Be My Valentine後編双児宮のソファに身を沈め、物思いにふけるカノンの姿は、大層様になるものだった。普段の精悍な顔つきが物憂げに揺らぐと、本来の造形の綺麗さが、殊の外際立つ。甘ったるい香りがカノンの鼻腔をくすぐり、僅かな罪悪感で胸の奥がちくりと痛んだ。 女神と戦い以外のことに関心の薄いミロが、今日の日付の意味を知っているとは思い難い。これはカノンの方にも言えることではあるのだが、所謂イベントごとを有難がるような質でもなく、かえって浮ついた行事に巻き込まれることには、嫌な顔をしないとも限らない。だから、別段気にすることもないのだが、単に何もしないという選択と、該当イベントに関する別件に時間を割くのとでは、若干、どころかかなり意味合いが異なるということは、カノン自身にも分かっていた。 熱に溶かされたほろ苦い甘さが、口の中に広がる。 「どうだ?」 カノンの咽喉がこくりとなり、嚥下を確認してから、ソファの脇に立ち尽くしていた男はようやく口を開いた。 「ああ、美味いな」 見下ろしてくる男の、らしくない不安げな声に、カノンは少し笑って答えてやった。グラスを手元に引き寄せ、注がれたブランデーを胃に流し込む。ビターチョコレートには、これが良く合う。 その必死さに断り切ることが出来ず承諾したのだが、複雑な思いは否定しきれない。 カノンの言葉にほっと顔を緩めた男を下から仰ぎ見て、この男でも、こういう表情をするのだなと、カノンは思った。だが、もしも立っているのが、自分が焦がれる尊大な蠍であったなら。 既に、数ヶ月が経とうとしていた。 あまり他人に干渉されることを好まないミロが、カノンに天蠍宮に居ることを許すようになって久しく、それとは表裏にある理由から他人の領分に長居をしないミロが、暇なときは一日中双児宮でごろごろしているのも珍しくなくなっていた。好きだと告げるまで費やした時間と近づいた距離は十分だと思われたし、タイミングも決して悪くはなかった。悪かったのは間だ。双子の兄貴の。 双児宮に戻ってくることさえ稀であるのに、その日その時に限ってサガが姿を現したのには、自らの日ごろの行いがそこまで悪かったかと呪いの言葉を吐きたくもなった。何か言おうと言葉を探していたミロは、ふっとサガとカノンを交互に一瞥してから、ひらりと身を躱しすり抜けていってしまった。結局、何か変わったかというと、何も変わってはいない。避けられるかというとそうでもなく、やはりぶらりと双児宮にやって来るし、カノンが天蠍宮に赴いても嫌そうな顔は見せなかった。懐の内側に入れられていると感じるのは、都合のいい解釈ではないはずだ。だが、実際それがどういう種類のものなのかという答えを、カノンは持ってはいなかった。 以来、つかず離れず、焦らず急かさず、何かを強いたり迫る素振りは見せないようにしていた。待つ必要があるなら、その時を待つまでだ。カノンには、何もありきたりな行事にかこつけずとも、愛の告白が必要なら、毎日でも囁く準備はとうにある。そうしないのは、勇気がないからでも、駆け引きのつもりでもなく、ミロにいらぬ圧力を感じせたくないということに尽きた。我ながらに粘り強いとも、気が長いとも思うが、それだけ惚れてしまっているんだから、仕方がない。 かけられる声にうわの空で答えながら、そんなことに思いを馳せていたものだから、頭の中に思い描いていた人物を玄関に認めた時には、幻が具現化したんじゃないかと思ったのだ。だから一拍、反応が遅れた。 「貴様、何しに来た!!」 入口に姿を捉えたと思ったミロは、次の瞬間にはカノンの目の前に滑り込んできていた。低い姿勢で屈んだ背中に、長い髪が躍る。まさに飛びかからんとする勢いに、全力で威嚇する姿は、まるで全身の毛を逆立てた猫だ。 「カノンから離れろ!」 男の眼前に赤く染めた爪を突き付け、怒気を含んだ声で言い放つ。 「翼竜のラダマンティス!」 突然割り込んできたミロに、最初こそ戸惑った様子を見せたものの、すぐさま酷薄な表情で睨み返す貫禄は、流石冥界三巨頭といえよう。 「お前は……、蠍座と言ったか」 「貴様のことはよく覚えているぞ。よくもぬけぬけと」 ぎりりと歯ぎしりする音が聞こえてくるようだ。まずいことに、そういえば、聖戦時に対峙したこともあったのだ、この二人は。しかも、ミロにとっては屈辱的な形で。 「ここは貴様の来る場所ではない。去れ!」 だが、仁王立ちで声高に告げるミロにも、ラダマンティスは動じるでもない。逆に口元に薄い笑みを浮かべて、ゆっくりと言った。 「お前にそれを言う権利があるとは思えんな」 「なんだと……!?」 出遅れたままソファから二人を見上げる形となっていたカノンからも、ミロの眉がピクリと引き攣るのが見える。 「俺はカノンの許可を得てここに居る。疑うのなら、聞いてみると良い」 言われたミロの方は、険しい顔を更に厳しくして睨みつけた。視線はラダマンティスを捉えたまま、外そうとしない。 「カノンが許しても、俺が許さんと言っているのだ」 「訳の分からぬことを。カノンの意思を束縛する権利がお前にあるのか。カノンはお前の所有物でもあるまい」 言いかけた言葉を飲み込んだミロに、ラダマンティスはさらに続けた。 「俺にとっては、今日という日は絶対なのだ。お前には分からんだろうがな」 「貴様の想いなどどれほどのものだ!!」 「そこまでだ、二人とも」 激昂と共に閃いた赤い閃光が放たれるよりも前に、カノンはミロの腕を制し、その動きを止めた。 「言い過ぎだ、ラダマンティス」 一歩遠くにいる翼竜と、近くの蠍に。 「ミロ、お前もだ」 心外だと言わんばかりに勢いよく振り向いたミロが、抗議の声を上げる前に、ぴしゃりと言ったのには、多分にカノン自身の感情も、入ってしまっていたことは認めざるを得ない。 「人の真剣な気持ちを、そういう風に言うな」 少しよく読み解けば、ラダマンティスの発言も、ミロの怒りの理由も、絡み目が解けるようにカノンにはよく分かったはずなのだ。ただこの時は、ミロに否定されたのは、自分の想いでもあるような気がしたのは、やはり心のどこかに無自覚な不安が燻っていたのに違いない。カノンもまた、ミロの突然の乱入に冷静さを失っていたのだろう。大きな失言をしたことにも、見開かれた青い目から、すうっと激情が抜け落ちて冷えていくのにも、この場を収めることに集中したカノンの神経は、見落としていた。 「すまんな、カノン。迷惑をかけたようだ」 いち早く平静に戻ったラダマンティスが、ばつが悪そうに言った。 「お前が謝る必要はない」 「いや、俺にも考えが足りなかった。平和協定が結ばれたとはいえ、いきなり冥闘士が聖域にいては、警戒されて当然だ」 ラダマンティスに悪気はない。それはミロも同じだろう。この事態を引き起こした原因は、説明を怠ったカノンにある。 「ミロ、これには事情があってな」 「……お前がそれを言うのか」 俯き気味に小さく呟いたミロの言葉を、聞き返そうと口を開くより早く、思い切り胸を突き飛ばされていた。よろけたはずみでローテーブルに足を取られる。振動で床に落ちたグラスが、琥珀色の液体をまき散らしながら派手な音をたてて割れた。少し前のカノンの言葉に対してのことだと気づいたのは、もう一度ソファに逆戻りした後で、そこから見上げたミロの、この状況には全くもって似つかわしくない予想だにしない姿に、ぎょっとして、再び思考が止まる。 向き直った先のミロは、好きでもないはずの、しかも見覚えのない茶色い物体をかみ砕いていた。咀嚼するごとに、苦渋を示すように一段と顔が歪められる。握り込まれてくしゃくしゃに丸まった紙らしきものが投げつけられ、顔に当たって床に落ちるまで、カノンは動くことが出来なった。我に返った時には、ミロはぷいと背を向けて、双児宮から姿を消した後だった。 そしてようやくその瞬間、カノンは理解した。 たぶん、きっと、間違いなく、非常に的外れなことをやったのだ、自分は。 「ラダマンティス、あとは自分でどうにかしろ!」 跳ね起きたカノンは言い捨てて、双児宮を飛び出していた。ああ、世話になった、律儀にかけられたラダマンティスの声も、もう聞いてはいなった。 そして、現在。 「誤解なんだ、ミロ。聞いてくれ」 意味のない問答を繰り返すうちに、はや天蠍宮である。 カノンが伸ばした腕を払いのけて、初めて振り返ってみせたミロの顔は、カノンが予想していたよりも遥かに色濃く怒りの色を湛えていた。数段上から見下ろされ、瞳の強さが食い入るように上から注ぐ。 偶然ながらにラダマンティスの言ったことが正しいのだ。 縄張り。この怒りはそれを侵害されたと感じたことへの反応で、権利の主張だ。確かに双児宮はミロの宮ではない。しかし、そういう厳密なことは、この際議論すべきことではない。ミロがどう思い、どう感じているか。場所に対しても、人に対しても。 だから、おそらく、この勘は間違っていない。 素早く態勢を整え、カノンは一気に数段の距離を詰めた。突然眼前に迫った顔にミロが怯んだ隙に、両腕を掴みとり、身体ごと入口の柱へと押し付ける。 「離せ!」 柱に縫い止められた腕を振りほどこうともがくミロに、カノンは戒める手には力を入れたまま、声はつとめて穏やかに宥めるように言ってやった。 「落ち着かなければ話も出来ん」 「話すことなどない!」 「ミロ、いいから俺を見ろ」 黙ったかわりに間近からカノンを睨みつけ、それからふいと横を向く。 「目を逸らすな」 すかさず言ったカノンの方は、変わらず近くからミロの顔を覗き込んでいる。 「俺がお前以外に目を向けると思うか。お前が目を逸らさなければ、俺がお前しか見ていないことは分かるはずだ」 なおも口を真一文字につぐんで押し黙っている横顔に向けて、続けて言った。 「ラダマンティスのことは、お前の勘違いだ」 また一瞬、ピクリとミロの眉が引き攣ったのを、カノンは見逃さなかった。苦笑を抑えつつ、なるべく明るいおどけた調子を作る。 「あいつもなかなかに大変なんだ。冥界には他に頼める者がいなかったと見えて、困り果てて俺のところに来たのだ」 相変わらずカノンの方を見ようとしないが、ミロが聞いているらしいということは、緩んだ腕の抵抗で知れた。カノンは少し間をおいてから、続きを話し出した。 「パンドラが突然チョコレートを所望したのだそうだ。しかも手作りで、今日でなければならぬのだと。『俺のような武骨者ではパンドラ様のお口に合うものは作れまいと、誰ぞに頼んできましょうと申し上げたら、以来口をきいて下さらないのだ』と。見ものだったぞ」 かの翼竜が、と、思い出してくつくつと笑っているカノンを、ちらりと横目でミロが見たのに、カノンも実は気づいている。 「見上げた忠義心だかそれ以上だか。その辺は、本人とて気づいていないことなのかもしれんがな」 それよりも冥界の女王のこうまで分かりやすい意思表示に気づかんとは、全く朴念仁にも程があると、カノンは思うのだが、それは自分の口から言うことではないだろう。 「あいつにもそんなところがあったのかと、嬉しくなった。だから、少々手を貸してやったまでだ。存外器用な奴で、初めてにしてはなかなか美味く出来ていた」 もう暴れ出そうとはしないことを確認して、ゆっくりと拘束していた腕を先に滑らせ、合わせた掌を軽く握った。俯いている顔に額を寄せて言う。 「だが、なんらおかしいことではなかったな。現に俺も今、夢中なものがある。この俺が、ここまで盲目になるとは、戦いに明け暮れていた時には思いもしなかったことだ」 思われているほど低くないはずの沸点を軽く飛び越えて、間に飛び込んできたミロが、カノンにではなく、迷いなくラダマンティスの方に矛先を向けたのも、カノンを背に庇うような姿勢を取ったのも、理屈ではない理由がある。何も言いはしないし、すぐ傍までは寄ってこない。けれど、大抵目に入る場所でごろごろしていて、カノンが用で場所を変えれば、知らぬ間に近くに寝場所を変えている。執着もなく、気まぐれに自分のしたいようにするようでいて、決して目を離さない。咄嗟に飛び出して、噛みついて、精一杯所有権を主張して、これが可愛くなくて、なんだと言うのだ。 「ミロ、今日は何の日か知っているか」 「世俗的な風習になぞ興味はない」 「戦士の愛が成就されないのを憐れんだ司祭の記念日だ」 握った手を今度はしっかりと絡ませ、力を込める。 「俺にくれるものがあったんだろう?」 「もうなくなった」 「いや、まだ残っている」 久し振りにカノンのことを見上げてきた青い視線に、碧い視線で応え、数度絡ませ合った後に促すように静かに目を細めた。一瞬躊躇うように揺れた瞳が、だが素直に瞑るのを確かめて、カノンは口の端に舌を寄せる。軽く舐めとって離し、もう一度口で触れ、それからしっかりと口唇を合わせた。柔らかい感触を感じ合い、感じさせ、狭間から割り込ませた舌先で、中に残った名残を探す。恋い焦がれる相手が、その何分の一であっても自分を想い詰めたものを。先程口にしたものよりも、遙に苦いカカオの味、そして比べものにならない熱と恋情は、燃え立つ昂揚と溢れ出る愛しさになって、身を焦がす。 「美味い」 「嫌味のつもりか」 「お前に嘘はつかん。俺にとって、これ以上はない」 近くで見なければ分からない程度、ごく僅かだけ目元を染めて、目を伏せるのが分かった。繋いだ手から、握り返してくる確かな力。 「ミロ、返事と受け取っても?」 答えを言う代わりに、ミロは半ば開いた口唇をもう一度カノンに寄せた。残った甘いはずの菓子に込めた、何かを余すことなく与えるために。きっと勘違いではない、甘いキスの味に浸る。 「そろそろ処女宮に戻ってもいい頃合いかね」 「シャカ、そう言えばあなたいたんでしたね。気配を消していたから、すっかり存在を忘れていました」 デジャヴの如く、白羊宮ではのんびり茶がすすられる光景が広がっている。 「それにしても、君がこのようにお節介で、馬に蹴られそうなことに首を突っ込むとは思わなかったがね」 「私だって嫌でしたよ。でも毎日毎日茶飲みに来る兄が煩くて。邪魔した後ろめたさだか何だか知りませんけど、何故私があなたの弟の恋路の相談を受けねばならないのかと」 違うことと言えば、人数くらいなものだろうか。手狭に感じられた部屋は、今は程よい広さに見える。 「私の方も、正直あなたが大人しく来て下さるとは思いませんでしたよ?」 「あれだけ頻繁に行き来されれば、気にもなるというものだ」 「同じ条件でも気づいていない人もいたみたいですけど」 勧められるままに茶のおかわりを受け、シャカはふむと頷いた。 「アイオリアが下に行ってくれて助かりました。アルデバランは位置的に問題ありませんが、獅子宮はね。空気を読まずに邪魔されでもしたら台無しですから」 「私は宝瓶宮に戻れるのだろうか」 それまで黙っていたカミュが、ふと口を開く。 「途中で確かめて来たらどうですか」 「遠慮する」 言葉少なに表情もさほど変わらないが、口元にだけは緩やかな笑みを浮かべていた。 「どうせなら、戻れない、という方を願ってやりたいと思う」 黄金聖闘士二十歳組、今は三人。互いに銘々のやり方で、笑い合った。 「ところでこれ、どうしたか知りませんか? 空っぽなんですけど」 ムウがテーブルの上に転がっていた、空の瓶を手に取って言った。 「ああ、それは」 なんでもないことのように、カミュは言葉を拾う。 「ミロがよそ見をしている間に鍋に一瓶落としていた」 「カミュ、あなた……」 ムウをして絶句させるとは、なかなかのものである。 「言ってあげればいいものを」 「こそこそ隠れてやっているようだったから、指摘してやるのも忍びないかと思ったのだ」 「一瓶入れたら流石に苦いでしょうに」 空になった特製スパイスの瓶を振りながら、少しカノンが可哀そうに思えたものだった。が。 「吐きそうなくらい甘ったるいことになるのは目に見えているのだ。多少苦みが効いていた方が、バランスが取れて良いだろう」 表情も変えずに言う男を見て、ムウはどちらかというと、長年問題なく(?)友人をやってきているミロを、少しだけ見直したという。 「前から思ってましたけど、あなた割とSですよね」 しかし、五十歩百歩という諺がある。 「それだけたっぷり入っていたのなら、私たちがこうして気を揉むまでもなく、結果は決まったようなものだったのかもしれませんね」 「何故かね?」 再び存在を消しているか寝ているかしていたと思われるシャカが、口を挟む。 「なにせこれは、女神が下さったものなのですから」 一息入れてから、ムウは続けた。 「恋の成就には、ちょっとしたスパイスも必要です、とのことで。先日、冥界の女王との密談の際、情報提供の返礼として頂いたとか」 「密談とは、穏やかでないな」 深刻な顔で言ったカミュに、ムウは肩を竦めて悪戯っぽい笑みを見せた。 「ガールズトークですから内容は秘密です、だそうです」 「……。恋のスパイスか」 カミュが言う。 「ええ」 ムウが答える。 「平和だな」 シャカも続いた。 「本当に」 |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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