白雪カノンと7人のミロ(6)耳鳴りは、日に日に強くなりました。ぼそぼそ、ぼそぼそと、小さな虫が、耳の奥に棲みついてでもいるかのようでした。昼も夜も、眠っている間さえ、鳴り続けます。 『…………』 はじめは気にもしませんでした。煩わしささえ感じない、とるに足らない虫。その程度でした。かたときもなくなることのない音。それが声だということに、あるとき、気がつきました。 『…………』 しかし、なんといっているのか、わかりません。耳をすましてみても、意味のないことでした。声は外からではなく、内から聞こえてくるのですから。 『……、……』 『……ぁ、……』 『ぉ…………』 『……ェ……、……』 『……、ダ……』 『……ハ、……だ』 『……、だ……だ』 『お……、だれ……』 『……まえは、』 「黙れ!!」 かつーん、と、重たい金属の音がこだましました。足元へと転がってくるマスクを呆然と眺め、顔を引き攣らせた従者の目が、閉じられることはありませんでした。恐怖に見開いた瞳はなにも見てはおらず、口はなにも告げず、聞いたのは教皇さまの突然の叫びだったというのに、従者の首は赤い跡を残して身体から離れ、二度と戻ることはありませんでした。 頭ががんがんと痛みます。耳の奥に棲みついたなにかが、しきりにサガに話しかけるのです。サガは、頭を押さえて立ちあがりました。とても疲れていました。この前、ぐっすり眠ったのは、いつのことだったでしょうか。 いまや、声は、脳の髄に響いています。顔を覆い、耳を塞ぎ、目を瞑っても、追いすがり追い求め、サガにこう尋ねるのです。 『お前は、誰だ?』と。 サガは、ずるずると長い法衣の裾を引きずって、広間をあとにしました。お城の奥はしんと静まりかえり、お世話をするはずの女官も、指示を仰ぐはずの文官も、お守りするはずの武官も、誰もおりませんでした。いつから、どうして、そうなったのか。サガは思い出せませんでした。暗い回廊をただ奥へ奥へと進み、角を何度も曲がり、さまよったあげくにたどりついたのは、見覚えのあるお部屋でした。 そこには、大きな鏡がありました。 ずっと忘れていました。いえ、忘れていたわけではありません。やはり忘れていたのです。思い出したくなかったのです。忘れることなどできはしなかった。知るはずがない。見た覚えもない。はじめから、お前はいなかった――。 そうしなければ、ならなかったのでしょう。なにかがサガを突き動かしていました。引き寄せられるように、サガは鏡の前に立ち、覆いの黒布を、ばっと引き剥がしました。 黒檀の髪を振り乱し、赤く血走ったまなこに映ったものは、更紗のような金髪と深く青い瞳をもった美しい青年でした。いつぞやの夜、そのままに。 鏡の中の口が、動きました。サガは、息をのみました。 「お前は、誰だ?」 はっきりとした声で。確かに。それは、ずっと、サガの耳元で囁き続けてきた声でした。 「……そうか、カノンが、国に帰ってきているのだな」 血のように赤く美しい瞳をすっと険しくして、サガは、低い声で呟きました。その声もまた、脳に響く聞き慣れた声と、同じものでした。 『かつて逃げた逆賊が、森に潜んでいる。見つけ出して、殺せ』 聖剣の騎士シュラが、教皇さまより仰せつかった命令は、それだけでした。誰とも、なぜとも、年も性別も姿かたちすら尋ねず、シュラは、承知、とだけ答えました。この十三年間、教皇さまに仕え、誰よりも忠実で、誰よりも非情な騎士でした。 近くの小川まで、水を汲みに出ていたカノンは、背筋に冷たいものを感じ、ばっと飛び退りました。カノンがいたところの木立が斜めに滑り落ち、葉が舞いあがります。カノンは、間髪いれずに駆け出しました。刺客は相当の手練れです。気をぬけば、たちどころに、先ほどの剣圧が、カノンに襲いかかかってくるでしょう。 つかず離れずの追跡は、小一時間ほど続きました。いつしか、カノンは、森のはずれにある岩山のふもとまできていました。そのとき、山の中腹で、なにかが金色にひらめいたように思われました。 カノンは、さっと身を翻しました。追手に向きなおろうと、重心をずらしたそのとき、右肩に鋭い痛みが走りました。次に、じわっと熱い液体が、手から滴り落ちました。なんと見事な太刀筋でしょう。切り落とされた服の袖は、ぐっしょりと血に濡れていました。切られた感触は、まったくありませんでした。カノンの戦士の勘が、少しでも鈍っていたなら、気づかぬうちに首を落とされていたはずです。 それでも、カノンは、その場にとどまりました。振り返って確かめる余裕はありません。なんとしても、ここで食い止めねばなるまい。カノンは、決意を固めました。ここは、みろたちが、自分たちの一部だという金色の欠片を、集めにきている山だったのです。みろに、この刺客を近づけさせるわけにはゆかぬ。みろは、敵とあらば容赦せず、勇敢に、赤い閃光となって、立ち向かうでしょう。ですが、いかんせん、小さすぎます。たちどころに、吹き飛ばされてしまうに違いありません。この刺客は、命令とあらば、女子供も、どんな小さきものでさえ、眉ひとつ動かさずに斬る、カノンはそう確信していました。 カノンの額には、大粒の汗が滲み出ていました。ぴんとはった緊張感が、臓の腑を締めつけます。口はからからに乾き、心臓はばくばく鳴ってうるさいくらいです。 「カノン、どうした!?」 悪いことに、山の上のみろのひとりが、カノンに気づいてしまいました。 「みろ、来るな!」 そんなカノンの制止などおかまいなしに、ぴょんとぴょんと、次から次へ、七つの金色が山の斜面を跳び降りてきます。 ならば、もろとも……! みろたちがここにやって来る前に、と、カノンが決死の突撃をしかけようとしたとき、フッと殺気が消えました。 カノンは注意深く周囲を探りますが、気配は木々の中に掻き消えて、もうつかめません。完全に失せたと知り、カノンはふうっと息を吐き出しました。 みろたちが、カノンのもとにたどりついたのは、そのすぐあとでした。わらわらと七人集まってきたみろは、くちぐちに騒ぎ立てました。カノンが怪我をしているのを見咎めたのです。 「カノン、いったいこんなところで、どうしたというのだ」 「おまえ、けがをしているな。なににやられた」 「おれがかたきをうってやろう。すぐさま、せいばいにむかうぞ」 今にも跳び出しそうなみろたちの襟首をひょいとつまんで、カノンはなだめました。 「水を汲んでいたら、大きな山羊に追いかけられてな。やつらの縄張りを荒らしたらしい。危ないところだった」 「やぎか」 「ああ、山羊だ」 「……」 怪訝そうな顔のみろたちでしたが、それよりも、はやく傷の手当てをしなければなりません。 「いいのか、お前たち。探し物は、」 「そんなものはあとでもいい」 「きょうはここまでだ。おまえのきずのほうが、いちだいじだ」 「まったくおまえはあぶなっかしい。見ていてやらねば、なにをしでかすかわからん」 今日ばかりは、七人ともぷんぷんと怒っています。カノンは、ぽかぽかと、心が温まるような気分がいたしました。 ふとした疑問がカノンの頭をよぎりましたが、足元に纏わりつく七つの金の房に急かされて、蹴飛ばさないよう気をつけているうちに、なんだかうやむやになってしまいました。なんにしても、みろたちが無事でよかった。そう思いました。 誰よりも教皇さまに忠実な騎士が、どうして命をたがえたのでしょうか。勇気ある小さな生きものたちに、心うたれたのか。自分が纏うことの叶わなかった黄金の光に、目を背けたのか。十三年前に落としてきた良心が、虚ろなまなこで穴から見上げてきたのか。誰にも、わからないことでした。わかる必要も、ないことでした。 シュラの持ち帰った、べっとり血のついた袖の切れ端を、教皇さまは無言で受け取りました。血はすでに乾き、浅葱色の麻布を、赤茶色に染めていました。 鏡の中には金の髪が流れ、青い瞳がじっと見返してきます。シュラを下がらせたサガは、すぐに、積尸気の使い手デスマスクを呼びました。 「シュラほどの男が討ちもらした相手を、俺に仕留めろと? あんたも人づかいが荒いな」 軽口を叩くデスマスクに、教皇のマスクに隠れたサガは、血の染み込んだ布を投げてよこしました。デスマスクは、床に落ちた布の切れ端を、右の親指と人差し指でちょいとつまみあげ、ニッと口の端をあげました。 「この血の主を探しだせばいいんだな? 確かにそれは、俺の領分だ。人から出たものは、持ち主のもとへと還りたがる。新しければ、新しいほどいい。俺は、ただその魂魄のつながりってやつを、たどっていけばいいだけだ」 ひととおりいってみせたあとに、デスマスクは付け加えました。 「で、見つけ出したあとは、どうする?」 「貴様は、貴様の役割を果たせば良い」 「期待はしてない、ってな」 デスマスクは、ハハッと乾いた笑い声を空に投げました。 今朝の仕度は、普段の何倍もの時間がかかってしまいました。右肩の傷のせいばかりではありません。いえ、もとをただせば、怪我のせいではあるのでしょう。こんな傷たいしたことはない、と、カノンはいうのですが、みろたちがカノンを椅子に座らせ、頑として働かそうとしなかったからです。その結果、お鍋が焦げたり、みろそのいちがながしに落ちたり、みろそのにが転んでお皿を割ってしまったり、食糧庫に閉じ込められて出られなくなったみろそのさんを救出したりと、かえってカノンの手間が増えたのでした。 なんとか七人を無事送り出し、一息ついていたところに、不審な気配がありました。カノンは、さっと扉の影に身を潜めました。 トントントンと、戸が三度叩かれました。カノンがなにも返事をしないでおりますと、さらに、トントントンと、三度。そうして、やっぱり返事がないと、戸の外から、声がかかりました。 「居留守ってのは、スマートじゃねえな。良い品をもってきた。しがない行商ってやつだ。なあ、この戸をちょいと開けてくれないかね」 カノンは、じっと動かずにおりました。昨日の刺客ほどの鋭さは感じません。しかし、なんとも不気味な寒気がします。 「いるのはわかってるんだぜ。あんたの眷属が案内してくれたからな。といっても、わからないか。まあ、この辺のことは、わからないならその方がいいのさ」 外の声は続けます。 「おいおい、俺ばかりがしゃべっているのも寂しいだろ。ふりをするのも馬鹿馬鹿しいか。良いだろう。あんたに用のあるお人がいるんだ。ちょっとそこまで付き合ってくれよ」 カノンの顔つきが一段と厳しくなりました。まるで、扉の向こうが見えているかのように、デスマスクは口元に笑みを浮かべます。 「そう警戒するな。なにも、とって食おうってわけじゃないんだ。たぶんな」 さらに、カノンがじっと押し黙っていると、外のデスマスクがわざとらしいためいきを吐くのがわかりました。 「まあ、突き止めるまでが俺の役目なわけなんだが」 意地の悪そうな貌に、纏う気配がかわります。 「そうはいっても、俺も餓鬼の遣いではないんでね。きっちりやれることはやっておかねえと、あとでどんなお咎めがあるか、わかったもんじゃないからな」 デスマスクはそういって、人差し指を高く掲げてみせました。すると、指の先から、青白い火の玉が揺らめき立ち、夜でもないのに、あたりが暗く、空気が冷え冷えとしてまいりました。ひゅうひゅうと、人の叫び声のような風が聞こえてくるような気がいたします。カノンは身がまえました。 ――が、いつまでたっても、なにも起こりません。窓の外は昏く、青白い揺らめきが燃え立っているというのに、家の中に入ってこようとはしないのです。 「なるほど。こいつは相性が悪いってやつだ」 先ほどとは打って変わって、酷薄なデスマスクの声が、響いてきました。 「黄金の太陽の加護がついていやがると見える」 俺にも、あったはずなんだがね。そんなデスマスクの苦々しげなひとりごとは、扉の内側のカノンにまでは、届きませんでした。 「だが――、今はたいしたことはない。ちまちまとしたちびっこいのが見える。やつらを縊り殺すことぐらい、この俺には造作もない、」 デスマスクは、扉の前からバッと退きました。すさまじい闘気が、一瞬のうちに立ち昇ったからです。 「立ち去れ。誰も、ここにはいなかった。そう伝えろ」 怒気を孕んだカノンの声色を聞いたとたん、デスマスクは、息をのみ、はじめて真顔となりました。目を細め、慎重に言葉を選び、ゆっくりといいました。 「確かに、あんたは、俺の手には負えないようだ」 いい残して、外の気は消え失せていました。冷えた空気が、魂の残滓を顕わしているかのようでした。 夕方になると、七人のみろたちが、帰ってきました。みろは、それぞれが太陽の光をいっぱい浴びて、きらきら輝いておりました。家の扉の前に立ったみろたちは、いぶかしげに、きょろきょろあたりを見回しました。そして、何食わぬ顔で夕食の支度をしているカノンに、尋ねました。 「きょう、だれかがここにやってきたのか?」 「いや、誰もこなかったぞ」 「ほんとうか。なんだか、ひどくじめじめした、いやなきぶんだ」 「なんだかさむけがするぞ」 ふんふんと鼻を鳴らすみろたちの前に、カノンはどんと大きなお鍋をおきました。中から、おいしそうなにおいが漂ってきます。 「今日は、たっぷり肉の入った温かいシチューだぞ」 なに、にくか。にくだな。ごちそうだ。ざわざわと色めき立つみろたちでしたが、ひとりだけ、まだなにかいいたげにしているみろがおりました。が、結局、カノンを咎めることはしませんでした。 楽しい夕餉のときがすぎると、七人とひとり寝支度をして、並んで寝床に潜り込みます。こうして、今日一日も終わりを迎えようとしていました。カノンが灯りを消そうと手をのばした横で、赤いとんがりナイトキャップをすっぽりと被り込んだみろは、カノンにいいました。ちなみに、全員赤が良いと譲らなかったので、揃いも揃ってサンタ帽のようになってしまいました。もちろん、カノンのお手製です。 「カノン、だれがたずねてきても、ぜったいにどあをあけるなよ。このいえの中にいるうちは、おれたちが、おまえをまもってやる」 「ああ、守られていたよ」 そういってカノンは、ぽんぽんと、金色の頭を撫でました。金の稲穂に囲まれて眠りにつくことは、このうえなく、幸せなことでした。 |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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