I belong to you第1章 ソキウス(2)店の奥、カウンターとその脇の丸テーブルに、彼らはいた。 「よくこうやってつるんでいるのか?」 空いている席に腰掛けながら、カノンは既に数杯は進めていると思われる同僚に問うた。 「そうでもねえよ。ま、たいてい人づきあいが悪いっつーか、マイペースな連中ばかりだしな」 デスマスクは、仕方がないとばかりに片手を振って見せた。 「ちなみに本日が過去最多参加人数だ」 いるのはたった今到着したカノンとミロを含めて五人。丸テーブルに席をとっているデスマスクとシュラ、脇のカウンター席で半身を彼らの方に向けて座っているアフロディーテが馴染みであろうことは、気の置けない様子からカノンにもすぐに察せられた。 「いつもの面子、というわけか」 「まあ、細かいことは気にするな。だいたいこうなったのはミロのせいだ」 大袈裟に溜息をついて、背後を親指で指し示す。 「何故俺のせいになる」 カウンターの端に席を取り、なにやら注文していたミロは、突然ふられて、しかも心外だといわんばかりの不機嫌な表情で振り返った。 「だいたいお前らは足並みわりいんだよ。アルデバランとかアイオリアとか……ムウとかどうしたんだよ」 ミロと同年代に当たる連中を指しているのだとは、デスマスクの口調から知れた。幼い時は、二、三の歳でもその差は大きい。聖域に来たばかりの黄金聖闘士候補たちが、今杯を交わしている彼らに邪険にされながらも、ちょろちょろ纏わりついている様を、カノンは見かけたことがあった。当時は日の光を放つ彼らを妬みこそすれ、さして興味も持っていなかったが。 「アルデバランは女神にお供して今は日本だ。アイオリアには声をかける隙がなかった」 「俺が出てきたときには、まだサガに捕まっていたな」 カノンは見て見ぬふりをしてそっと教皇の間を後にしたのを思い出した。 「居残りか。ここんとこずっとだな。だいたいあいつに文字が読めるのか?」 ひどい言われようだが、カノンが知る限りでも、日に日にアイオリアの額に入った縦線と、出来上がったものを見る時のサガの眉間の皺の数が増えていくのが、すべてを物語っていた。 「ムウは、お前が声をかけたのではなかったのか?」 カウンターでグラスの氷を鳴らしながら、面倒くさそうに続けるミロに、デスマスクは、あん、という顔をする。 「白羊宮は遠いのだ。お前の宮からの方が近いだろう」 「あいつに俺から声をかけられるか。つーか、かけてないのか!?」 「ムウは聖衣の修復で忙しいからな。結局来なかったろう」 フォローのつもりであろうシュラに、デスマスクは耳元で大声を上げる 「はなっから行かないつもりでも声かけられないと嫌って奴はいるんだよ! あいつは間違いなくそのクチだろ!? ていうか、ちゃんと全員に声かけたんだろうな!?」 デスマスクは、そういうところに気が回るやつなのか。しかも細かい。長らく聖域を離れていたカノンにとって、黄金聖闘士たちがこうして戦場以外で、しかも聖衣を纏わず揃っているのを見るのは新鮮なことだった。 「ムウはむしろ誘ってやるな。この短期間に三体の黄金聖衣を粉々のところから修復したのだ」 「なおさら息抜きってもんが、必要じゃねえか」 デスマスクはムウと飲みたいのか飲みたくないのか。淡々と表情を変えないシュラは、この悪友の扱いには大分馴れているのだろう。いつものことといった調子で、ミロの隣のカウンター席からアフロディーテは、楽しそうに眺めていた。 「獅子座にめどがつくまでは休みようもないだろう。早くしてやらんとアイオリアが暴れ出しそうだからな」 「なんで獅子座を先にしなかったんだよ? 机に向かってるなんざ、一番向いてなさそうじゃねえか」 「仕方あるまい。遠くに行くのに聖衣なしというわけにはいかんからな」 老師、シャカ、カミュの三人は、主に遠方の調査を任されたようだった。聖域外の地理に明るいということが主な理由であったが、そこにせめてもの女神の気遣いが感じられる。時には修行地に戻って、旧知を温めることもできよう。カミュを見送りに行っていたというミロの言葉に、漸くカノンは合点がいった。 「ムウもそのうち労ってやらねばなるまいな」 ミロと今は日本にいるアルデバランを含めた五人が、主に聖域周辺の警備と調査の任に当たっていた。 調子よく会話と酒が進む三人とは対照的に、ミロは杯は確実に進めるものの、たいして話に乗ってこようとはしない。もともとそういう飲み方を好むのかもしれないが、人といる時はもう少し積極的に振舞う男だろうと思っていたカノンとしては、意外な感じがした。 そういえば、教皇の間で見て以来、以前激しい程揺れ動いていた感情の起伏がほとんど感じられないように思われる。あの燃え立つような瞳に出会えないのはひどく残念だと、カノンは思った。 「今日は俺のためにわざわざ悪かったな」 気だるげに漂い出した空気を感じ取り、頃合いを見計らってカノンは席を立った。立ち際に、にやりと悪い笑顔をつくる。言葉ほど悪いとは思っていないし、顔程感謝していなくもない。 「俺の歓迎会なんてものをやってくれるとは、案外人がいいな」 「歓迎会じゃねーよ。快気祝いだ。皆のな」 「こいつの場合は単に理由をつけて飲みたかっただけだ。気にするな」 ったく自分でいうんじゃねーよ、とぶつくさ文句を垂れるデスマスクと、やはりすかさずフォローを入れるシュラに軽く手を上げて、店を後にする。 「俺も帰ろう」 「なんだミロ、このあと付き合わねーのか?」 「お前たちに付き合っていたら何時になるかわからん」 「二十歳にもなって門限でもあるって言うのかよ。餓鬼でもあるまい、ッ……」 飛んできた真紅のデコピンにデスマスクがのけぞる間に、ミロはさっさと背を向けて、カノンに並ぶ。 「行くぞ」 まるでカノンが待たせていたかのような言い草だ。来るときは仏頂面を通していた割に、一緒に帰るというのだから、たいして含むところがあるわけでもないらしい。そのことにカノンは多少ほっとした気分にもなる。 「ミロ、たまには外で息抜きでもするといい」 今まで黙って飲んでいたアフロディーテが、優雅な笑顔を向けて言う。酒場で飲んだ帰りにかけるにはあまりに場違いに感ぜられたそれに、ミロは答えなかった。 「カノンも。よろしくな」 これからよろしくということなのだと捉えて、ああ、と答えてから、ふとカノンは首を傾げる。 日が暮れて、とうに数刻たっていた。行きと異なり、帰りはひどく緩慢に、ゆっくりと歩いていた。ミロのペースに合わせて、カノンは少し離れて隣を歩く。目的にむけて一直線に進んでいくのに、目的がなくなればゆらゆらと揺らめくようだ。 「面白い組み合わせだな」 帰りもまた、カノンの方から一方的に声をかけた。 「お前は彼らと仲がいいのか」 ミロは、カノンの方は見ずに中空に視線を置いたまま答える。やや間延びした調子に聞こえるのは、外から見える以上に酒が入っているせいなのか、別のことを考えているのか。 「あの三人は、時々一緒にいたな。といっても、俺も良くは知らん。あいつらは始終出かけていたからな」 問いとは幾分ずれた答えを、ミロは返してきた。聖域が故郷のアイオリアはともかく、黄金聖闘士とて厳戒態勢でなければ常に十二宮にいるわけではない。しかしサガのことを知る彼らは、度々に何かを請け負って、内外を出入りしていたことは予想がついた。そしてミロのこの物言いは、翻せばミロ自身も、彼らがよく留守にしていることを知るくらいには、長い時間を聖域で過ごしていたことを物語る。 「女神が聖域に戻られてからだ。他の連中と絶えず顔を突き合わすようになったのは」 それは、敢えて口には出さないが、黄金聖闘士が半分に減ってからということだ。残された若者五人が一堂に会した時には、今さっきまで飲んでいた連中は、もういなかったのだ。 海底で聖域の惨状を聞いたカノンは、純粋にそれを好機と思うよりも、サガが選び、進み、自らの命に決着をつけた顛末に、暗く説明のつかない憤りを感じていた。それだけではない。サガ自身への得も言われぬ怒りはもとより、サガをその結末に駆り立てた聖域の闇、自分を生かしながらも殺してきた聖域、何もせぬ女神、運命そのものに対する深い慟哭と憎悪、それらがカノンを支配していた。 それを愛でもって洗い流したのは女神であり、断罪をもって救ったのはミロだった。 紅い閃光はまさに断罪の光だった。女神に許されたカノンの、許されるべきではないという思いを照らし、激痛をもって贖わせた。たとえ形式的なものでも、カノンには必要なことで、それで十分のはずだった。けれどミロは言葉を付して、カノンを呼んだ。わが同志、と。断罪すべきを断じながらも、それが贖い得るということ、そうして贖った今は認めるに足る人間だ。だから胸を張っていけ。そう言われた気がした。カノンのして欲しいこと、言って欲しいことは、たった十四発と一点で刻まれた。足に踏みしめる力が戻った。覚悟を負うことを許された。これがあったから迷いなく死にに行けた。冥界を駆け抜ける間、もはやカノンは、自分の使命以上のことは、考えなかった。 一歩間違えば、海底神殿で拳を交えることもあり得たことだった。ミロと初めて見えたのが、聖域ではなく海底であったなら、今の自分はなかったのかもしれない。カノンは遠く沈んだ海の神殿を想う。当時は考えも至らなかったが、黄金聖闘士とはいえ、弱冠二十歳の連中が、いきなり教皇も年長者も亡くし、覆った信念の中で、来るべき敵への責務を負わされた重圧はいかほどのものだったろうか。彼らが心に迷いなく絆を結べたのは、たった二ヶ月にも満たない。同じ黄道の座につきながら、語り合う機会は驚くほど少なかった。最初で、そして確かに最後だった一矢を放つ時が、初めて当代の十二人が絆した瞬間である。その時があってよかった、とカノンは思う。カノンもまた、双子座の黄金聖衣を通して、数時間だけサガと語らっていた気がする。それを纏う意味と、意思を。嘆きの壁を破壊するのに、黄金聖闘士十二人が集結する。サガに双子座の黄金聖衣を返す。他の選択肢などない、ごく自然なそれが、二十八年間自分を縛り続けた呪縛への答えだった。至極あっさりしたものだった。こんなものに縛られ囚われていたのかと思えるほど、世界を壊してさえも渇望したものを、簡単に手放せる。カノンにその心境をもたらす一翼を担ったのは、確かにミロなのだ。 同じこと、だったかもしれない。先程とは逆のことを、カノンは思った。たとえミロが海底神殿に乗り込んできてカノンと戦うことになっていたとしても、ともに生きていれば、聖域で同じようにカノンを断罪しただろう。よく知らないはずの男だが、それでも確信はあった。そういう男だと思う。 聖域までもう少しというところまで来ていた。市街を離れ、すでに民家はなく、数百数千年の歴史を持つ遺跡の果てに、我々の守るべき城はある。繁華街での喧騒と明るさが嘘のように、辺りはひっそりと静まり、夜空へと移りゆく闇の深さが星の輝きを強調している。 「お前に言っておかねばならんことがあった」 ミロが今何を考えているかは分からない。行くときには彼の背しか見えなかったが、今はぼんやりと虚空を見上げる横顔が見える。カノンの改まった様子に、ミロはゆっくりと視線を移す。 「口に出すべきことではないのかもしれないが……」 一瞬躊躇いはしたが、やはり言うべきことの気がした。 「聖戦で、女神の御前でのこと感謝している」 ミロへの感情は、そんな言葉だけで表せるものではなかったが。 「お前に同志と認められて、俺は迷いなく敵地に赴くことができた」 ミロはしばらくカノンの方を火の灯らない瞳で眺めた後、視線を戻して零すようにつぶやいた。 「俺はそんなつもりでスカーレットニードルを撃ったのではない」 生真面目な、予想通りの答えである。 「真央点をついたのも、お前が敵ではないと思ったからだ。それ以上の意味はない」 「だが俺は、それに救われた。あのことがなければ、その後迷いなく戦いきることはできなかっただろう」 「たとえそうだとしても、それは俺の意図したところではない。そう受け取ったのはお前で、それで心安らかに戦えたとしたら、それはお前自身の問題だ」 言いすぎると、自嘲的な言葉が続きそうで、ミロは曖昧な言い方に留める。カノンが自ら乗り越えたことは、カノン自身の強さによるものだ。その契機に自分が立ち会ったのだとしても、きっかけをつかんだのはカノン自身であり、自身がどう生きるかは自分自身の意志と決断によるもので、他者の介在を許すものではない、とミロは信じている。他人に対しても、無論自分にとっても。だから余計に自分自身の不甲斐なさに腹が立つ。どうしようもなかったと言えばそれまでなのだが、それを甘んじて受け入れられないでいることも事実だった。 自他への厳しさを含むその実直さを、カノンは好ましいものと思う。同時に、若いなとも思う。自分自身で決められることなど、世の大きなうねりを前にしては、ほんの僅かだということを、カノンは身をもって知っていた。一個の人間の無力さを嘆くことでもあったかもしれないが、今のカノンはそれを認めて受け入れることが、諦めとは違う、強さにも繋がるのだと分かっている。それを、漸く認められるようになった。 「お前は傲慢だな」 若さゆえの傲岸さは、真直ぐな性根ともども心地良いような、羨ましい気分にさせる。自然に出てきた言葉の選び方は、おそらく間違っていたのだが、カノン自身にミロを非難する意図は含まれていない。証拠に声音は、宥めるような柔らかさを含んでいた。 闇く沈み込もうとする思考を遮る、しかし予想外の言葉にミロが黙ったのは、諭すように続けられる声色のせいだった。 「すべてが自分の意を得た中に収まると思っているのは、傲慢なことだ。なんでも自分一人でできると思うな」 カノンのそれは、自分自身に言い聞かせるような言い方だった。かつての自分を思って言っているのかもしれない。しかし、自虐的な様子は見えなかった。ミロは聞いているのかいないのか知れない。じっと黙っていた。 「人が一人でできることなど僅かだ。自分の行いが、予想だにしないことを引き起こすことだってある。良くも、悪くもだ。世界は繋がっているぞ。投げられた小石は次の石を転がし、時には山を崩すこともある。小石だろうと、確かに世界の一部だ。お前がどうとも思っていないことでも、何かを大きく揺るがすことはあるぞ。それを、お前に否定することはできん」 いつのまにかカノンも、ミロに話しているのを忘れていた。 「もう少し、力を抜いてみろ。己の存在など、世界の前では小さなものだ」 逆もまた、然りだ。 途中からミロの方を向きもせずに、虚空の星に向けて言ったようでもあった。言い切る姿はどこか清々しさを掲げていて、夜空の下に長い髪をなびかせて歩く。黒い闇に溶け込むようでいて、凛とした輪郭を保ちながら、海を思い起こさせる色の瞳は、しっかりと前を見つめている。ミロの慣れ親しんだエーゲ海とは違う、光を湛える煌めく朝の海ではない、どこか荘厳とした畏怖の念を引き起こさせる夜の海の色だ。嵐の末に飾るものすべてを失し、その身一つとなった帆船は、それでも港に還ってきた。今また、二本の足で大地を踏みしめている。耐え偲ぶ強さを覚えた足だと思う。 カノンは、きっとそれほど他人の心の動きに敏感な方ではない。だから、ミロの何を思って言ったことでは、おそらくないのだろう。それでも、発せられた言葉には、明らかな意思があって、それは今のカノンを構成するものの一つなのだと予想される。確かな意図をもって発せられたものではなかったが、ミロは、ただ、ああそうか、と思った。 うんちくになぞ興味はなかったし、他人が勝手に見出した自分の価値などに意味を見出すことは到底出来そうにもない。だが意味があるかないか、決めるのは自分だけではない。ただそれだけだが、気が軽くなった気がした。だから、自分にも、そういうこともあるかと、納得してやることにした。 「カノン」 突然呼ばれて振り返る。いつの間にか、数歩の先を歩いていた。 「なんだ?」 「双子座のカノンだったな」 繰り返される。 「いきなりどうした。まさか名前を忘れたというんじゃないだろうな」 「いや」 立ち止まってカノンを見るミロの顔は、今度はしっかりとカノンの方を向いている。表情はやはり読めない。瞳に熱は籠っていない。ただ、ほんのわずかだけ、瞳孔の奥に光が宿ったような気がした。 「確認したまでだ」 いぶかしげな顔を作るカノンをよそに、ミロは一人で歩きだした。視界を遮る霧を払って、突然目の前に現れたこの男は、いったいどんな奴だったろうか。考えてみようとしても、あまり多くのことは知らないのだけれど、構わないかと思う。今の自分たちには、長い時間が敷かれている。ひどく物憂げに感じられたそれに、少し興味が出た。それだけだ。 |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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