後編


 海に降りるための階段は急で、岬の先端から、崖の壁伝いを大きく回り込んでいる。聖闘士にとってこの程度、落ちてもどうということはないだろう、が、そういう問題でもない。何十メートルかあろうという高さを、ミロの歩幅からすれば狭い段一段ずつ、長い脚がもつれないよう駆け下りることに集中すれば、何故とか何とかどうするとか、余分なことを考えずに済む。それでも最後の数段は、堪えきれずに省略した。手すりを飛び越えて着地した足の底に、石の硬さがずんと響いた。
「カノン!」
 そのまま海の中へ続いていこうとする石段の手前で、ミロはなんとか勢いを殺して留まった。名を呼ぶ声に、殺しきれなかった勢いがのり、入り江いっぱいに木霊した。
 海は、つい今しがた、激しく己を砕いたものの存在などなかったように、静かだった。入り江の中央には、沈んだという神殿の名残りに、崩れた祭壇の一部が顔を覗かせ、ところどころに傾いた柱が突き立っている。過ぎ去った年月を思わせるそれらが、しんとした水面を飾り、厳かな空気を纏っていた。
 ミロは声に出さずに口の中でもう一度名を呼び、それから、覚悟を決めて息を吸い込んだ。その時。凪を割って、水がザッと音をたてた。思わず振り向き認めた姿に、ほっと安堵すると同時に、ミロは、はっと息を飲んだ。
「落とした」
 泣いているのかと思った。ぐっしょり濡れた髪から、塩を含んだ水がとめどなく流れ落ちるのを拭おうともせず、腰から下を海の中に隠し俯く。ミロは訳もなく、昔聞いた人魚を思い出していた。
 カノンは垂れたこうべを傾け、少しだけミロの方を見た。顔は逆光で翳りよく見えないのに、どんな表情がそこにあるか知っていると、ミロは思った。言葉を待たず、カノンは水中に身をくぐらせた。
「そうまでする必要はない」
 何度も繰り返す何度目かの時に、ミロはようやく絞り出した。
「大切なものなんだ」
 カノンは、そう言って、また潜った。潜っては探し、浮かび、また潜る。たいしたものではない。とは、言えるわけもなかった。どんな意味にしても。
 握りしめた爪が掌に食い込み、赤い痕をつけていることに、ミロは気がつかなかった。思わず踏み出していた足に、靴底から海水がじわりと染み込み、浸食する。
 時は止まり、太陽とそれを映し色を変える海だけが、刻を語っていた。ミロはただじっと、海を見詰めていた。
 海は、どこまでも青かった。真上から見たのと同じように、底も深さも見せない無情。海にとっては、人一人、小さな指輪一つ、零した心一滴、その行方など、些細なことに違いない。
 目を伏せ、足元に視線を落とす。足に纏わりつく水は透き通って碧く、沈んだ神殿へと導く階段が明るい光の中に揺らいで見えた。ミロは不意に気がついた。この水が、澄んだ碧が、深海の青をも創り出すのだ。
 顔を上げると、入り江の向こうには、岬から見えた白い天然のアーチが、色の変わりかけた太陽にあてられ、黄色くその身を染めていた。アーチをくぐった光が入江の中にも届き、黄金のきらめきを波に与え始めている。この美しさをもつのもまた、海だった。
 確かに些細なことだけれど、それに囚われるのが人間だ。大切と思うから、人なのだ。
 何故も何もあるか。
 それがカノンだ。
「カノン、もういい」
 心を決めて、ミロは一歩前へ進み出た。海水を吸って重みを増したジーンズに足が取られるのをふりほどき、うっすらと透けて見える石段と回廊の導くままに、海に身を預け、カノンへと。
 膝頭程を保ちながら、深まり、時に浅くなり、海中の道が祭壇へ向かうのは、古き建造物の構造からすれば、当然だったのやも知れぬ。祭壇の脇に佇み、碧い水の向こう側にちらちらと見え隠れする神殿を眺めれば、海底に古の別世界が広がっているかのような、不思議な感覚が呼び起こされた。導かれたのだと思おう。海には、今も、神代に降り立った女神の加護が、満ち満ちている。
 きらり、と。
 祭壇の一角で何かが光った。きらめく千々の波とは、異なる輝きを宿すもの。
 ミロは反射で身をかがめ、水の中に差し入れた手を、途中で止めた。迷い、躊躇い、留まり、そして身を起こした。
 古代の海の神秘に思いを馳せるもいい。しかし今は。
「カノン」
 背筋を伸ばし、凛とした声で。波を押し分け近づいてくる間中、ミロはカノンから目を離さなかった。同じ高さまで上がったカノンの瞳は、ミロよりもほんの少しだけ高い位置にある。ひかれて、ミロの視線も少しだけ上を向いた。硬い顔の理由は、俄かに蘇った緊張と、決意と。カノンの目を正面から見据え、ミロは水の中を無言で指し示した。その先にあるものを。
「ミロ、お前のものだ」
 落ち着いた碧い色が、逡巡する背中を押し、促す。ミロは一つ大きく深呼吸をして、それから水の中に手を入れた。冷たい流れをかいくぐって、底の光を、手に掴む。掬い上げた水が握った拳から流れ、腕を伝わり肘からぽたりと海へ還った。
 掌の中に在る確かな感触。
 しばらくの間、じっと己の拳を見詰めた後に、ミロは、ゆっくりと手を開いた。ミロの瞳孔が静かに大きさを増し、口から息が漏れた。
「これは、俺のではない!」
「だが、きっとよく似合う」
 すぐに返って来た声の主の顔は笑っていた。
 金色の石座に戴いた色は、赤。
 笑った顔がふっと近づき、ミロの目前にやって来た。前髪から滴る雫は、もう涙の色をしていない。
「お前には、赤がいいと思ったんだ」
 ミロの掌に乗る小さな指輪の水滴を、カノンは親指でつと拭った。懐から取り出した金の鎖に、赤い指輪を通すカノンを、呆然と見ている間に、ミロは段々と理解していった。
「今日は、俺の誕生日ではない」
「知ってる」
 指輪を通したチェーンをミロの首に回しながら、カノンは答えた。
「お前を縛れるとも、縛りたいとも思っていない」
 左の薬指は心臓に近い。そこに心があるのだというから。
「だから、誕生日でなくても、構わないんだ。俺にとっては、毎日は特別だ。お前とこうして、生きていられる日々は」
 カノンの腕が作る輪の中に首を差し出し、抱かれるようにして、ミロはおとなしく聞いていた。
「でもな。俺は、お前に特別なことをしてやれるチャンスは、どんな小さなものでも、見逃すつもりはないんだ」
 腕を解いてミロに向き直り、カノンは笑った。
「お前がこの世に生まれてきてくれたことに、感謝と、祝福を」
 首に掛けられた指輪がくるくる回り、赤い輝きを周囲に散らす。水平線に近づいた日の光に照らされ、金と赤の光芒が波の間に閃いた。カノンの顔に残る雫の中にも、太陽の色が映っている。その碧い瞳に映る赤は、海に抱かれた太陽のようで。
「俺は」
 俺も。
 ミロはぼそりと言った。
「誕生日だけが特別な日だとは思っていない」
 普段一緒にいられれば、それでいいと思っているし。
「特別だと、思っていないわけではない」
 その日も他の日も、二人で過ごすようになってからの日々は、全て、それまでとは違っていた。
「祝福だと聞いた」
 いつも言葉が足りなくて、表情さえも、自由にならない。
 柄でもない。柄でもないが、時には許す。自分にも。
 思っていることは同じだと、もしも伝えられるなら。
 うっすら目元を染めて、途切れ途切れに言うミロの言葉に、カノンは黙って頷いた。俄かに顔が近づいて。
「待て」
 こようとするのを、ミロは押しとどめた。
「何故?」
「何故でもだ」
 そうだ、その前に。
「お前、言うことがあるだろう」
「なんのことだ?」
「とぼけるな。その……」
 瞳を泳がし口籠るミロの言いたいことは、分かっているに違いない。カノンは悪戯っぽく口元を歪めた。
「落し物は、拾った人間のものだろう?」
「まだお前のものではない」
 ひょいと肩を竦めて、聞こえなかったとでも言うつもりだろうか、くるりと背を向けるのは、まるで大きな子供だ。まったく、こういう時だけ都合よく使い分ける。
「カノン」
 数度呼ばれてようやく、仕方がないといった風情で振り向いた顔に向けて、ミロは言った。
「また来よう」
「十一月に?」
 冗談めかして言うカノンに、ミロは真剣な目で返した。
「いや、五月に」
 カノンの目が、静かに見開かれていった。
「いつかの」
 負えるかどうかはまだ分からない。だが、他の誰にも、やるわけにはいかない。
「今は預けておく」
 伸ばした人差し指で焦点を定め、真っ直ぐ、カノンに差し向ける。
「それまで、そこは、あけておけ」
 左の薬指は心臓に近い。心がそこにあるのなら、愛も、そこにあるのだろう。
 見開いていた目を緩やかに細め、カノンが顔を綻ばせた。つられたミロの表情も、この上ないほど、和らいでみせた。
 照らす光は金から赤へ、海の青と混じり合い、濡れた二人を染め上げた。
 先に十一月がやって来る。そして、五月が訪れる。また十一月が巡って来れば、次は五月が待っている。

 いつか。いつでも。いつまでも。
 カノンの手には世界がある。
 海で拾った、碧色の指輪。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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