U.星の定めに抗う者


 ギャラクシアンエクスプロージョンだったのではないか、と思う。
 あの時、この体から放たれるものがあったのだとしたら、他のどの技でもなく、銀河の星々さえも砕くと言われる、あの技だっただろう、と。
 聖戦の幕開けの夜を運命の刻だというのなら、全ての聖闘士にとってそうだった。ならば記憶の糸を手繰りよせ、遡るのもまた、あの夜ということになる。去らぬと言って、俺の前を塞いだ男のことで、思い出せることは、多くはない。克明に覚えているものがあるとすれば、表層を形作っている肉体の器に収まらず、無数の煌煌たる輝きが迸る小宇宙を。甘んじてスカーレットニードルを受けながらも、少しでも気を抜けば、こちらが圧倒されるほどに雄大で、飲み込まれそうなほどに深い。確かにそれは、銀河だった。
 運命の出会いなど、戯言に過ぎん。だが。
 初めて会った。あの夜に。

「ッ……」
 乗り上げた体を低く伏せ、無防備に晒された喉笛に、きつく歯を立てた。カノンが顔を歪めるのを目の端に確認し、持ち上げた顔で真上から見下ろす。
「何を考えている?」
 カノンが、自らを構成する内なる宇宙を、惜しげなく見せ、挑んできたのは、あれが最初で、そして、最後だった。身を投げ打ち、全てを晒しているようで、本質を明かそうとはしない。故意であろうとなかろうと、そのことに、理由のない苛立ちが募る。
「俺を前にして考え事とは、いい度胸だ」
 ましてや、気を取られるなど論外だ。
 痛みで引き寄せる意識と記憶。つけたばかりの所有印に残るミロの唾液を、カノンの親指が拭っていった。
「お前のことを考えていた」
「嘘をつけ」
「本当だ」
 たとえ俺のことであったとしても、片時でも目の前の俺を忘れるのは、面白くない。この男の全瞬間を支配したい。そんな欲求がいつから芽生えたものなのか、今となっては思い出すことが出来なかった。
「怒るな。本当に、お前のことを考えていたんだ」
 下から伸びてきた長い腕が、流れるように動き、乱れた髪を掬っていく。同じく長い指は、ミロの巻き毛をくるくると絡め遊んでから、宥めるように優しく、そっと頬に触れた。見上げてくる端正な顔は、整っているが故に、普段は隙を見せず底が知れない。こんなに柔らかく微笑むのだと知る者は、多くはない。いや、知るのは自分ばかりで十分だ。籠った熱気ごと掌に包まれ、躰がぶるりと震えた。
「お前が、ぼんやりしているからだ」
 素気ない態度で頭を振ると、カノンの手は簡単に振り払われ、するりと滑って下に落ちた。触れていった箇所の熱が奪われたような、どことなく寂しい感覚が通り過ぎる。
「だからといって、噛むことはないだろう。つくづく攻撃的なやつだな」
 困ったように顔を緩ませるカノンを、ミロは顔を変えずに見やる。大方、怒っているとでも思っているのだろう。間違ってはいないが、怒りの種類も出所も様々、表情の種類に乏しい割に微細に動くミロの感情が、カノンに伝わったためしはない。
 性欲が高まれば、情動も動く。独占欲の行きつく先、どうせなら、全て喰らいつくして自らの中に収めてしまいたいという衝動が、本能に立ち返った獣の捕食欲求から来ているものだろうという自覚はある。
 分かっていないこの男には、いくら噛んでも足りないだろう。噛み痕はすぐに消える。消えない痕をつけたのが俺だけだったら、少しは満足できたのだろうか。
「お前のように、地べたに這いつくばる趣味はないんでな」
 ゆっくりと体を起こし、その痕を見た。
 鍛え抜かれたカノンの体躯は、決して軽くはないミロを上に乗せても、潰されるような軟なものではない。残された傷跡は無数、それは、カノンの生き様の証でもある。よく目を凝らさないと分からない小さな針孔、ミロが初めの一つに指先で触れると、生み出したものと刻まれたものを繋ぐ微々たる小宇宙の残滓が為せるものなのか、間に仄かな熱が生まれるように感じられた。
 黄金聖闘士の闘いで、負傷という概念が問題となることは、実のところ、非常に少ない。無傷か死という結果で終わることが、多いからである。光の瞬きの間に勝負がつかなければ、千日に及ぶ闘いとなる。技を食らいつつも耐え、傷つき倒れながらも立ち上がるような泥臭い戦い方をするものでは、本来ない。
 屈辱に塗れても、死を選ぶよりも生き抜くことを選んだ男。
 自らの犯した罪の償いに、命で決着をつけたもう一人の男。
 同じ刻、同じ星の下に生を受けた、双子座の黄金聖闘士と呼ばれた二人の男の生き方と死に方は、まるで違っていたと、思う。
 けれど、十三年間、一度も顔を合わすことのなかった双子の姿かたちは、おかしい程に、同じだった。離れていても、双子が双子であり続けた証拠。愚かな兄と一緒にするなと言いながら、顔も、声も、体格や仕草、技さえも、兄と同じようにカノンは身につけていた。ただ一つの技を除いては。
 何故、ゴールデントライアングルだったのだろうか。
 時のはざま。北大西洋の魔の三角地帯は、入り込んだものは総てこの世から消滅し、未来永劫、異次元を彷徨い続けるといわれる場所。次元を操るのであれば、アナザーディメンションを既に得ている。にも関わらず、何故。
 兄の技を借りるではなく、個たる自我への固執所以なのか、意地か、せめてもの抗いか。それとも、アナザーディメンションの先で、サガと見えることを恐れたのか。現実の世で決別しても、異空間の果てで繋がっているかもしれない。希望、あるいは絶望。そんなわずかな可能性も、断ち切らねばならないほどの何を、当時のカノンが抱えていたのか、ミロが知る術はない。
「お前は、全てが星の定めだと思うか?」
 守護星座は、生まれた時から決まっている。星は絶対の標。聖域と海底、生と死、二度と交わらないはずの遠くに別たれた双子を、星はなおも引き寄せた。彼らの上にある星は強く、運命を頭上に掲げていた。
 抗おうとも、離れようとも、双子に生まれついた時点で、決まっていたというのなら。星を忌み憎んだ時もあったに違いない。
「分からんな。ただ――」
 迷ったようなカノンの顔が、不意にある種の確信を湛える。
「スカーレットニードルを撃たないお前は、想像ができない」
 ミロは、二、三度、瞼を瞬かせ、大きな目を見開いた。
 星は星でも、違う星。ミロとカノンの間に、星の運命のような呪縛に近い絆はない。でも、間違いなく、今、二人を繋いでいるのは、この指の辿る軌跡、十四の赤い星と欠けた一つの星なのだ。
 腰に伸ばされた腕に引き寄せられ、前屈みになった肩から、髪が落ちかかった。近く見交わしたカノンの碧い瞳に込められた熱が、撚り合った視線の糸を昇り、ミロへと伝わる。体の芯に灯っていた火が俄かにぼっと音を立て、急激に体温を上げていった。
 後ろから下肢の狭間を探る手を迎え入れながらも、体は自然と強張る。意思の力ではどうにも出来ない、己の弱い部分に触れられることへの抵抗は、いつまでも拭い難く、細く息を吐き出しながら、指が埋められていくのに耐えた。この場所で感じることに、初めは狼狽し、次に羞恥に濡れた。慣らしていく手管は腹立たしい程巧みで、他のことにはてんで鈍いくせに、ミロの躰のことはミロ以上に分かっているかのように、構えた意気込みは溶かされ、知らぬ間に与えられる刺激を受け止めることに没頭するようになっていた。今でははっきりと、欲望が形を結ぶことが分かる。閉じた体の解き方を教えたのは、他でもないカノンだ。
 息を詰めれば止まり、叫びそうになる手前で引いていく。しかし、ほっと休むほどの暇は与えられず、小さな波が千々に迫りくる。波を作り出しているのは、カノンに違いないのに、快楽の海に浮かべられて、所在なく漂わされる不確かさの中、大きな波に浚われ飲み込まれるのをすかさず引き戻されれば、安心感と錯覚する。そうしているうちに、波に揺られていることがなんだか心地よく、このまま身を委ねてしまってもいいような気にさせる。
 視界がぼやけ、無意識に握り締めた手がシーツに皺を作り、浮かせた腰が指の動きに併せて動く。荒くなる息遣いに、鼻にかかった甘い音が混じり、口に逃がした呼気は、薄く開いた口唇を震わし、掠れた吐息に代わった。
 ぐいと強い力が肩を押したかと思うと、天地が逆転し、黒い影に覆われた。影の中から、青を深めた碧眼が欲望を語りかける。体中に拡がりつつある恍惚とした痺れは、まだ始まったばかりで、先を促すように、カノンの項に腕を伸ばしかけた時だった。突然走った痛みに、ミロは一気に我に返った。片方の脚だけ肩に担ぎ上げ、そのまま腰を合わそうと乗り上げてくるカノンの所作はいつもより性急で、大きく開かれた関節が軋みを上げる。
「く、無茶を、させる……!」
 大腿の筋が細かく痙攣を起こしているのが、見ずとも分かった。
「きついか?」
「当たり前だっ!」
 悠長な問いに怒りをぶつけて痛みをやり過ごそうと試みるが、そもそもこの体位には無理があるというのだ。
「意外に硬かったんだな。お前はもっと柔らかいものかと」
「――リストリクション」
 動いたのは反射だった。
「忘れろ」
 何か非常に思い出されたくないものが、口に上りそうな予感がした。撃てるものなら、幻朧魔皇拳でも撃っておきたいところだったが、生憎ミロに、その手の技の持ち合わせはない。
 ぴたりと動きを止めたカノンから抜け出し、自由になった足で軽く胸を小突けば、屈強なはずの体は、あっさりとシーツの波に沈んだ。
「何をだ」
 カノンが低く呻き声を上げた。
「分からんならそれでいい」
 思い当たらないのなら、そのままにしておくに限る。
「良くない。どうしてくれる。この有り様を」
 不服そう、というよりも、やや焦った様子が面白くて、ミロの傾きかけた機嫌はすぐに持ち直した。
「悔しければ、お前も仕掛けてくればいいだろう」
「ギャラクシアンエクスプロージョンなどぶちかましたら、壊れるのはベッドだけではすまんだろうが」
 売り言葉に買い言葉ではあったのだが、咄嗟の応酬は、時に人の真実を見せる。
 カノンが迷わず選ぶのは、ギャラクシアンエクスプロージョンなのだ。幻朧魔皇拳をかけて、異次元に閉じ込めるという発想は、カノンからは出てこない。目に光のない人形を、部屋の奥深くに隠しておいて、満足できる男ではない。この男の欲するものは、生きたるもの。生命に価値を見出せる精神は、どんなに地に這いつくばってでも、生きることに貪欲だった。それは一番、カノン自身の内に秘める銀河に、よく表れている。
「望むところだ。お前の本気を見せてみろ」
 あの夜、対峙したカノンから感じた小宇宙は、サガのものとよく似ていた。似てはいるが違う、とその存在を知るにつけて思う。サガが放った必殺の技を身に受け、改めて強大な実力の片鱗を見た。黄金聖闘士最強と謳われた双子座のサガ。しかし、受けてみたいと思うのは、カノンのそれである。カノンという男の核を作る抜身の刀身、飾らない魂が凝集された輝きが、確かに其処に在る気がした。
 だからこそ、ギャラクシアンエクスプロージョンがいい。
 戦いの興奮は、劣情の昂揚とよく似ている。再び上に圧し掛かって見るカノンの瞳には、自分の姿が映っている。余裕などなくしてしまえばいい。唯一、取り繕った外面が外れて、自分を見て、自分だけに向けて、剥き出しの熱情と情熱を覗かせる瞬間が欲しい。食むように開きかけた口を近づければ、形の良い口が応じる。これも全て、何もかも全て、俺のものだ。
「馬鹿を言え」
 無駄に足掻くカノンの苦し紛れの反論など、そのまま飲み込んでやるつもりだった。
「銀河の塵になるのは実証済みだぞ。俺とラダマンティスで」
――急激に、体を流れる血が燃え上がった。
 その次の瞬間のことを、ミロはよく覚えていなかった。
「何を」
「黙れ!」
 気づけば叫んでいた。爪に集まった小宇宙が真紅にその色を変え、衝動が理性の檻を突き破って胸を燃やす。鋭敏になった神経は、ぴりぴりと全身を駆け回る電気を感知し、肌に触れるだけでも火花を散らすようだった。
「ラダマンティスのことは気にするな。ハーデスの結界あってのことだ。それに奴は、仮にも冥界三巨頭。俺も聖衣なしで屠れるような男ではなかった。それこそ、命を捨てでもしない限り、」
「黙れと言っている!! 誰が奴のことなど言った!」
 聞きたくもない。
 あれだけは許せん。
 絶対に、許さん。
 赤く染まる視界の中で、戸惑ったカノンの顔が、しきりにミロの瞳を、色の変化を探ろうとしていると知った。
 いくら知ろうとしても、お前には分かるまい。
 しばらくの間、無言でカノンを睨みつけた。激昂を鎮めるように目を閉じ、息を吸い、目を開く。
 纏う聖衣もなく、冥界の翼竜を前にして選べる手段は、事実、他になかったのだろうと分かっている。カノンが、自らの生を肯定し、満足して死んだのなら、他人がとやかく言うのはお門違いだとも、感じる怒りが理不尽なものなのだとも。
 そうだとしても。命は、失っていいものではないのだ。結局は、自分もあの戦いで命を落とした。死など恐れん。いつでも死ぬ覚悟は出来ている。だが、死ぬために戦ったのではない。最後まで死ぬつもりでいたわけでもない。
「自らの命を失うこと前提の戦い方など、愚の骨頂だ。安易な死に逃げるなど許さん。地面を這いずってでも生きろ。お前にはそれが出来るのだろう」
 ミロの前で、あれだけ生き抜くことへの執着と生命力を内から溢れさせていた男の死に様は、壮絶でありながら呆気なく、ただとても、なんだか無性に、許せなかった。
 この男が、一人遠いところで、誰にも知られず敵と共に逝くことを選んだ。そのことが。
「悪かった。次からは気をつけよう……」
 神の悪戯か奇跡が、再び生を与え賜うならば、次こそは、と。
 深く頷いたミロを見て、カノンは、少し安堵の色を見せた。だとしても、やはり、きっと、分かっていない。
 だいたい、なんで奴の名なぞが出て来るのだ。唯一、カノンが燃やした最後の小宇宙の爆発を、銀河の最期を共に見た男である。これはおそらく嫉妬だ。そして、一生拭えない。
 再び与えられた体には、“死”以外の全ての記録が残されている。腹を抉ったポセイドンの槍、綺麗な指の付け根を歪ませる骨の砕けた痕。数々の傷の残るカノンの体に、ギャラクシアンエクスプロージョンの爆発で焼け焦げた皮膚も、吹き飛ばされた臓器も見ることは出来ない。すなわちそれが、カノンの命を奪ったことを意味している。
 これを傷つけられることへの憤りと、傷つけたいと感じることは、矛盾しているようで同じところに繋がる。
 スカーレットニードルの十四の痕は、穿たれた時と同じ場所に、今でも強く刻まれている。生を過ぎ死を越えて、再び生を得た今でも、赤々と燃える最後の巨星の幻影を見る。
 カノンが、本気の拳をミロに向けてくることは、今後ずっとないのだろう。そして、今となってはミロも、このぽっかりと空いた右の脇腹に、蠍の心臓を与えてやることは出来ないのかもしれない。
「……やはり、最後まで撃ち込んでおけばよかったな」
 ならば、せめて、と思う。

 俺の知らないところで死なせはしない。
 だから、俺の目の届くところで生きろ。

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拍手
Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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