「やっぱり、しがない死霊遣いの手になんぞ、負えるものじゃなかったぜ」
 大げさな身振り手振りは、どこか道化めいています。場に不釣り合いなデスマスクの軽口を、サガは黙って聞いていました。
「だが、居所は突き止めた。俺としてはよくやった方だと思うがよ」
 のらりくらりとつかみどころのない話のおしまいに、とってつけたような報告でした。サガは短く、ご苦労、といい、手を振りました。もう下がって良いとの合図です。
 事情には踏み込まず、心情に立ち入らず、仕事人に徹すること。デスマスクが、十三年間、もっとも多く、教皇さまに使われた理由でした。
 教皇の間から下がろうとするそのとき、不意に振り返って、デスマスクは尋ねました。
「なあ、あいつは、いったい誰なんだ?」
 一閃ひらめいた殺気が、誰かとよく似ていることを確かめて、それを丸ごと腹の底に飲み込んで、デスマスクは素早く場をあとにしました。十三年ではじめて踏み込んだ半歩くらいで、なにがかわるでもありません。デスマスクは、かわらず仕事をこなしてゆきます。終わりが来るまでの時間を、粛々と、悠々と、快哉に、すごしてゆくだけです。
「お前にも声がかかったのか?」
 帰り際に出くわした優雅な薔薇の守り手に、デスマスクはいつもの調子で声をかけました。アフロディーテは、お城の長い石段を上ってくるところでした。見向きもせずに、お城の闇へと消えてゆく後姿を見送って、デスマスクはひとりごちました。
「誰を使っても、あいつの相手をしなきゃいけないのは、この世にたったひとりきりなんじゃないかと、思うんだがね……」
 そして、面倒くさそうに、長い石段を降りてゆくのでした。

 鏡の瞳は青いままでした。髪は金色のままでした。
「お呼びで」
 サガは血走った鋭い視線をあげ、アフロディーテを睨めつけました。アフロディーテは膝をつき、深く頭を垂れました。
「森の小人の家にいる男だ。手段は問わぬ。殺せ」
「御意」
 力あるこの方に仕え、そのために刃を振るうこと。それが、彼の正義でした。尋ねることなどありません。知りたいこともありません。教皇さまが誰であろうとも、アフロディーテはかまいませんでした。なぜなら、アフロディーテは、皺の刻まれた手のかつての厳格な教皇さまにではなく、遠い記憶のかなたにある憧憬の化身にでもなく、今、目の前にいるこの方に、忠誠を誓っているのですから。
「これをもっていけ」
「林檎……?」
「そうだ。林檎だ」
 なんの変哲もない、本当に、ただの林檎でした。林檎は美しく、白いところに赤みをもっていて、一目見ると、誰でもかじりつきたくなるようでありました。アフロディーテは林檎を受け取り、大事そうに懐へとしまいました。
「あれは、林檎が好きだった」
 首を傾げたアフロディーテのことを、サガはもう見ていませんでした。こぼしたのは、たぶんひとりごとでした。アフロディーテは、つと頭を下げ、音もなくそっとその場を去りました。

 今日の朝も、いつにもまして大忙しでした。立て続けになにかあったせいでしょうか。みろたちは、なかなか仕事に出かけようとしません。カノンをひとりにすることを、ためらっているようです。そんなみろたちのおでこに、カノンはひとりずつ、キスをしてあげました。びっくりしたみろたちは、まっ赤になるものから、慌てて井戸に落ちるものまで出て、たいへんな騒ぎになりました。かえっておおごとになったために、カノンは、みろたちをなだめすかすのに、さらに一苦労しなくてはなりませんでした。
「今日は、お前たちの好きなアップルパイを焼いておいてやろう」
 みろたちがざわつきました。
「はやく出かけないと、帰りが遅くなってしまうぞ。すると、アップルパイはなくなってしまっているかもしれん。食べずに待ちきれるか、俺には自信がない」
 それはだめだ、とみろはくちぐちにいいました。
「まっていろ、カノン。きょうははやくかえってくる。それまで、おとなしくしているのだぞ」
 しっかりといい含めて、みろたちは、山へ出かけてゆきました。あと少しで、全部の欠片が見つかると、みろはいっていました。見つかったらどうなるのか、カノンには見当もつきませんでした。
 アップルパイは、こんがりと焼き上がりました。寝床はきれいに整えられ、食器はぴかぴか、床はつるつるです。食糧庫には、日もちのするものをぎっしりと詰めておきました。みろたちの手が届くように、大事なものは、低い位置に整理しました。最後に、大きなアップルパイを、テーブルのまん中におきました。喧嘩にならないよう、きっちり七等分に切り分けました。難しかったですが、カノンの手にかかれば、どうということはありません。
 カノンは、さっと身支度をしました。支度は驚くほどはやく終わりました。もともと、身ひとつでここにやって来たのです。もっていくものなど、なにもありませんでした。みろたちとの思い出が増えた分だけ、すこし心が重いのですが、それもじきに忘れるでしょう。カノンには、ゆかねばならないところがあるのです。
 家の戸を開け表に出ると、明るい日差しが、まっすぐに庭へと差し込んでいました。カノンは、みろたちとすごした家を見つめ、それから、森へと入ってゆきました。お城の高い棟には、闇いもやがかかっています。闇を払うまばゆい光は、すぐそこまできていると、カノンには、確かな予感がありました。ですから、カノンがどうしようと、なにも変わらないのかもしれません。けれど、できれば、カノンはその前に、お城にゆかねばならないと思ったのでした。

 お城へとつながるけものみちは、むかし、カノンが何度も通った道でした。教皇さまの目を盗んで、お城を抜け出したのが、懐かしい思い出です。あと少しで、お城の裏門にたどりつくというところで、麗しい香気とともに花びらが巻き上がりました。カノンは身構えました。いつ、現れたのでしょう。そこには、美しい守り人が、薔薇を纏って立っていました。
「誰だ」
 カノンの問いには答えず、アフロディーテは三本の薔薇を差し出しました。赤と黒と白。いずれもたいへん美しい、絶世の一輪でした。
「好きな一輪を選びたまえ」
「あいにく、俺には美しいものを愛でる情緒はそなわっていなくてな」
 カノンを見るアフロディーテの瞳は、なんの感情も宿していないようでした。無情が殺気へかわるかと思われたとき、アフロディーテは急に気を緩めました。構えていたカノンは、怪訝な顔をします。麗しい瞳を宙にさまよわせたように見えましたが、それも一瞬のできごとでした。
「ならば、この林檎を」
 差し出された林檎はまっ赤に美しく、香気を漂わせ輝いていました。アフロディーテは続けていいました。
「とある方からことづかった。あなたは、林檎が好きだと」
 沈黙が続きました。カノンの青い瞳は平静でした。更紗のようになめらかだった金髪は、今では幾分かたくばらついていましたが、かわりに太陽の光をたくさん浴びて色濃く輝いていました。白かった肌は潮にやけ、無数の傷痕が残っています。すべては勲章だと、カノンは思っていました。
 長い長い静寂ののち、カノンは答えました。
「もらおう」
 永い刻の中で、カノンがなにを想ったのか、アフロディーテは考えることをやめました。関わりのないことです。いかに盲ていようとも、この目にはただひとりが映っていれば、それで良いと決めたのです。こうして、十三年の間、瞳を閉ざしてきたのですから。
 赤い林檎は、アフロディーテの手から、カノンの手へと渡ってゆきました。カノンは、自分の手におさまった林檎をじっと見つめました。なにかいいたげに、口唇が動きましたが、言葉が出ることはありませんでした。林檎を口にもってゆく途中で、カノンは一度手を止めて、いいました。
「むかし、とても美味い林檎を街で見つけたことがあった。俺は、二つ盗っていったんだ」
「その林檎はどうしたんだい」
 アフロディーテが、自ら問いかけるのは、とてもとても珍しいことでした。
「ひとつは俺が食った。たいそう美味い林檎だった」
 カノンは答えました。
「もうひとつは、あげようと思ったんだが……」
 あんなに怒ったあいつを見たのは、はじめてだったな。カノンは呟いて、笑いました。
「なに、ただのむかし話だ」
 そして、林檎を一口かじりました。
 
 アフロディーテは、動かなくなったカノンを見下ろしていました。身動きせずに、じっと、冷たくなるのを見ていました。
 甘い蜜を含んだまっ赤な林檎は、眠るように死を誘う毒薔薇の香気を纏っていました。林檎は薔薇の一種だとあなたは知っていたのだろうか、と、問うことはもうできませんでした。できたとしても、やはり、アフロディーテには、関わりのないことでした。
 誰ひとり、関われる者はいなかったはずなのです。この双子の間には。
「そう……」
 大分時間が経ってから、アフロディーテは、ぽつりと呟きました。

 夕方になって、みろたちは、家に帰ってきましたが、カノンの姿が見当たりません。家の中はきれいに片づけられ、テーブルにはぴったり七つに切り分けられたアップルパイが、冷たくなっていました。
 カノンは戻ってこないつもりだと、みろは、察しました。ここのところ、カノンの様子がおかしことに、気づいていました。ときどき、お城を眺めては、ぼんやりしていたことも、知っていました。このままいかせてやることもできたでしょう。しかし、みろたちは、今まで一所懸命に集めてきた金色の欠片たちを、みんな家の外に置き去りにして、カノンを探しに出かけました。せめて、見届けるくらいはしてやらねばなるまい。カノンは、もう、みろたちの大事な仲間なのです。
 森の動物たちも、手伝ってくれました。鳥たちは空から、お魚には川から、みんなで手分けして、カノンの行方を捜しました。山のいただき、湖のほとり、木のうろの中。ほうぼうをくまなく捜して、半刻ばかりが経ったころ、お城の裏のけものみちに、カノンが倒れているのを見つけました。駆け寄ってみれば、カノンの口からは、息ひとつすらしておりません。すっかり冷え切ってしまっているのでした。
 みろたちは、カノンを、おうちの庭にはこんでいって、なにか傷がありはしないかと、探してみたり、髪をすいたり、水でよく洗ってみたりしましたが、なんの役にも立ちませんでした。
 七人のみろは、残らずカノンのまわりに座りました。カノンの頬に触れますと、肌はやわらかく、顔色も赤く、きれいで、まるで、まだ生きているかのようでした。今にも、大きなあくびをして目を開けそうなのに、身体は、ひんやりと氷のように冷たいのでした。
「これだから、おまえは、つめがあまいのだ」
 せっかくお城に向かったのに、たどりつく前に息絶えるとは。カノンになにがあったのか、みろにはわかりません。みろたちは、カノンの過去を知りませんでした。問おうとしたことも、ありませんでした。カノンが、いつか話したくなったら、聞いてやろう。そう思っていました。でも、そのいつかがやって来ることは、もうないのです。みろは、ぎゅっと、胸の奥が締めつけられるような気がいたしました。
 ひとりのみろが、立ち上がりました。カノンの顔を覗き込みますと、長いまつ毛が風に揺れています。きれいな顔はきれいなままで、やはり、眠っているようにしか、見えません。みろは、背伸びをして、そっと、カノンの口唇に口をつけました。自信家の彼は、いつも誇り高く、潔さをよしとしていました。でも、このときだけは、すこし自信なさげに、青い瞳を揺らしました。
 となりに座っていたみろが、立ち上がりました。そして、同じように、カノンの口唇に口づけました。真面目なみろは、カノンの冗談にも、真顔で答えては、からかわれていました。その度に、ぷんぷん怒っていましたが、不思議といやな感じはしなかったと、思い出していました。
 順番に、次のみろが立ち上がりました。まっすぐな彼は、普段から、なんでもまっさきに飛び出してゆきます。カノンがいなくなったと気づいて、さがしにゆくぞ、と決めたのも、彼でした。そんな迷いのないみろにしてはめずらしく、ためらうようなキスでした。
 次に立ったみろは、別れの口づけをするときも、ずいぶん落ち着いて見えました。けれども、ほかのみろたちには、彼が、深い悲しみに沈んでいることが、すぐにわかりました。冷静さは冷酷さと、ときに間違われますが、けっして同じではないのです。カノンのことを、一番よく見ていたのは、きっとこのみろでした。
 カノンがもしも目を覚ましたら「おれのきょかなしにしぬとは、なにごとだ!」と、ちくり、とがった爪で一刺ししてやらねばならぬと、五番目のみろは思っていました。一見、乱暴に見える彼ですが、弱っているものをいじめたり、一方的に傷つけたりしたことは、一度もありませんでした。カノンは、それをよく知っていて、みろもカノンが知っていることを知っていて、だから、とても相性の良いふたりでした。みろは、顔をカノンに近づけて、下唇を軽く噛むようにしてから、ぐっとこらえて離れました。
 カノンのことを一番見ていたのが四番目のみろなら、一番心情に寄り添っていたのは、六番目のみろでした。寄り添いながらも、ずっと、なにもいわなかったのは、みろなりの情でした。結果、カノンが今このように横たわっていることに、ほかの誰よりもやるせなさを感じているのも、彼でした。みろは目を瞑り、長く口づけていました。
 最後のみろが、カノンのそばにたつと、ぽたりと涙がカノンの顔に落ちました。みろたちはみな、はっとして、彼を見ました。はらはらと涙を流すみろを見て、みなそれぞれに、奥歯をかみしめ、涙をこらえました。それが、今のみろの、心からの、素直な気持ちだったからです。みろは、そっと小さな自分の口唇をカノンのものと重ねました。みろの涙が、カノンの頬をつたって、首もとへと流れてゆきました。みろはゆっくりと離れてから、カノンを濡らしたしずくを、小さな手で優しく払いました。
――と、そのとき。それまで眠っているようだったカノンが、にわかにせき込みました。かはっと、飲み込んだ毒の林檎のひときれが、のどから吐き出されたのです。すると、まもなく、カノンは目をぱっちりと見ひらいて、起きあがってきました。
 カノンがまわりを見回すと、小さな十四個の青い瞳が、ぱちぱちと瞬きをして、カノンを見つめています。最初はたいそう驚いた眼をしていましたが、じきに、とても優しい瞳になりました。金色の髪が、ふさふさと輝いていました。太陽の色です。赤い爪が七本とがって光っていました。カノンの心臓に、明かりを灯した真紅の炎でした。
「みろ」
 カノンが呼びかけると、それに応えるように、周りから声があがりました。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、もっと。
 声は呼応するように広がり、無数の声がカノンの名を呼びました。まばゆい金色の光が、カノンのまわりを覆っていました。たくさんの輝きは、庭のまわりや、家の中からも集まってきていました。みろたちの集めていた小さな金色の欠片が、光を放っているのだと、カノンはようやく気がつきました。七人のみろも、光の中に溶け合って、いつの間にか、境がぼんやりしています。大きな光の波にのまれ、カノンはなにも見えなくなりました。一面の金色、それは、いつか夢に見た黄金の稲穂の景色でした。
 しばらくすると、こだましていた声は徐々に収束し、金色の光彩はひとつの輪郭をもってかたちづくられました。
「カノン」
 そこには、いつぞやの満月の夜に、浜辺で出会った、黄金の騎士が立っていました。

 太陽の光も届かない、かくりよの門を開くため、自ら黄金の輝きとなって砕け散った戦士たちがいたことを、カノンは知りませんでした。主が隠れても、常世の国の呪いは、なおも戦士たちを蝕んでいました。七つと、さらに細かくばらばらになって、世界中に散らばってしまったミロの欠片は、すべて集めても、まだなにかが足りませんでした。それが、今やっと、揃ったのです。
 おとぎ話の常なのです。王子さまにかけられた呪いを解くことができるのは、お姫さまのキスだけなのだと。王子さまのキスで、お姫さまが眠りから覚めるのと、同じように。

「ミロ」
 カノンが自分でも驚くほど、その響きには、親愛の情が込められていました。
「為すべきことは、為したのか?」
 精悍な、しかし、心なしか優しい声色で、ミロは応えました。カノンは、目を瞑り、しばらく考えてから、頷きました。
「やり残したことは、もう、ない」
 少女に救われ、救われた分のほんの涙の一滴にしかすぎないけれども、彼女の手助けができた。カノンには、それで十分でした。なのに、すこしだけ、もうすこしだけと、欲張ってしまったのです。
 せめても、と思ったのでした。自分の手で、終わらせてやれるのか。あるいは、兄の手で終わらせられるのか。けれど、サガは、自分では来なかったのです。
 一度も、俺を殺しに、自分の足ではこなかった。
 それが、答えだと、カノンは悟っていました。いつか、遠くない未来に、光をいただいた少女と女神を守る少年たちが、お国に巣食った闇を討つでしょう。
 二度と生きて出会うことはない。それが、双子の運命でした。
「ないのか。つまらん男だな」
 カノンが、はっと顔をあげますと、にやりと口元をあげたミロの顔が、待っていました。
「生きる意味が見つからないなら、見つかるまで、探し続ければ良いだけのこと」
 口籠るカノンに、ミロは続けました。
「一生涯では、間に合わんくらい、多くのものが、この世界にはあるのだからな」
 そして、カノンに向かって尋ねました。
「お前、これから、どうするつもりだ」
 カノンは困ってしまいました。これから先のことなど、考えたこともなかったのです。自分に、未来があるということさえ、すっぽりとぬけていました。
「俺には、帰るところはない」
 長い沈黙のすえ、カノンは答えました。
「ならば、ともに来るか」
 ミロはいいました。
「帰るところがなくとも、ゆくところならば、世界中にたくさんある」
 そして、ミロは、屈託ない笑顔をカノンに向けるのでした。カノンは目を眇めました。夕日に照らされたミロの姿は眩く、黄金の光を一身に集めているように、カノンには見えました。今まで見てきたどのミロとも違う、新しい発見には、新鮮な喜びがありました。
 それもそのはずです。七つよりも、もっと多くのミロが、このひとりの人間の中に、詰まっているのです。すべてがミロの一面であり、一面だけをもってミロという人物を判断することはできないでしょう。
 そもそも、人間とは、そういうものではないか、とカノンは思い至りました。ときに苛烈に、ときに優しく、ときに笑い、ときに怒り、せめぎ合い、寄り添って、複雑に絡み合ってできあがった人格が、その人であり、ひとりの人間というものをかたちづくっているのです。
 ならば。と、カノンは、思わずにはいられませんでした。善と悪の相克に、悩まされつづけ、ついにはふたつに分かたれたサガという男は、いったい、なんだったのだろうか、と。矛盾した自己を抱え、その多面性を受け入れられなかったが故に、ふたつに分かたれたサガは、誰よりも、人間という性、そのものを体現しているのか。あるいは、ただふたつのみを残し、他をすべて切り捨てられるなど、もはや人間と呼べるものなのだろうか。
「返事は?」
 黙って思案しているカノンに焦れて、ミロは尋ねました。
「ゆこう。お前とともに」
 カノンの答えを聞くや否や、ミロは颯爽と白いマントを翻し、どこからかひいてきた馬にまたがりました。お前も、と視線で促され、カノンもあとに続きます。ミロの後ろにまたがり、背中に手をまわしました。
 そして、馬は走り出し、まわりの景色は遠のいてゆきます。カノンは揺られながら、最後に一度だけ、お城の方を振り返りました。戻ることはないでしょう。あそこが、カノンの故郷だったのです。
「兄さんは、本当は、一度だって俺を見ることはなかったのだ」
 どこか寂しそうな呟きをあとに、カノンは、まっすぐ前を向いて、もう振り返りませんでした。カノンはミロの腰にまわした腕に力をいれ、ふたりを乗せた馬は、風のように、世界を駆け抜けてゆきました。

***

 城下から、歓声が聞こえます。ついに、女神が降り立った。くちぐちに祝福をとなえ、湧き上がる群衆は、硝煙とともに、お城へと押し寄せました。輝かんばかりの光は、一瞬で、お国の端から世界の色彩を塗り替え、いまや、サガに残された安寧の闇は、お城の一番奥の部屋だけとなっていました。
 鏡に向かって、最期に、サガは尋ねました。
「鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡よ。この世で、一番美しいのは、誰だ」
 鏡は、無言で映しだすだけでした。
「最後まで、お前は、わたしを美しいとはいってくれなかった」
 サガは、自らの胸に短剣を突き立てました。それは、強さを信条とした己が破れたという弱さへの代償のためだったのでしょうか? これ以上、罪を重ねないですむという安堵なのでしょうか? それとも、覚悟して犯した道を阻まれることへの無念だったのでしょうか?
 倒れたサガを、鏡の中の青年が見下ろしていました。更紗のような美しい金髪と、深く青い瞳と、ぬけるように白い肌をした青年でした。
「いいえ、サガ」
 鏡は、答えました。
「あなたは、ずっと、美しかった」
 安らかな顔で息絶えた肌はぬけるように白く、黒檀のように黒かった髪は金色に染まり、まるで更紗のようでした。ですが、瞼の下の瞳の色を確かめることは、もう、できないのでした。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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