前編


 いつの間にか応酬は、石段を駆け上りながらの怒鳴り合いになっていた。
「待て! ミロ!!」
「ついて来るな!」
「何を怒っているんだ」
「自分の胸に聞いてみるのだな!」
「誤解だ。お前が気にするようなことは何もない!」
 ずんずんと上る速度は追う程に上がり、そして今や全速力である。おそらくきつい形相を掲げて階段を蹴っていくミロと、その背中に向けて叫ぶカノンは、傍から見れば、ただならぬ様相を呈していたに違いない。スタート地点の隣の宮の、存外空気の読めるイタリア人は、不穏な小宇宙が近づいてくる前に、自宮の奥深くに姿を消していた。
 何でこんなことになったのか。
 事は二日前に遡る。

 双児宮の居間のソファに、腹が満たされ満足げに寝転んでいたミロに、夕食の片づけをしながら、何気ない調子で聞いてきたのはカノンの方だった。
「お前、明後日は暇なのか」
「暇ではないな」
 しょっちゅう暇そうに双児宮に入り浸っているのは事実なのだが、年中暇人のような言われ方をすると面白くないような気もして、ミロは即座に答えていた。現に、その日は既に予定が埋まっていた。ただし、あまり気乗りのしない方向で。
 特に説明を求められたわけではないが、カノンが黙ったままだったのが、何となく気まずいように感じ、ミロは先を続けた。
「白羊宮に召集されている。任務の一環だ」
 嘘ではない。
 お互い遠慮をするような性格ではないし、間柄でもない。だが、ミロが話したがらない内容を、わざわざ聞き出そうというような真似を、カノンがしてきたことはなかった。その距離感を、初めは単に他人に踏み込まないカノン独自のスタンスのせいかと思っていたが、最近では、どうやら部分的には孤立性を好む傾向のあるミロを尊重してのことだということに、ミロ自身も気づいていた。
 甘えていると言えば甘えているのだろう。好きだと告げられたのは、ごく自然な会話の成り行きで、返事を求められているのかいないのか、ただ冗談ではないらしいということは何となく分かり、答えあぐねているうちに邪魔が入った。その後は態度も何も、変わりはしない。ほっとしたのも半分、肩透かしだったのも事実、相変わらず天蠍宮にやって来るので、双児宮に行っては飯を食わせてもらう習慣を止める契機にはならず、何やかやと世話をやかれるのも当然のように続いていて、今さら蒸し返すのもおかしな話であるような気がしてきている。そうしているうちに、もう数か月。
「そうか」
 カウンターの向こうで無駄なく、しかし無駄に優雅に身をこなす長身をぼんやり眺めながら、そんなことを考えていたものだから、しばらく経ってから言葉短かに返ってきたカノンの声が、僅かな落胆と安堵の色を含んでいたことに、ミロは気づき損ねていた。


 カノンに言わなかったのは、気恥ずかしかったからには違いないのだが、それは今日という日付の本来の目的というか、意味を意識してのことでは、断じてなかった。そもそも知らなかったし、興味もないし、今だって不本意で、不本意と言えば、最初から不本意だったのだ。
 あれだけほぼ毎日、そこそこ食える(という言い方をしておく)飯を食わせてもらっているからには、それなりの腕を認めてやらんわけにもいかない。だからまあ、要するにちょっとした、言ってしまえばつまらないプライドのせいでもある。ミロの方は、鍋を火にかけたことすらなかったのだ。
 具体的には、数時間前に遡る。

「珍しいですね。こういう形で皆が集まるなんて。いつ以来です?」
 白羊宮のきっちりと整頓された一室、なんとなく落ち着かない様子で椅子に腰かけている一応客人たちに、宮の主はお茶を勧めながら感嘆の滲む声をあげた。数えれば六人、決して狭い部屋ではないが、平均よりも大柄な者たちが並ぶと、やや手狭にも感じられる。
 確かにムウの言うとおり、こうして揃うのは大層珍しかった。思えばちぐはぐな面子なのだ。黄金聖衣を纏っていれば、それなりに統一感があるものの、今日に限っては銘々の私服姿。これから鍛錬に向かおうかという姿から、タンクトップにレッグウォーマー、果てはひらひらのずるずるを巻いている者もあるときた。てんでばらばらの格好、生まれも性格も、考え方も違う、彼らをまとめるものは一つ、当年二十歳、女神の黄金聖闘士ということだけである。
「茶をすすっているほど暇ではないのだ」
 貴鬼に材料を取りに行かせていますからと、のんびりしているムウに、いらついた声を上げたのは、まずはミロだった。訳の分からない召集に異を唱えるも、シャカも来るんですよ、というムウの一言に、何故だか言い返すことが出来ず参加することになったとはいえ、やはり不本意極まりない。
「同感だ。やるのならば早く済ませてしまった方が良い」
 同調したのは、動いていなければ落ち着かないアイオリアだ。
「そんなこと言っても、あなた方他にやることがあるわけではないんでしょう」
 優しげな口調で手厳しい内容を口にするのは、ムウの専売特許である。が、そんなムウにも頓着せぬのがアイオリアという男でもある。
「そもそも俺には、こういうことは向かん」
「仕方あるまい。我々に、という、女神のたってのご命令なのだからな」
 カミュは流石に落ち着いたものだった。しかし、彼の一見冷静な外向きの態度のわりに、なかなかに熱い中身をしていることは、会する一堂にとっては周知のことである。
「“お願い”ですよ」
 ムウはやんわりと訂正した。
「義務のように思って欲しくないというお心遣いから、“お願い”とおっしゃったのではないでしょうか。今日一日を楽しく、とのお言葉でしたから」
 だからこうして、集まることとなったのだ。彼らにとって、女神の思し召しとあらば、それは絶対なのである。
 が、しかし。
「何故菓子作りなのだ」
 ミロにはそこが、全く解せない。聖闘士が職業に数えられるとすれば、もっとも向かない種類の職業人たちには違いないだろう。少数の例外を除いては。
 難しい顔を作っているミロの横で、一回り大きい体躯を揺らし、豪快に笑ったアルデバランは随分楽しげである。こういったことに、人一倍馴染むのは、もしかしたら彼なのかもしれない。
「女神も粋なことをなさる。バレンタインに皆に手作り菓子を配って回るなどということを思いつかれるとは、流石、愛の女神でいらっしゃる」
「バレンタイン?」
「何だそれは」
 言ったのは、予想に違わぬ二人だったので、誰かは敢えて触れない。
「呆れた。あなた方、知らずに来たんですか」
 理由も言わずに有無も言わさなかったのはお前だろうが、ムウよ、という反論は軽く無視されて、ムウは続けた。
「本当に聖域外のことには疎いですね」
「別に問題なかろう。知るべきことさえ知っていればそれで良い」
「世間一般常識というのがありましてね。知らなくても困らないかもしれませんが、知っていた方が良いことだって、世の中には沢山あるんですよ」
 ムウの遠慮のない物言いが最も発揮されるのは、この面子に対してである。つまりは辛辣ではあるものの、その実、気安さの表れでもあるのだ。
 間を取り持つように、アルデバランが口を挟む。
「バレンタインは、毎年二月十四日に行われている行事だ。もとは古代ローマの神の祝日だから、二人が知らないのも無理はない」
「他の神の行事なのか? 女神に対して不謹慎ではないか」
 こういうことには生真面目なミロが眉を顰めるが、現在の状況を作っているのは、その女神ご本人なのだということを、忘れてはいけない。
「話には続きがあるのですよ」
 ムウに促されて、アルデバランは先を続けた。
「翌日から行われていた祭では、安産を祈願して当時別々に暮らしていた男女が巡り合い、それを機に結婚するという風習があったのだが、ある時皇帝が、愛する人を故郷に残した兵士は士気が下がるとして、この祭を禁止してしまったのだとか」
「随分、横暴な王もいたものだな」
「それが、今回のこととどう関係がある?」
 本来の話題を外れても話自体の展開に興味を持つアイオリアと、元来の話題に固執するミロ。似ている反応を見せることの多い二人の、意外な相違点である。
「ここが、バレンタインの語源の始まりだ。結婚を許されない兵士を哀れんで、聖ヴァレンティヌスという司祭が、密かに兵士たちを結婚させたのだが、見つかってしまってな。捕らえられ、処刑されたのが、二月十四日だったのだ」
「その後、恋人たちの愛の誓いの日となったんですよね」
 話の一段落を見て取って、先に口を開いたのはミロの方だった。
「だいたい戦士が愛にうつつを抜かすなど軽薄だろう」
「愛することの何が悪い。兵士とて人間だ。愛しい者と人生を分かち合いたいと思うのは当然ではないか」
 たとえ似たようなことが頭にあっても、口に出して言うことは真逆なこともある。これも、面白い相違点である。
「アイオリア、あなた、何か思うところがあるんですか」
「なんだ、そうなのか。アイオリア、水臭いぞ」
 同時に言ったムウとアルデバランも、知っていて言っているのと、心からの驚きと祝福をもって言うのと、ここも微妙に違っている。
「い、いや。俺のことでは! そういうことを言ったわけではない!!」
 確かに、そういうことを言ったわけではなかったのだろう。気取らない実直さは、融通のきかない欠点ともなり得はするが、間違いなく彼の大きな長所の一つである。そして、だからこそ、言ったことには嘘がなく、時に人の胸に響く。しかしまた、時にいじられる原因にもなるのだ。特にこういう場合。
「女神のお育ちになった日本では、女性が男性にチョコレートを贈って愛の告白をするという風習があるそうですよ」
「ヨーロッパでは、男性から女性へ贈ることも多い。菓子に限らず、花やカードでも構わないのだ」
 珍しく口を挟んだカミュに、おやという顔を向けてから、ムウはにっこり笑った。
「ですって。アイオリア、頑張ってくださいね」
「何を頑張るというのだ!」
「偶然にしては出来過ぎてますけど、星矢は用があって、彼女は今日聖域の自宅に一人です」
「何故お前が魔鈴の予定を知っているのだ!」
「おや、私は別に魔鈴のこととは言ってませんよ」
 不毛で微笑ましいやり取りを見ながら、アルデバランはまた、大きな声で朗らかに笑った。
「男女間でなくとも、家族や友人、親しい人に日頃の愛と感謝を込めて贈ると思えばいい。だから女神も、皆に配ることを考えつかれたのだろう」
「ムウ様、お待たせしました! こんな大人数の分のチョコレートを調達するの、大変でしたよ! 型も種類も多い方が楽しいですよね。ムウ様がおっしゃっていた特製スパイスもとってきました」
 さあさぼんやりしてると時間が無くなってしまうよと、てきぱきと道具材料を配って回る小さな少年の方が、大人たちより遥かに場慣れしている。調理場に急かされていった仲間たちから残され、座ったまま固まっているミロに、カミュは上から声をかけた。
「ミロ、行かないのか」
 ややあってから、ミロは答えた。
「甘いものは苦手なのだ」
 更に無言でのカミュの視線を頭の後ろに感じ、ミロは何とも言えない居心地の悪さに見舞われた。昔からこういう風にカミュにじっと見詰められると、何か悪いことをしているような、隠し事が出来ないような気がして苦手なのだ。
「ミロ」
 渡されたばかりのチョコレートの塊とスパイスを凝視しているミロに、気づかれないようカミュは口元を綻ばせた。
「たまには、のせられてみるのもいいかもしれんぞ?」
「……何の話だ」
「気にするな。独り言だ」
 一つの事に集中しがちな友人は、真剣に思いを巡らせている時にも、一つのものに真直ぐ強い視線を向ける。カミュが昔から知る、ミロの癖だった。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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