第2章 臆病なライオン(1)


 それはもう、口癖のようなものだった。
 別段、答えが欲しいわけでも、自らに問いかけて答えを探るでもない。ただ、空に放り投げるだけの言葉である。初めは、それまで一日と置かず顔を合わせていた友が遠い地に旅立ち、交わす相手のいなくなった言葉を、まるでその場にいるかのように口に出してみた。口にすれば、そこに友がいるかのように思えたし、共に語らっているようにも感ぜられた。
 もともとは、口数の多い方であった。寡黙な友人が一つしゃべる間を持たせるには、十も二十も多くを連ねなければならなかった。数は少なかったが友の一言は重く、そして意志に満ちていて、時としてそれを覆すのは困難だった。しかも、それに至る経緯が省略されているものだから、本人としては論理的で理知的だと思っているようであったが、彼の語るさらに十のことを考えねば理解できないことがしばしばあった。ミロの読解力、ともいえる一種の才能は、生まれながらにというより、この友人との友情を育むにあたっての努力の結果である。
 生来、友好的で快活で、饒舌な外向きの性質をもっておりながら、齢を重ねるにつれて人との距離の取り方や微妙な心境の機微に敏くなったのは、むしろ強いられた結果といえるかもしれない。ついでに、もともとは器用に人付き合いをするにもかかわらず、結果大層割を食う不器用な結果になるのも、この友情を守らんとするがために身に付けてしまった損な性質であることも、付け加えておく。しかしながら、ミロ本人にも、その友人にも、そんな自覚もつもりもない。
「あいつは、いつも勝手に決めて、何も言わずに一人で行ってしまうんだ」
 カミュがシベリアへ行くと聞いたとき、しかもそれは発つ前日だったというのだから、珍しく友人の愚痴を薔薇の守り人にこぼした少年は――そう彼らもまたその時は少年と呼ぶにふさわしい年齢だった――、笑いながら彼の頭をはたいた青年の笑顔が、もう何年も同じように変わらない表情を張り付かせているのに、気づいていた。
 幼いころは、必死でその僅かな徴を探そうとした。正反対かと思える性質を有する二人が、どうして仲良くなったのか。はた目にはミロが一方的にしゃべってカミュは頷いているだけのように見えたのだが、どうやら通じ合っているらしい。癇の虫の強い子供だったミロが、その反対のカミュと友達になって、随分我慢を覚えたと、大人たちは喜んでいた。しかし実のところ、二人の間では、ミロが十我慢するのに対し、カミュは一も我慢しないということは、大人たちの知るところではなかった。もちろんそもそもの主張の多さが圧倒的にミロの方が多かったのだから、単純に比べられるものではなかったのだが。
「カミュは俺が何を考えているかなんて、気にすることなんかないんだ」
 お前がものを考えることなんてあるのか、と、悪いことを教えてくれる兄貴分は、すかさず返してきたけれど、彼だって巨蟹宮の奥に決して人を入れない。
 誰と話せばいいのだろう?
 カミュがシベリアに渡り、多かったミロの口数は、独り言にかわり、そしてそのうち確かに数も減っていった。誰に向けているのでも、自分に問いかけているのでもない、口にするだけの行為になっていったが、最後まで口癖だけは治らなかった。
 少年は青年になり、思春期におかれた環境は、本質はそのままに僅かばかりその性質を変えた。高い誇りは自我を守り、自らの使命の確固たる正当性に迷いを感じさせなかったが、同時に人との距離感を厳密にした。孤独というほどには一人でもなく、人好きのする生来の性質は孤高というほどの高さに押し上げこそしなかったが、上に在るべき者としての自尊心は、好んで他者と交わることも快しとはしなかった。決断すれば速く一直線に、否と知ればすぐに翻す潔さは、迷いや逡巡といったものとは無縁のように思われた。それらを支えていたのは、確かな矜持である。
 ぶれることはなかった。あの時までは。
 その時は突然訪れた。足をついている地が揺れているかと思えた。今まで立っていたものが、急に瓦礫となって瓦解し、崩れる錯覚にとらわれる。錯覚、ではない。真実、覆ったものは、自分の礎となり、支えられてきた信念、そのものだった。それでも、ミロが地に立つ足を踏ん張っていられたのは、皮肉なことに、その礎によって培われた矜持だけは、守るべき中身を失いがらんどうになりながらも、形を保ち残ったからである。
 友はおそらく、ミロよりももう少し前に、気づいていたのだろう。例によって、何も言わず、何の相談もなく、自分で決めて、一人で逝った。話していたら、何かが変わっていたか? おそらく、変わりはしなかっただろう。十二宮でミロが初めてその友の育てた聖闘士を前に、自身の信念を揺るがされた時には、カミュは数歩先の未来を見ていた。見る先の未来に、自分がいないかもしれないことも。
 呼びかけるべき友は、既にこの世にない。それでも、口をついて出ることに、変わりなかった。この六年間も、遠い彼の地の友に呼びかけているかのような口ぶりではあったものの、それはいつの間にか宛先を書かない手紙のようなものだったのだから。だから同じなのだ。呼びかけた友が、さらに遠く手の届かない地へ旅立ったというだけで。
「お前は、今度もまた一人で決めて、勝手に満足して逝ったのだな」
 今度は確かに友に向けて言ったはずの言葉も、発したそばから本当に友に向けたものなのか、やはり無意識に虚空に放ったものなのか、しんとした宝瓶宮で佇むミロには、分からなくなっていた。
 友を想う。友を、偲ぶ。
 離れていた時間は、共に過ごした期間と同じくらい長くなっていたが、不思議なことにカミュの気持ちは手に取るように分かった。死を覚悟していること、確信などない、しかし予感していたにもかかわらず、白鳥座の少年を行かせた。カミュの重んずるものを尊重する。たとえその先に友の死があったとしても。友として男として、そして同じ女神の聖闘士としての決断。それに悔いはない。今をもって、間違っていたとは思わない。カミュの気持ちは分かっていた。ミロがそれを認めたことも、カミュにはおそらく伝わっていた。言葉は交わさずとも、確かに分かり合っていた。これが、彼らの友情であった……はずだった。
 それなら、友情よりも強い絆を結ぶ感情とは何だ?
 友が命を懸けて導いた少年、導き手を自らの手で葬ることでしか、彼の道は拓かれなかった。そうまで克己的な関係を強いた、彼らの間にあったものは、何だったのだろうか。
 同じ人の死を悼む。しかし、分かち合うことはできないと、直感した。喪失がもたらした深さも、その性質も、違っていた。宝瓶宮に、やはり一人で佇み、静かに天井を見上げていた隻眼となった少年の目に涙はなかったけれど、痛々しいほど張りつめた決意の裏には、ちぎれんばかりの悲哀が隠されていることを、ミロは見逃さなかった。比べようもない。悲しみも痛みも、乗り越えて先へ進むために課せられた重さも。
 伸ばしかけた手は止めた。どんな言葉も温もりも、その氷の壁に阻まれて、届くことは叶わないだろう。
 俺とカミュの間には、何かがあっただろうか。
 あった、とは思うのだが何があったのかはもはや分からなくなっていた。何人の介在をも許さない、彼らの間にあるものに、気づいてからは。
 だからせめて。
 カミュの残した少年を導く。友の遺志を受け継ぐ者がいるのなら、友に代わって見守ろう。それが、たぶん、友情なのだ。
 同時に、自分を揺るがし翻させた少年の、かつて見せたその清廉な輝きと何物にも阻まれない力強さとは全く正反対とも思える、地に伏し嗚咽する危うさを含んだ潔癖さに、違う部分が揺さぶられてはいなかったかというと、定かではない。
 結局、どれにも名前はつかなかった。
 冥衣を纏って仮初の生に舞い戻った友の考えていることは、もう分からなかった。
 人生の大半を過ごした聖域、十二宮、天蠍宮。
 冥界で太陽の光となって、散った。それがミロの人生。


 満月の青白い光、再びの生へと還る時、初めて目に入ってきたものは、慣れ親しんだ太陽ではなかった。石の寝台の上、一人それに照らされていた。

「カミュ!!」
 無人であった宝瓶宮に、見知った小宇宙を感じて飛び込んでいった。何が起こったのか知るのは、その後だった。混乱もあったが、高揚もしていた。
 見た景色は、赤と金。
――良いな。
 何がだ? 咄嗟に出た感嘆にも似た感想を即座に自問する。
 そういえば、この二人が一緒にいるのを見るのは、実は初めてだったな、と頭の端でミロは思った。ざわついていた感情が、すみやかに収束していったのは、たぶん覚醒の興奮が青い光に照らされて、初めからその色に鎮められたことが関係するのだろう。青は人を落ち着かせるというから。ならば、この赤と金をみて、さらに鎮まり行くのはどういうことだろうな。誰もいなければ、きっと口に出していただろうが、口には出さずに、心の中で呟いた。その先は、その前は、考えるのをやめた。
「ミロ!」
 気づいた白鳥座の少年が走り寄って来る頃には、彼らに見せる年長者らしい自信に満ちた態度を繕っていた。遅れて、カミュが歩み寄ってきた。珍しく笑っている。そうか、先ほど良いなと思ったのは、カミュが笑っているのもあったのだ。あまり、見たことがない。昔から、笑わない奴だった。微笑みあっている光景は、仄かに憧憬の念を呼び起こした。
「久しいな」
「私にとっては、ついこの前のような気がするな」
 それがまさしく、生者と死者を分ける刻の感覚の差。ごく微妙な差は、しかし確かな差でもある。ミロは間違いなく、カミュが宝瓶宮で死を迎えた時のことを指して言ったのだが、カミュが思い浮かべたのはいつのことか知れない。確かに死した時かもしれないし、冥衣を纏って聖域に現れた時かもしれない。だが、どちらでも同じことだ。カミュにとっては、両者に時の差はない。
「大方の黄金聖闘士は、もう目覚めている」
 カミュはきれいな爪の細い指先を顎に当てて言った。思案する時の、カミュの癖だ。
「先ほど、ムウとアイオリアも目覚めたと報告があった。あとは、カノンくらいだな」
「そうか」
「目覚めて早々ムウには悪いが、聖衣の修復をしてもらわねばならない」
 ミロは首を傾げる。まだ、エリシオンでの経緯をすべて聞いているわけではなかった。
「聖戦が終わって、どれくらい経つのだ?」
「二十日、ほどになるか」

 考える間なく過ごしたのは最初の数日で、ほどなく時間ができた。目を開いた時に見えた月が綺麗だと思ったからか、自分でもよくわからなかったが、以来なんとなく、それまではあまり使っていなかった旧居住区も、ミロは使い続けていた。そこから月がよく見えることは以前より知っていたが、別段、眺めたいと思ったことはなかった。どちらかというと、天蠍宮の正面の階段から見える太陽の方が好きだった。明け方の眩さと、真上から降り注ぐ強い光と、沈みゆく夕の赤と、同じ星が違う色をみせる。天蠍宮の階段、ミロはまだ二十年と少しの人生の中で、長いこと此処に立って過ごした。此処が、自分の立つべき場所である、守るべき砦である。その意識を常に持ち続けていた。
 出立の途、ムウの不眠不休の修復作業で蘇った水瓶座の黄金聖衣を纏うカミュの姿を、ミロは懐かしさをもって眺めていた。
「お前まで付いて来たのか」
 カミュのこれは、別にミロを煩がってのことではない。思ったままを口にしているだけだ。それはミロにも分かっている。
「見送りくらいいいだろう」
 堪えた風もなく言葉を続ける。
「しばらくはシベリア暮らしか」
「シベリアばかりにいるわけではない。女神から下された任務もある。それに」
 カミュは口籠って、顎に指をあてた。
「この折だ。聖域を留守にし通しというわけにもいくまい」
「お前が聖域に留まっていたことなどあったか。何も変わらんだろう」
 口の端をあげて笑うミロの顔は、思いなしか活気がない。カミュは何か言いたげな表情をしたが、ミロは敢えてその考えを察しようとはしなかった。面倒、というのではない。結構気力と精神力がいるのだ、この友の考えていることを探るのは。と、いうことは、実は思いの外、気力が削がれているのかもしれない。とにかく、あまり考える気にならなかった。
 目の前の赤い髪の友人と、表情の乏しい金髪の少年。ミロから見れば、二人はよく似ている。想う気持ちはあるのに、通じ合っていなかった師弟の視線は、いつのまにか触れ合っているようだった。何かをきっかけに、急速に距離が縮まることがある。この師弟は、縮んだまさにその時に永遠に別たれた。それを経て今、分かち合うことを覚えたのだろう。
「ミロ、具合でも悪いのか」
「お前が俺の心配をしてくれるのか? 珍しいな」
 ミロは努めて軽快な口調をとる。思案気なカミュに気づかぬふりをして、ミロは隣の少年に向き直った。そうだ、普段ならここでもうしばらく待ってやるのだ。カミュが言い出すのを。
「氷河、君はどうするのだ?」
「一旦はカミュとシベリアに帰って、でも日本にも行くと思う」
「そうか」
 そっけない態度と殊更に遠いような気がする距離に、氷河は少しだけ戸惑いを覚えた。だが、それが実際におかしいものなのかどうか、よくわからない。ミロと話したことは海底神殿から戻って数度、数えるほどしかなかったのだが、常に自分を気にかけ、叱咤してくれた。その時はもう少し、近かったような気もするのだが、気のせいかもしれない。そうだ。カミュが死んでいる間、そんなこと、もう考えたくもなかったが、ミロにはとても世話になったのだ。
「あなたには世話になった。ちゃんと、礼が言えていなかった気がする」
 氷河は思ったままを口にした。途中が省略された言葉。やはり、この師弟はよく似ている。ふと笑ったミロは、直接それには答えなかった。
「あまり遅くなると乗り遅れるかもしれん。俺は構わんがな。お前たちは困るだろう」
 早く行け、と促すミロに、カミュは開きかけた口を閉ざした。

§  §  §

「カミュよ」
 瞑っていた目をゆっくりとあけて、満ちていく月光を瞳に映す。冷たい石の窓枠に腰を預け、一人グラスをかたむけて、その中に丸い影が映りこむのを漫然と眺めて、ミロは呟いた。多少酔いの回った思考は、まとまりを欠きながら、照らされるのが青い光だからだろうか、とても静かに沈んでいった。
「俺はいったいどうしたいのだろうな」
 誰にともなく言った。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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