「俺のものになってくれないか」
告げるつもりなどなかった。ただ、双魚宮へと続く階段へまさに去り行こうとする後姿をそのまま行かせてしまいたくなくて、思わず出た左手と同じように、つと口からこぼれ出てしまった言葉だった。
「何の冗談を言っている」
引き留められた右腕を軽く振りほどくようにして、しかし間髪入れずに、そして何の躊躇いも戸惑いもしめさず切り替えしてきたミロの反応に、まあそんなところかとカノンは他人事のように思っていた。振りほどかれた手に残ったひんやりとした聖衣の感触が急速に失われ、再び熱が戻ってくるのが、逆にひどく寂しく感ぜられた。生来がきつい造りの顔立ちであるミロの表情は一見怒っているようでもあったが、そこに嫌悪や皮肉は含まれてはいない。さりとて驚きを隠しているような表情は露程も見えなかった。不思議なほどに、平静だ。
「冗談が言えるくらいなら大丈夫そうだな」
もともと用意していた答えでもあるまい。かといって、ながされたというわけでもなさそうだ。そんな気負いはどこにも感じられない。
「出遅れた分、明日からはしっかり働いてもらうぞ、カノン。サガの人使いの荒さは半端ではない。覚悟しておくのだな」
直前のやりとりになど、すぐに興味を失ったかのように自然と続けられる言葉に、ああ、本当に冗談だと思ったのだなと、カノンはやはりぼんやりと考えていた。
「だから、今晩くらいはゆっくり休んでおけ」
口に出るのは確かに目覚めたばかりのカノンに対する気遣いで、顔に作るのも少し口の端を上げただけにしろ笑顔ではあるのだが、その瞳にはどんな感情も灯されてはいない。言い残して今度こそ背を向けて去っていくミロを、教皇の間入口の重厚な扉が目の前で静かに閉まるまで、カノンは無言で見送った。
他人の感情に鈍いわけでもあるまいに。
かつては揺らめき立つ激情の焔を一瞬で鎮めてみせた青き色の瞳に、今は何の感情の揺らぎも感じられなかった。
眼を開いて、初めに入ってきたものは光。いや、本当に開いていたのかは定かではない。自分の体が、横たわっているのか、或いは浮かんでいるのか、そもそも体があるのかさえ分からない。ただ、包み込む暖かさと、溢れる光を感じる方へ、引き寄せられるように漂っていた。覚えがある。以前も、いつの時も感じていた暖かい光を、俺は確かに知っている。
母胎で浮かんでいた時が、もしかしたらこれに近いのかもしれなかった。その心地よさと幸福感は、生れ落ちる瞬間、世界の中に無慈悲に放り出された時から、緩やかに忘れゆくものであったが、ふと渇望の果てに思い出す、何人にも侵されない全能感と同義である。俺は、その時も、初めての生を得る時の、生まれ出ずるもの全てが絶対の一人であるその時でさえも、一人ではなかった。自分ではないもの、しかし、自分でもあるもの。絶対に、自分自身で占められるはずのその空間でも、俺は絶対であったことはない。
それは、抗えない運命。
「サガ……」
女神の愛の呼び声を感じ、暖かい小宇宙に抱かれて二度目の生がひらかれようとする時、呼んだのは半身の名であった。自分を抱く暖かいものが母だと知るよりも前に、俺たちは互いのことを知っていた。最初の生の時も傍にあり、自分よりほんの少し前に苦難の世に送り出された兄。今度も。俺よりも、やはり前に。
「カノン」
耳で聞いたのか、心で聞いたのか。でも確かに、自分の名が呼ばれるのを聞いた。
ふわふわという心許なかった体の感覚が、輪郭をもって収束し、己自身を形作っていく。見ていた心地よい夢を、目覚めてしばらくすると思い出せなくなっているように、体に纏わりついていた浮遊感と幸福感は、皮膚の表面から抜け落ちるように失われていく。体表の熱が、奪われていくかのように。同時に、頭の中枢を覆っていた靄もまた、吸い込まれるように消えていった。一人、世界に放り出された孤独感と自我が、そこにはあった。
「女神は」
掠れた声だった。聞き覚えがある声。しゃべっているのは自分だと気づくのに、少し時間がかかった。靄が晴れ覚醒していくにつれ、急速に迫りくる現実に、長らく育んだ戦士の習性が、散らばった情報を集めようと俄かに動き出す。起き上がる、という動作をおそらくしたのだが、普段は意識しないその動きを、意識してやっている違和感が体を支配した。
「冥王はどうなった」
しかし、飛び出した険しい敵の名を含む言葉に反して、その心持ちはとても穏やかだった。自分の周りの空気が和やかだ。ここは、戦場ではない。微笑みが、柔らかいざわめきが、自分とは無縁であった幾多のものが周りを取り囲んでいる感覚がある。終わったのだな。それは、答えを聞く前から、確信していた。
「カノン……!!」
目の前の少女は、微笑んでいた。
「気がついたのですね」
俺の手を取り、両の眼に涙を溜めて見詰める。この女神が無事でよかった。いや、彼女が世界を救ったのだ。そしてまた、俺のために涙を流している。彼女の愛は、全てのものへ注がれる愛だ。ただ、この一瞬だけ自分のために流される涙が、祝福だと知った。再度の生への。
それまで眠っていたカノンの小宇宙が、現世へと戻りくる徴をみせ、かの心優しい女神は一気に九つの宮を駆け下りたのだという。遅れて数人の女官や従者が双児宮に辿り着いた時には、目覚めた直後一瞬は揺らいでみせたカノンの小宇宙は、すでに安定を取り戻していた。涙に濡れた女神からは、あまり多くのことを聞くことはできなかったが、エリシオンへ赴いた女神と青銅の若き五人によって冥王は討たれ、聖戦は終わったのだと、途切れ途切れの声でカノンは説明を受けた。今はそれから、ひと月あまりが経っているという。
確かに自分は冥界で、かの冥王軍の翼竜とともに果てたはずだった。どういう経緯で自分が今ここ聖域に戻ってきているのか。死にきれなかったのか? 初めに湧いた疑問を、カノンは自分自身で否定しながらも、その思考にやや苦笑する。死を望んで、冥界を駆けたわけではなかった。ただ、死ぬべき場所を探していたかもしれない、とは思う。赦されざる罪を犯し、しかし許された命ならば、それを使い切って死ぬ。生きて冥界を出られるつもりなど、端からなかった。しかし、それは死を望むというのとは違う。
自分のおかれた状況を、まだほとんど理解していないカノンではあったが、少女を愛おしむような母を慕うような心持ちを残しながら、女神を静かに押し出した。一滴の涙は、自分のために流された。それで十分だ。女神を必要としているのは、何も自分ばかりではない。聖域の要である女神が、戦後の混乱にあるこの時に、長い時間をたとえ目覚めたばかりとはいえ一人の人間に割くことは許されない。聖域が、全ての人々が女神を求めているのだ。何度も振り返りながら去っていく女神を見て、もう一度、この女神を守ることができて良かったとカノンは思っていた。
大いなる神の意思か、この戦いにおける死者が蘇りつつあるということは――滅びたという冥王がどう関わっているのかは知れないが――、傍らの従者からかいつまんで聞いた。カノンもまた、その一人なのだと。体が蘇ったのは、実際には聖戦の直後であったらしい。しかし、仮死状態のまま眠り続け、七日を超えたあたりから、徐々に一人、また一人と、目覚めるものが出てきたということだった。全員を一堂に会して、横たえておくというわけにもいかず、黄金聖闘士は各自の宮に移され、世話をする者がつけられていた。黄金聖闘士はあなたで最後です。そう言って微笑んだ従者に、俺は黄金聖闘士ではないんだがな、と自然口に出そうになった言葉をカノンは飲み込んだ。
ここ双児宮の旧時代からの居住区は、住まうものを失って十年以上の月日が経とうというのに、昔のままの空気を残していた。何とも言えぬ懐かしさに襲われ、兄と過ごしていた日々がつい先日のことであったかのような錯覚にとらわれる。実際にカノンが暮らしたのは、双児宮が作り出す迷宮の更に奥ではあったのだが、それでも慣れ親しんだ場所には違いない。表に身をさらすことの許されなかったカノンにとって、双児宮はそのごく狭い世界の中心であった。たとえそれが自分のものでなかったとしても、だ。
「サガはどうした?」
恍惚の中で無意識に呼びかけたのは半身の名だったはずだが、カノンは改めて意識下にその名を口にする。確かに傍らにいたような気がしたサガの姿は、今この双児宮の中には見られなかった。しかし、サガの小宇宙は感じていた。サガもまた、戻ってきているのだ。
誰が、どこまで蘇っているのか、目覚めているのか、聞くべきことは考えると確かに沢山あったはずだったが、目覚めたばかりの頭では、多くのことを聞き逃していた。
まあ、女神が無事で、平和が守られたのなら、まずは知るのは十分か。
この思考もまた、カノンに苦笑をもたらす。すべてはサガのみだった。サガが自分の中を占めるすべてだった。過去のことだと断ぜられるほど、昔のことではない。だが、今は、確かに違うのだろう。サガしかいなかった世界は、それゆえに壊れ、結果的には己を広い世界に放り出した。しかし放り出されてなお、自分をはじき出した世界の外に身を置きながらも、やはりサガがすべてだった。そのサガもまた、狭い世界に囚われ、翻弄された一人の人間なのだと悟ったときには、サガはもうこの世にはおらず、自分もまた濁流にのまれていた。奔流に抗うつもりはもはやなかったにもかかわらず、その愛は残酷にも、自らをこの世に留めた。サガはいない。しかし、自分は生きている。俺を生かすのが、神の意思ならば。
支えようとする従者を制し、カノンは重い体を持ち上げる。
俺は、何度女神に命を助けられているのだろうか。スニオン岬で、海底神殿で、そして今度も。その度に、生きて進むことが己に課せられた。簡単には死ぬことは許されない。そう、覚悟を決めて聖域を踏みしめたのは、ついぞひと月余り前、意識の上では、ほんの一日足らずのことかもしれなかった。借りていた双子座の黄金聖衣をサガに返すことで、俺の役目は終わった。死に向かう際に、憂いなく生き切ったという充足感もまた、再び生を得ることで、丸く輪を描いていた鎖の一つが外れて歪み、完全の象徴である円の形を崩した。だが、今、罪を償いなんの憂いもないと心の底から思い、死に臨んだ時から、再び呼び戻された今は――意外なほどに、失望はない。いや、むしろ悦んでいるのか、俺は。あの時感じていた罪を負いながら生きることの苦しみ、為さねばならぬという重圧が、驚くほど、今の自分にはない。罪が消えたわけではない。生まれ変わったわけではないのだから。いや、たとえ生まれ変わったのだとしても、負い続けるべきものだ。しかし、それでも、なお生きろという神の意思は。生き続ける先に、何かを見つけることもまた、神の課した試練なのだろう。
聖域はいまや、聖戦の傷跡と、次々と蘇る聖闘士たちへの対応とで、浮足立っていた。しかし、そこかしこに満ち溢れる活気は、この混乱と多忙が決して厭うべきものでないことを示していた。
教皇の間から女神神殿へと続く大広間もまた、バタバタと走り回る神官や女官、雑兵たちで溢れかえっており、以前の近づきがたい荘厳さとはほど遠い様相を呈していた。女神が快活でわけ隔てのない方だというのが、大きな要因である。本来、女神から言葉をかけられることもない下々の者にまで、今生の女神は声をかけ、共に復興の困難な時期を乗り切りましょうと言う。とはいえ、聖域はやはり人手不足と、大混乱のさなかである。まだ体調も万全ではないでしょうから、とやたらと世話をやきたがる従者を丁重に下がらせ、久方ぶりに身をさらす日の光を眩しく感じながら、カノンは一人でここまで上ってきていた。カノンが目覚めたという話は、すでに女神の言葉や、再生を示す小宇宙から知れていたであろうが、入ってきたことにすぐに気づくものもいなかったのが、良い証拠である。
「カノン!?」
天馬座の聖闘士は、茶色の短い髪を方々に跳ねさせて飛ぶように駆け寄ってきた。彼もまた、聖戦で受けた冥王の剣により、一時期は生命さえも危ぶまれていたとのことだが、一ヶ月の間にこの通り走り回れるまでに回復したようだった。
「カノンだよな!? 漸く目が覚めたんだな!!」
屈託ない笑顔は、ついこの前まで死にかけていたとはとても思われない。生命力の塊のような少年だ。カノンは、一人で聞いてもいないことをしゃべり続ける星矢に、これくらいの明るさが自分たちにもあったならばな、と多少の懐古の気持ちをもって思っていた。十二宮でサガを打ち破ったのは、この少年であった。
「紫龍は五老峰に行ってるんだ、老師と一緒に。若返っちゃって、あれじゃあもう老師って呼べないよな。沙織さんも大忙しでさ。日本とこっちを行ったり来たり。瞬と、めずらしく一輝も付き合ってるんだぜ。不貞腐れてたけど、今度ばかりは瞬が許さなくって。瞬に逆らえない一輝って、笑っちゃうだろ。そういや氷河も今朝までこっちに来てたんだ。相変わらずタイミング悪いよな、もうちょっとだけ長くいればカノンに会えたっていうのに。……なあカノン、聞いてるか?」
実際、半分くらいしか聞き取れていなかったが、カノンは微笑ましい気持ちで頷いた。
「星矢、お前たちにすべてを背負わせてしまってすまなかった。よく、女神を守ってくれた」
多少照れくさそうにしながらも、黄金聖闘士たちから託されたからな、でもみんな戻ってきてよかった、と小さな声で呟いてから星矢はふと真剣な顔を覗かせた。
「サガにはもう会ったのか?」
「いや。まだだ」
「奥にいると思う。サガは一番初めに還ってきたんだ」
日が暮れて、日中の活気が嘘の様に、その場は静まり返っていた。こうしていると、やはりここはあの聖域なのだと実感する。人に畏れと慄きを抱かせる、神聖なる領域。
その人物と行き合ったのは、カノンが名状しがたい重苦しさを抱えて、一人双児宮への帰途につこうとした時だった。教皇の間、ほんの数歩の距離に、黄金の蠍の尾が純白に翻るマントの上に揺れていた。
「カノン」
先に声をかけてきたのは、ミロの方だった。彼もまた、自宮に戻ろうというところなのだろう。ということは、日中はこの近くにいたということか。カノンには、見かけられなかったように思われたが、とはいえ目先のこと以外にあまり気を配っていたわけではない。他の黄金聖闘士たちがどうしているか、結局カノンは聞きそびれていた。
疑問が顔に出ていたのだろう。ミロは問われる前に答えを口にする。
「任務がてらシベリアに発つカミュの見送りをしてきた。ここには今しがた着いたばかりだ。任務に赴いた足でシベリアに向かったカミュとの、二人分の報告をしに来た、というのが正しいかもしれないな」
女神にな。一呼吸おいてから付け加える。
しばらく待ってもカノンが何も言い出すつもりがないと認めて、ミロはそのままの何気ない調子を崩さず口を開いた。
「お前、寝すぎてまだ寝ぼけているのか?」
「何だと?」
前触れもない失礼な発言に、多少険のある声で返す。カノンの反応が乏しいことへの嫌味のつもりであろうことはすぐにも知れたが、カノンが黙っていたのは、和やかに会話をする気分になれなかっただけで、そしてつい言い返してしまったのも同じ理由である。
彼特有の尊大な笑みを口元に浮かべながらミロは続けた。
「せっかく蘇ったというのに、随分と景気が悪い顔をしている。そんな顔だとサガと間違われるぞ」
カノンは今度こそ、はっきりそうと分かるように睨みつけた。こいつの辞書に、遠慮という文字はないのか? 気を遣って欲しいなどとは思っていない。腫れ物に触るようにされるのもまた、望むところではない。しかし、双子の盛大な仲違いは、今や聖域にいる者ならば誰しもが知っていることである。二人を比べるような物言いが、どう転ぶか予想できない以上、避けて通るのが賢いやり方だろう。
だが苛立ったのは、むしろ心中を見透かされたような不快感にだということを、カノン自身は分かっていた。景気が悪い顔をしているというのならば、確かにそうなのだろう。しかし、サガのようだといわれたから腹を立てたのではない。今さらそんなことで心を乱したりするものか。心に重くのしかかるのは、先ほどまで向かい合っていた兄の面持ちが、どこかとても沈鬱なものを含んでいたということだ。外からみても分かるほどに。たった今、ミロによって言葉にされた通りである。せっかく、蘇ったというのに、だ。だが、そんなカノンの物思いなどミロの知るところではないはずだった。
「やり直す機会を喜ばない奴があるか」
だからカノンは、脈絡もなく更に続けられた言葉は、自分に向けて言っているのだと思った。
「苦しくないとは言わんがな。どう思うかは本人にしかわからん。他人の感傷など無意味で邪魔なだけだ」
はたと気づく。気づけば、初めは頭の隅で遠くの国のことのように漠然と耳に通していた言葉が、緩やかに浸透して芯に響く。
「女神はお優しい方だ。弱さも、哀しみも包み込んでくださる。悔いる者を、決して無下にしたりはしない。それすら苦しいというのなら、好きなだけもがいてみるのだな。……だが、大丈夫だと思うぞ。夜は明ける。それには必要なことなのだろう? 自らが何かを為すということが」
この男が言っているのは、サガのことだ。カノンに突き付けるような言い方をしながらも、サガを思って言っている。沈鬱な表情の訳を、カノンがそれに少なからず揺さぶられたことを感じて。そして、大丈夫だと。
最後だけ、カノンに言った。
「お前が信じないでどうする」
生かされた自分に与えられた贖罪の機会を、サガは得られなかった。贖罪という意識を、誰よりも強く、蘇った今持ち続けているのは、サガに違いない。
思えばミロは、任務の首尾を伝えにサガの許へやってきたのかもしれない。そこで双子の再会に遭遇し、終わるまで待っていたのかもしれない。しかし、たとえ漏れ聞こえる声があったのだとしても、カノンは自分の心情をサガに語りはしなかったし、サガから語られることもまた少なかった。今更言葉で伝えられることなど、ほとんどないことを知っていたからだ。お互いに。
希釈したわだかまりの反動が、行き過ぎた同調を呼んだこと。一つ一つがカノン自身にこそ意外に思えた感情を、瞬間に看破した。サガのことを言っていたのだとしても、それは間違いなくカノンを相手に言ったのだ。カノンに言うことが意味を成す、と。
女神とサガと。
驚くほどそれだけで占められていたカノンの心を、一瞬にして世界へと立ち返らせたのは、またしてもこの青い瞳だった。怯むことなくまっすぐカノンを見る目は、いつか見た時の青とは違う。凪のようにしずかで波立たないそれは、ある意味カノンが目にしたものとは対極にあるようにも思えた。だが、同じでもある。
無遠慮に容赦なく向けられたそれには、それでもひどく………優しいものを含んでいた。
フッと目を伏せ、カノンの返事も待たずに、ミロはマントを閃かせた。
「ミロ!」
思わず呼びとめていた。
肩越しに振り返る姿に、既視感を覚える。
名を呼んで初めて、この男の存在が現実に現れた。呼ぶと同時に、鮮やかな記憶が情景と共に去来した。
一度きりの邂逅。それは、あまりに鮮烈で、表現するならば、モノクロの世界が文字通り真紅に染まった瞬間で、真赤な衝撃がすっと引いたのと同時に、カノンの現実は色をもって動き出したのである。あの時も、ただ後ろ姿を見送った。双魚宮への扉を開けて去っていく姿には、もはやつい先刻まで立ち上っていた激情はなく、静かな深い闇に飲まれていった。
それはありきたりな言葉でいうならば、雷でうたれたかのように、或いはそうなるべきことがあらかじめ刻み込まれていたかのように、降ってきた。
「……俺のものになってくれないか」
稲妻に雷鳴が追いつくように、降ってきた感情の理解は口にした後についてきて、同時に収まるべきところに収まった。
ああ、俺はこの、すべてが欲しい、と。