I belong to you第1章 ソキウス(1)カノンの眠っていた一ヶ月の間にも、時は確実に刻まれていた。聖域は急速にその機能を回復しつつあり、次の時代に向けて動き始めている。 冥王軍の来襲で傷を受けた聖域の復興とともに、この戦いで大きく揺らいだ世界の秩序を取り戻すことが、まずは女神の聖闘士に課せられた使命であった。世の人々にはほとんど気づかれないままに守られた地上ではあったが、神々の手に弄ばれた世界は、目に見えぬところに深い爪痕を残している。目の前の危機が去ったからといって、傷跡がすぐさま元通りになるわけではない。そしてまた、異状の余波が完全に過ぎ去ったものなのかも定かではない。つまり、各地に起こる現象に極めて細やかな気を配ること、微細な変化にも気つくこと、これら一見地味とも捉えられる事柄は、決して疎かにしてはならないものである。考えてみれば、奇跡と呼ばれるものにしても、普通の人間から見ればまさに異常なことなのだ。死んだはずの人間が蘇るような今の世界、何が起こったとしてもおかしくはない。 すでに黄金聖闘士の何人かは各地に飛び、その任に当たっていた。女神もまた、城戸沙織としての顔を十二分に使い、陣頭に立って平和維持のために、世界中に目を配らせている。そんな状況が、聖域を統括する役割を担う者を必要としたことは、当然といえよう。 肉体の物質的な事情からなのかは知れなかったが、蘇るのは皮肉なことに先に死んだ者たちの方が早い傾向にあったようだ。初めに蘇ったサガは、必然的に混乱期の聖域をまとめ上げるのに心力を注ぐこととなり、結果、望む望まざるにかかわらず教皇の職務を任されることになっていた。正式ではないにしろ、教皇という自らの罪を意識せずにはいられない任に就くこととなったサガを思うと、カノンは沈痛な心持ちにならざるを得なかったが、他の黄金聖闘士をはじめ、多くの聖域に関わる者たちが、すでにサガを認めているらしい現状には、多少の安堵を覚えていた。それにはもちろん、女神の威光が大きく影響している。彼女が法であり、良心であり、正義なのである。そんな女神の目の前で、カノンに毒針を突き付けてみせた者もいるにはいたわけだが。 蘇ったのはサガが最初であったと聞いた時、カノンは同時に別のことも考えていた。最後に目覚めたカノンは、再生の経緯をすでに起こった事実として冷静に聞くことができる。だが、皆が還ってくるとは、今だから信じられることだ。自分一人が蘇ってしまい、他には誰も戻ってこなかったら? 次の一人が戻ってくるまでの時間、それは永遠にも長く感じられたのではないか。最後の一人が還ってくるまで、その痛みはなくなることはないだろう。いや、その痛みはいつまでもなくなることはないのかもしれない。 『シオンと、アイオロスの体は戻ってきていないだ。たぶん、死んでからだいぶ時間がたっているから……』 単純で素直な悲しみを表した星矢の言葉に、やはりそうかというそのこと自体への納得があったにもかかわらず、カノンが落胆を感じたのは、そういう理由であった。奇しくも、結果としてサガが命を奪った二人である。 ミロの言った通り、目覚めた翌日から教皇の間に顔を出すや否や、カノンは息つく暇もなく働かされることになった。それは、時には土木作業であったり、書類整理であったり、ついぞ聖闘士の頂点に位置する者たちのすることとは思われないことも多分に含んでいたが、それも人手不足の折、致し方のないことであった。カノンは、自分がそのように、戦士とは違った意味でめまぐるしい日々を過ごすことに、大きな違和感と滑稽さを、感じざるを得なかった。しかし、自分以上に戦士然としていたアイオリアが、聖衣が修復中であることを理由に、内勤、すなわち執務補佐と名の付く雑用に、眉間に皺を寄せながら格闘している姿を前にして、幾分慰められたものだった。カノンにも、纏う聖衣はない。 双児宮と教皇の間の往復と睡眠以外の時間は、大方拘束されて過ごした数日の後、カノンが帰路途中の天蠍宮を抜けようというところで、待ち構えていたようにその主が柱の影から現れた。姿を見かけるのは、覚醒の日の夜に教皇の間で見送って以来。聖衣を纏わない姿は初めてだ。 ミロはアイオリアと違い、五体満足(聖衣にその表現が適切かは分からないが)で黄金聖衣が残っていることもあり、聖域近郊の外回りの任に当たることが多かった。そのせいで、聖域内に閉じ込められていたカノンとは、ここ数日全くと言っていいほど接点がなかった。といっても、これはミロにだけ限ったことではない。というか、この数日の間、カノンが顔を合わせた者といえば、サガとアイオリアと、任務の報告に訪れたアフロディーテくらいなものだった。彼は自宮が近いせいか、ひょいと教皇の間に姿を現す。 「カノン、暇か」 天蠍宮の主は、唐突に切り出した。前触れなく言いだすのは、この男の癖のようだった。目覚めてこのかた缶詰で、予定を立てられようはずがない。カノンは思ったままを、答えてやった。 「ならば付き合え」 最初から断られるなどとは想定していない命令口調もまた、癖なのだろうとカノンは思った。 「何があるんだ?」 説明もなしに歩き始める後ろ姿に従いながらも、声をかける。聞くくらいの権利はあるだろう。 「来れば分かる」 これもまた、身も蓋もない。どうやらこの男は、言いたいことは相手の都合お構いなしにしゃべるくせに、必要を認めないことには随分と淡白な反応になるらしい。それがもとからなのか、たまたま今そういう気分なだけなのか、相手がカノンだからなのか、判断する材料をカノンはミロについて持っているわけではなかった。 長い癖毛を揺らしながら視線を上げて歩く後ろ姿は、聖衣を纏っていなくても、威風堂々たる風格がある。自分が黄金聖闘士だという誇りを、常に持ち続けてきた証拠だと、カノンは思う。 顔を合わすのは、例の時以来だというのに、カノンはさして動揺も高揚もしていない自分を認めていた。目の前を振り返ることもなく歩く男を、自分のものにしたいと感じたのは事実だ。が、それは降ってくるように湧き出でた感覚で、想いというより直感に近い。何故と問われれば、瞳の奥に揺れていた激情の紅と、来たるものを受け入れる晴れた大海の青に、それでいて漕ぎ出だす航海への覚悟を促す深き色に、胸をつかまれたからなのであろうが、その感情の理由や、向かう先があったわけではない。この高潔な赤い心臓を手に入れる、どこか崇高なもののように感じていた。 ほぼ無言のまま石段を下りきり、それでも歩みを止める気配が見えないので、カノンは再び疑問を口にする。 「どこに行くんだ?」 「アテネの市街だ」 ミロはやはり振り返りもせず、短く答えた。 先ほどから、カノンの問いには答えるものの、自分からは話そうとしない。それ以前に、こちらを見ようともしない。なんとなく、行き先と用事には察しがつき始めていたが、カノンはむしろこちらの方が気になった。 「ミロ」 「なんだ」 「何が気に入らないんだ?」 「……そんなことを言った覚えはないが」 「顔がそう言っているぞ」 答えず黙った態度は、それ以上会話を続けたくないという意思表示であろう。が、そんなあからさまな態度を察してひいてやるほど、気を遣わねばならない理由はない。世の中には、敢えて空気を読まないという戦法があることを知っておくべきだな。 そもそもカノンとて、こういう扱われ方をする謂れは、たぶんない。まあ、先だっての唐突とも取れる"告白"で厭われているのだと考えられなくもないのだが、あの時のミロの反応からして全く気にも留めていないようであったのだから、やや考えにくいだろう。 「俺に腹を立てているというのなら何か言えばいいだろう。黙って態度で示そうなどと、餓鬼のすることだぞ」 わざと意地の悪い言い方をしてやる。プライドの高いミロのことだ。挑発的な言い方の方が、反応を返してくるだろうという計算もあった。案の定、ミロは歩みを止めて、初めてカノンの方を向き直り、唸るように言った。 「お前に腹を立てているというわけではない。単に気分が乗らないだけだ……気に障ったのなら謝る」 すぐさまくるりと背を向けて歩みを再開する。態度は相変わらずではあったが、謝罪されるとは思わなかった。不意を突かれてしばし呆然とした後、予想外の素直さに笑いを堪えながらカノンは後に続いた。 あまり気乗りがしないというのは、事実だった。わざわざ聖域の外に出かけることも、カノンを伴っていくことも、こうやって会話をしなければならないことも、要は今の状況全てにである。だから、それを態度に隠そうともしないことで、せめて会話をする労くらいは省こうと思っていたのだが、無神経なのだかわざとだか、途中からしきりに話しかけてくる男に、ミロはうんざりしていた。 そもそもが、あまり聖域、更にいうならば天蠍宮から出たがらない質だった。付き合いで外に出ることは以前からよくあったし、若い男のことである、自分から遊びに出ることもたまにはあったのだが。しかし、蘇ってこのかた、どうも調子がでない、というかそういう気分にはなれなかった。聖戦時の振り切れた感情の極みの反動なのか、何故だか今は、感情が低いところで平坦に止まっているような気がした。といっても、別段珍しいことでもない、とミロ自身は思っていた。周りから言われるほど、始終荒ぶっているわけではない。そういう時があまりに極端で手が付けられないので、印象が独り歩きしているが、普段は――普段と言ってもいつが普段といえる平穏の状態だったのかは知れないが――、少なくとも城戸沙織が開催した銀河戦争などという余興に青銅聖闘士たちが参加し、しかも誅殺に赴いた白銀聖闘士が残らず返り討ちにあい、黄金聖闘士である自分のところまでお鉢が回ってくることになるより前は、まあ平静であったと言えよう。 断っておくが、必ずしもカノンが嫌いだというわけではないのだ、と誰に言い訳するでもなくミロは心の中で独りごちた。自ら必死に這い上がろうとする決意に、怒りは自然と治められていたにもかかわらず、最後までその覚悟に付き合うことを決めた男だ。先日、教皇の間で見かけた折にも、難しい面を下げているこの男に、思わず声をかけてしまった。サガとよく似たその顔は、それでもサガとは違っていて、だからこの双子が今は随分離れたところに立っているのだろうと感じられた。単なるミロの勘のようなものだったが、一度認めた人間が、そのこと自体どうすることもできないものに呻吟しているというのなら、他人が入り込める問題とは思っていない、ただ付き合ってやろうという気になった。 だから今、カノンと話すのがどうにも煩く感じられるのは、カノンに非があるわけではない。むしろ自分の問題だ。そう自覚していたから、殊更口をつぐんでいたという側面もある。あっさり謝ったのも、指摘されたばつの悪さを隠すためでもあった。 あまり認めたくないことなのだが、なんとなく引け目を感じているのだろう、と思う。おそらく相手はそんなこと思ってもいないのだろうが。なおさら余計に、自分が卑屈なようで口が裂けても言いたくない。 冥界でのカノンの奮闘は聞いている。星矢や瞬に喝を入れて覚悟を促したことも、氷河や紫龍を助けジュデッカへの道を開いたことも。そして双子座の黄金聖衣を自分たちの所へ送るために脱ぎ捨て、三巨頭の翼竜を道連れに果てたことも。 比べて自分はどうだ? 十分の一の力しか出せなかったとはいえ、むざむざと翼竜に敗れ、コキュートスで寝ていた。青銅たち、年若い彼らが、必死で女神を救おうとしているときに、だ。 ミロは確かにプライドの高い男ではあったが、一つのことに囚われて逡巡するような性格では、本来ない。ただ時間がありすぎるのだ。余計なことに脳の一部を割けるほどには。 多くのことが一度に起こりすぎて、自覚する以上に戸惑っているのかもしれなかった。自分の信じていたもの、礎となっていたものが覆り、仲間が死に、自らも戦場を走り、死んで、生き返る。怒涛の刻が過ぎて目が覚めてみれば、そこには向かうべき戦場はもうなく、初めて経験する平和というものが待っていた。二ヶ月足らずの間に、起こって、終わった。その間は、振り返る暇などなかった。立ち止まる暇もなかった。何かが進むような間さえなかった。皆がこの世に還ってくることで、何事も元通りに戻ったかに思えても、感じた悲しみや怒りやその他の感情はなくなるわけではない。しかし、再び始まった今、一緒くたになった事象は、そんな感情をもなかったことにしようとする。この混乱は、皮肉というのかどうかは分からないが、この二ヶ月を生き残った者たちの方が、おそらくより強い。かといって、その二ヶ月を共に歩めなかった者たちが幸福かというと、当然そうではない。流れた時間と変化は、時に取り返しのつかない絶対的変化となり得るからである。そのことに、死んだ者は干渉することは出来得ない。 そうだ、やはりこれは、戸惑っている、ということなのだろう。 「……着いたぞ」 おざなりに返していた会話を打ち切り、茫漠たる思考も断ち切って、ミロが指し示した先はアテネ市街のありふれた酒場だった。中に入った二人を見とめて手を上げてきたのは、なんとなくカノンが思い浮かべていた連中だった。 |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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