Ⅰ.星に命を刻む者


 スカーレットニードル。
 その赤い閃きをこの身に受けたのは、人生でただ一度――いや、正確な言い方をするのならば、十四回と言うべきか。だが、その星たちの一つとして同じ瞬きを持つものはなく、軌跡は流れるように滑らかに、一つの星座を描き出した。穿たれる度に一歩ずつ着実に死の淵が近づいてくることを、麻痺していく感覚と噴き出す血は分かりやすく突きつけているはずなのに、針孔から駆け巡る激痛に、生きているという実感を、俺はどの時よりも強く感じていた。心臓に火をくべられた蠍は、その瞬間に、獲物の命を喰らって燃え上がり、解き放たれて天へと還る。最後の一つを待つ刹那、俺の中に在ったものは、死への覚悟か、生への渇望か。
 俺の体に刻まれた蠍は、赤い心臓を与えられず、携えられた十四の星は、今も俺の体に燻っている。

「ッ……」
「何を考えている?」
 顎の下に埋まっていた柔らかい癖毛がうごめいたかと思うと、不機嫌な顔が、カノンを見下ろしてきた。
「俺を前にして考え事とは、いい度胸だ」
「お前のことを考えていた」
「嘘をつけ」
「本当だ」
 鋭い痛みの走った喉元に手をやると、たった今つけられた痕に、濡れた感触が残っていた。まったく気が抜けない。動物としての本能が忌避する急所を曝け出し、完全な従属を示しても、まだ足りないと更なる束縛を求める。だが、関心のないものにはいたって淡泊なこの男に、そんな執着を向けられるようになったと思えば、やましい快さが疼く。などと思っているのを見透かされているから、限度を知らないというものなのだが。
 下から腕を伸ばし、カノンはミロの乱れた髪を梳いた。髪がくるくると指先に絡みつき、柔らかい感触を残す。
「怒るな。本当に、お前のことを考えていたんだ」
 髪に差し入れた手で顎の線をなぞり、やんわり頬に触れると、僅かに上がった体温と肌から立ち上る湿った蒸気が感じられる。ぶるりとミロが躰を震わしたのが、直に肌を重ね合わせた部分から伝わってきた。
「お前が、ぼんやりしているからだ」
 煩そうに頭を振って払われた手に、カノンはさして未練を残さず、首筋から鎖骨に滑らせて、それからぱたりと下に落とした。
「だからといって、噛むことはないだろう」
 興奮が乗じると、ミロがところ構わず噛みついてくるのはよくあることなのだが、まだ行為が深まる前からも、時々こうして痕をつけたりもする。じゃれついているにしては、若干痛い。痛いというのは、物理的に痛い。
「つくづく攻撃的なやつだな」
「お前のように、地べたに這いつくばる趣味はないんでな」
 憮然と見下ろすミロを見上げ、カノンは困ったように顔を緩めた。理性と本能の境界、ミロは本能に任せているようでいて、多くの時はとても冷静だ。だから、大抵、行動には相応の意味がある。しかし、カノンは、その意味をいつも掴み損ねていた。問うてみても、答えを貰えたことはない。目を細めて、ふんと鼻で嗤って終りである。分からん時点で答える義務はない、そう言っているようだった。
 ミロはふいと真顔になり、身を起こして跨った下肢に体重を乗せた。下方にずらされた視線。残された無数の傷跡は、歴戦の戦士の証。ミロの指が、触れるか触れないかの間際、仄かな熱を残してカノンの躰の表面をなぞる。辿る軌跡がスカーレットニードルの痕だと、カノンはすぐに、気がついた。
 俺を裁き、救った光。
 どこか艶を含んだミロの視線にいざなわれるように、その指先を目で追いかける。何故、この指は、真紅の針を持ったのだろう。
 スカーレットニードルは、数ある聖闘士の技の中でも、その特殊性において、一線を画する。聖闘士に同じ技は二度と通用しない。実際には、小宇宙次第で同じ技でも著しくあり様を違えるため、必ずしもあらゆる場面に当てはまるというわけではないが、少なからず事実である。裏を返せば、いかなる鍛錬によって身につけた技であっても、二度目は通じないと思わなければならない。一度目で仕留められなかった場合、即座に危険に晒されるのは、自らの命なのだ。
 ミロの技が特殊であるという意味は、この点において歴然である。その十五発は、同じ相手に撃ち込まねばならないのだから。十五発から成る必殺。そして、その先は、ない。
「お前は、全てが星の定めだと思うか?」
 ミロの落とした言葉に、ぎくりとカノンは顔を上げた。気づけば、ミロの指は動きを止め、じっと一点を指している。指は無い星に残し、ミロはゆっくりと視線を戻した。見下ろしてくる青い瞳はとても静かだ。
 星に導かれて集う聖闘士、その技もまた、生まれ落ちた時から決められたものなのか。
「分からんな。ただ――」
 カノンはおもむろに考え込んでから答えた。
「スカーレットニードルを撃たないお前は、想像が出来ない」
 選択の余地があろうとなかろうと。ミロとスカーレットニードルは、カノンにとって同義である。鮮烈に眼前に現れ、忘れ得ぬ記憶を刻んだ光である。
 俺を生かした蠍の心臓を、何にも代え難く、強く欲している。
 背中から腰に落とした手に力を込めて引き寄せると、ミロの目が少し驚いたように見開かれた。反動で揺れたミロの髪が落ちかかり、腹を擽るのさえも官能に変わる。中途半端に煽られて放っておかれた熱が、じりじりと疼き始めれば、途切れかけた糸が再び撚り合うように視線は絡み、見る間に燻っていた種に火をつけた。
 カノンが腰から更に下へと手を差し入れるのを察して、ミロは体を強張らせた。普段は服で隠されているとはいえ、戦士として鍛え抜かれた体は、臀部から大腿に至るまで、他の部分同様、筋肉質で隙がない。が、丘陵の狭間、閉ざされた秘所は鍛えようもなく、初な柔らかさを残す。口をしっかり結び顔を俯けてはいるが、拒絶されることもない。その部分の感触を、確かめる許しを与えられているということに、言い知れぬ優越感と征服欲、何より深い歓びで満たされる。
 いかにミロが主導権を握っていても、受け入れる箇所を慣らす行為はカノンの役目だ。自身でするのは躊躇われるのか、この時だけは、大人しくカノンにされるのに任せてくる。一段と顰めた顔を作っていても、カノンのしやすいように、ささやかながら腰を浮かせるのが可愛くもある。やりすぎてしまわないよう慎重に、零れそうになる笑みを巧みに隠し、ミロの我慢の限界を超えないように。
 ミロの欲情が、瞳に潤いの膜を張ると共に、中心に形を作る。陶然とした表情は無意識で、結んでいた口を半開き、口唇の端を震わせて、は、と掠れた声を漏らすのが、合図である。
 体勢を覆した勢いで、カノンは、ぐいとミロの体を押し倒した。こちらももう待っていられない。内股に添えた手で大きく脚を開かせる。そのまま頭上に折り曲げた片脚を、肩に担ぎ上げて体を密着させようとすると、下で初めて抗議の声が上がった。
「く、無茶を、させる……!」
 押し広げた大腿の筋が外力に反発して引き攣れているのが、目に入った。
「きついか?」
「当たり前だっ!」
 股間の主張は萎えていないとはいえ、苦痛を感じているのは確からしい。ミロは、怒気を含んだ顔を歪ませていた。
「意外に硬いな。お前はもっと柔らかいものかと」
 流石に女よりも硬い男の体でこの体勢はつらかったか。カノンは腕の力を幾分緩めながら、疑問に思っていた。何故そう思い込んでいたのかは定かでないが、ミロなら易々と――。
「リストリクション」
 微量な電気が通り抜けたような衝撃が、全身に走る。次に広がる痺れ、そして体は動作を失った。
「忘れろ」
 固まった体からミロはするりと脚を抜き取り、その足でカノンの胸倉を押し返した。結果、シーツに背を預け、元の位置に逆戻りである。
「何をだ」
「分からんならそれでいい」
「良くない。どうしてくれる。この有り様を」
 今から情を交わそうとする相手にするにしては、あまりな仕打ちに、カノンは低く呻き声をあげた。多少、事を急いたと言えなくもないが、それも無理からぬことだと男ならば分かるだろう。まさにこれからというところで、身動き出来なくされるとは、どんな拷問だ。
「悔しければ、お前も仕掛けてくればいいだろう」
 そんなカノンの気を知る由もなく、不遜な下目づかいで言い放った。理不尽なのにも程がある。大抵のことはミロの好きにさせているとはいえ、こうも理由なく虐げられる謂れはない。はずである。
「ギャラクシアンエクスプロージョンなどぶちかましたら、壊れるのはベッドだけではすまんだろうが」
「望むところだ。お前の本気を見せてみろ」
 まるで頓着せず、それどころか、口元に笑みを浮かべる様には、嗜虐的な愉悦が滲んでいた。
 性的な興奮と戦闘の昂揚は、時としてよく似ている。再び圧し掛かってきたミロの顔が、視界を覆った。額がつくほど間近に迫り、色を深める青い瞳の奥に、焔がちらつく錯覚を覚える。動きを封じられた獲物の気持ちはこんなものかと、背筋に走る恐怖に近い感覚の裏では、甘美な悦びに魅入られる。近づいてくる口から覗く舌はやけに赤く感じられ、このままこいつに喰われ、一部になれるのならば、それでも構わないのではないかと、どこかで何かが囁いた――と、絡め取られそうになるのを、カノンは打ち消した。いくらなんでも倒錯が過ぎる。今日のこれは、やりすぎだ。
 流されかけた欲求を振り捨て、ミロの目を見返す。平静を努めた口調で、カノンは言った。
「馬鹿を言え。銀河の塵になるのは実証済みだぞ。俺とラダマンティスで」
 ぴたりとミロの動きが止まる。不審を覚えて言葉を切った、その目の前で、ミロの瞳が大きく様変わりするのを、カノンは見た。何か言おうと息を吸うよりも早く、真赤な針が突きつけられた。小宇宙を燃やした時だけ現れる、真紅の爪。
「何を」
「黙れ!」
 澄んだ青い瞳を揺らめかせているのは、焔は焔でも、激情の炎。一瞬にして色を変えるこの変化こそ、多面性を内に含むミロを象徴するものである。おそらく俺は、どんなものより、燃え立つこの色に囚われている。逃れる気すら起こさせない、絶対の檻。
 が、今はそんな悠長に構えている場合ではない。世に言われている通り、蠍座の執念深さに高い矜持が加われば、手がつけられなくなることは必至である。
「ラダマンティスのことは気にするな。ハーデスの結界あってのことだ。それに奴は、仮にも冥界三巨頭。俺も聖衣なしで屠れるような男ではなかった。それこそ、命を捨てでもしない限り、」
「黙れと言っている!!」
 宥め損なったどころか、激昂は爪の色を、更に真紅に染め上げた。どうやらまた、見当違いのことを言ったらしいということに、カノンはうっすらと気づきはしたが、皆目分からないなら、気づかないのも同じである。そもそも意外に繊細なミロのこと、カノンが機微を察するのに長けているなら、こう何度も地雷を踏んで修羅場を迎えるようなことはないはずなのだ。
「誰が奴のことなど言った!」
 鋭い目つききで睨みつけるミロにも、困惑した顔を晒すほかない。しばらく、そうして無言の時を過ごしてから、ミロは静かに目を閉じた。
 再度、瞳が現れた時には、炎のゆらめきは消えていた。変わって、奥には赤い宝石を宿し、堂々と誇り高い、蠍座の黄金聖闘士の顔をしていた。
「自らの命を失うこと前提の戦い方など、愚の骨頂だ。安易な死に逃げるなど許さん。地面を這いずってでも生きろ。お前にはそれが出来るのだろう」
 超然とカノンを見下ろし、宣を下す。その様は王さながら、カノンにとってはそのものである。
 妥協のない生への肯定。これが、蠍座のミロが、真紅の衝撃に姿を変えた、必殺の死の針を持ち得る理由なのだと、俄かに分かった。
 カノンにとっては、蠍座はミロであり、ミロが蠍座である。黄金聖闘士でないミロも、スカーレットニードルを撃たないミロも、仮定としての意味を為さない。しかし、カノンが、あらゆる輝けるものの中に手を入れて、一つを握りしめて取り出せば、開いた掌には、“ミロ”という個が残される。蠍座の星のもとに生まれ、その座を体現する聖闘士。彼が蠍座の黄金聖闘士である証は、ミロ自身の選んだ生き様それである。
 思えば、命のやり取りをする戦場において、スカーレットニードルほど、生を意識させる技はないのではないか。真紅の毒針が選ばせるのは、降伏か死か。同時に全て撃ち込むということも出来るのにもかかわらず、十五発を順に撃つことを、前提とした“慈悲深い”技。皮肉ではない。言葉通りの意味において。
 生死の選択を迫るとは、すなわち、生の選択権を、相手の意思に委ねるということなのだ。そうするミロの方が余程、戦った結果の自らの命に、補償を求めていない。だが、それでも、ミロの頭には初めから死など、ありはしない。
「悪かった」
 ミロの剣幕が何から来るものだったのか、カノンには結局よく分からない。だが、この男の命じることに、他に選べる選択肢などあろうはずもなかった。
「次からは気をつけよう……」
 大層、間抜けな返事だったが、ミロは鷹揚に頷いた。
 一つの星が刻まれるごとに、自らに向き合い、その命の価値と使い道の意味を問う。死ねという口、死を引き寄せる指先。だが、それは、生きろと、強く聞こえた。
 聖闘士に、守護星座を象った技多しといえども、自らの星を相手に刻む技を使うものは、ミロをおいて他にはいない。星命点。守護星座の星の場所は、その人の急所そのものなのだ。
「……やはり、最後まで撃ち込んでおけばよかったな」
 先ほどまでの激情は嘘の様に鎮めて、ミロは最後の点に指を押しつけ、ぽつりと一言呟いた。

 自らの命を賭し与える。スカーレットニードルの刻む星々、それは、ミロの命の一部なのだと、今は思う。だから、俺の体には、こいつの命が息吹いている。
 赤い心臓を持たない蠍は、この世に俺の命を繋ぎとめ、俺の魂は囚われた。最後の星を希い、与えられるその時まで、不確かで強固な絆は続く。それはなんと残酷で、そして、なんと、慈悲深い。

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拍手
Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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