然がつくったアーチは、まるでかつてあったという神殿を思わせ、波のさざめきだけが聞こえる静けさの中、感傷か感慨か、何かを胸に込み上げさせた。美しいと思う。海と、その色を。 先についたミロは、大きく振り返り、カノンの名を呼ぼうとして、やめた。ゆっくり来るならそれもいい。行き先だけが目的ではない。路もまた旅なのだ。 遠くから鐘の音が聞こえてきたような気がして、ミロはふと、視線を反対側に向けた。自分たちだけかと思っていたが、東の浅瀬に続く砂浜には、数人の人影が見止められる。ひらひらとスカートを舞わせ、白いベールを風にさらわれないように押さえながら、海に向かって手を握る娘。その視線の先には、膝下まで海に浸かった青年らしき姿があった。少し離れてはしゃぐ子供らの楽しげな雰囲気は、声が聞こえなくとも伝わってくる。家族だろうか。後ろには、年配の二組の男女らが、笑い合っているようにも見えた。 「微笑ましいな」 ようやくたどり着いてきたカノンは、すっとミロの隣に並んで言った。海から来る風が、ばさりと長い髪をはためかせる。カノンをちらりと見てから、ぼんやりと浜に視線を戻してミロは呟いた。 「あれは何をしているんだ」 娘の表情は見えない。ただ一心に見詰めていた。さざ波が、もう少しで娘の足を浚いそうになるところまで寄せて、かえる。水が跳ねて裾を濡らすのにも気づかないほど一途に、海を見て何を想うのか。不思議な共感の中に、よく分からない嫉妬が一滴混じり、湧き起こったことに、ミロは僅かに狼狽えた。 「愛を誓い合う儀式」 何気ない口調。驚くくらい大きく跳ねた自分の鼓動に、ミロは更に驚いていた。 「婚約か結婚か、何かそういう類のものだろう」 ミロのそれには気づかず、カノンは続けた。 「海の波に指輪を預けて、女神の祝福を頂くのがならわしだと、宿の主人が言っていた。言われてみれば、島に渡ってから、よく、指輪が置いてあるのを見かけたな」 カノンの笑顔は朗らかで、やはり聖域にいる時よりも、大分ガードが緩んで見える。そんなカノンに、いつもならば遠慮も意識もせずに出てくる言葉が、今のミロには、さっぱり思い付かなかった。 「……誕生日」 なんとか口から出たのは単語のみの、随分乾いた声だった。カノンは首を傾げてから、ああ、と微笑み返してきた。 「今日があの娘の誕生日なのかもしれんな」 この男にしては、とても優しい声色だった。遠くの浜を見下ろす横顔につられて、再び響いてきた鐘の音のもとをたどる。水辺に立つ教会の屋根が光るのと同時に目に入ってきたのは、水から上がって駆け寄る青年が、娘の手を握りしめる姿だった。 ミロはくるりと身を翻した。 指輪。指輪か。確かに指輪だ。 古い慣習が時と共に姿を変える。よくある事だ。それとも、カミュめ。わざとか。いや、途中で話が逸れたんだったか。もはや、この際どちらでも良い。 大股に足早に、ミロはもと来た路を帰っていった。後ろで声が聞こえたが、振り向く気はなかった。 あからさまなのが嫌だとか気恥ずかしいとか慣れないとか、何より何かにかこつけてとか。ないとは言えんが、そればかりではない。名前や証など不要だと思う。たとえば心臓を封じて閉じ込めるような。そんな印など要りはしない。だが。 それも理屈だ。 ポケットの中の指輪の冷たさが、左腕を伝って胸に届く気がした。 一滴混じった嫉妬の理由は、実は最初から分かっている。勘違いだから、なんだというのだ。名が不要なら、それが愛でもいいはずだろう。 ならば受け取れ、と何故言えない。 何度も好きだと言われた返事を、同じ言葉で返したことは、未だにない。言葉がなくとも視線一つ、仕草一つで伝えられる。普通の娘が自然にしていることを、邪魔するものは、単なるプライドだけなのか。 握り込む手に力を込めると、硬い環が掌に食い込んだ。 そんな中途半端なら、愛など誓えるはずがない。好きだ、と。全身で訴えてくるあいつには。 ミロは、握った拳を振りかぶった。一瞬の躊躇い、それも共に、投げ捨ててしまえと。横から差す日に目が眩む。宙に放り投げられた小さな環は、放物線にのって空へと上がり、一番高いところで切なく光った。ゆっくりと軌跡が弧を描き、それから下へと向きを変えた。指輪の碧い輝きが、海の青に溶け込んで、吸い込まれるように落ちていくのを、ミロは無言で眺めていた。 思ったのだ。祝福されることも知らずに生きてきたのが人生なら、二度目の誕生は祝福と共に、自由に在ればいい。それは間違いなく。 ――風が、勢いよく吹き抜けた。 後ろから吹き去った風は、躊躇なく地を蹴って飛翔した。宙に舞う髪が風をさらって躍り、そして視界から消えた。 「カノン!?」 柵に駆け寄り乗り出して見る、遙か崖の下。海の一部が砕けた飛沫が、白い柱となって、立ち上っていた。 |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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