第2章 臆病なライオン(2)


 一般に黄金聖闘士が守護する十二宮と呼ばれるものは、女神神殿へとつながる石段に連なる通り道にあたり、スタイロベートと複数の円柱に支えられた石造りの神殿様の建造物を指しているが、これは実際には奥まった複数の小室を有する建築物群の一角に過ぎない。各宮の微細な構造の違いは、古代に建設されて以来、数千年に及ぶ戦いの中、破壊と修復が繰り返され、幾人もの守護者により守り抜かれてきた歴史を物語っている。奥へと続く回廊の先には、やはり大きく切り落とされた石材によって固められた高い壁と、それをくりぬいただけの明かり取りの広い窓、中央にそえられた寝台、湯が通っているかどうか怪しい浴場。ひんやりした空気に覆われた空間は、かつては宮を守護する者が、ここで衣食住をおこなっていた名残であるが、時代の流れとともに形だけを残し、使われることは少なくなっていた。実際の生活は、外側からは一見隠れた裏手に位置する現代家屋――といっても通常のものよりはかなり旧式の雰囲気が漂うものであったが――で営まれていた。
 天蠍宮の守護者の気配が、居宅ではなく宮の奥から感ぜられることを、やや訝しく感じながら、カノンは奥へと歩を進めた。すでに夜更け近く、人家の明かりがない聖域は、闇に包まれている。回廊に灯された明かりと主の小宇宙を頼りに、薄暗い石畳を歩く。いくつか小室を超えた先で、漸く探し人を見つけたと同時に、啓けたかのような明るさに思わず目を伏せた。
「やっと来たか」
 子供の背丈ほどの高さに切り取られた窓の厚い石の縁に腰を掛けて、ミロは手にしていたグラスを脇に置いた。カノンが来ていることは、随分前から気がついていたらしい。自分で来いと言っておきながら、こんなところに引っ込んだまま迎えに顔も出さないあたり、いつもどことなく上から目線を貫くこの男らしい。
「月見酒か」
 大きな窓にぽっかりと浮かぶ満月をみて、ミロが夜半に来いと言った意味を理解した。室内に明かりはついていない。眩しさを感じるほどの光が、月から放たれていることに驚嘆の声が漏れる。
「なんだ。それは」
 どうやらそういう風流なもののつもりではなかったらしい。カノンに窓際に設置された横長の石机を指し示し、自分も窓枠から飛び降りて脇の椅子に座りなおす。カノンが隣に腰を下ろすか下ろさないかの内に、燭台と共にテーブルに置かれていたボトルを手に取り、ミロは空のグラスに酒を注いでよこした。一人でさっさと始めつつも、カノンの分のグラスを用意しているあたり、意外に準備がいい。一応待たれていたらしいということには、少し嬉しくもあった。
「日本の風習だ。あちらは確か秋のものだったがな」
「お前、変なことに詳しいな」
 素直に感心したように、月の光を映した青い瞳が丸くなる。
「お前よりも、興味の範囲が広いだけだ。まあ、多くはサガの影響だ」
 実際サガは、節操がないといえるくらいまで、貪欲に外のものを吸収したがった。それは語学から風習から、兎角雑多なものまで多岐にわたる。結果、カノンにもそれは強いられ、余分な知識が大分ついた。
「俺は確かに此処しか知らんな」
 多少の照れ隠しに滑った口に、カノンは失敗したと思った。暗にお前の世界が狭いのだと言われたと思ったのか、ミロはフンと目を細めて横を向く。が、目に入ってきた月にすぐに気をよくしたらしく、くるりと表情を戻して軽く口の端を上げて言った。
「此処しか知らんが、月を見るには此処だけで十分だろう」
 最初の"此処"というのがギリシャを指しているのか、聖域を指して言ったのかは知れなかったが、最後の"此処"は、間違いなくここ天蠍宮を指した言葉だ。窓から見える月を、まるで自分が捕らえたかのように得意げだ。この男は、自分の守護するこの宮へ並々ならぬ愛着、と言っていいのか、もはや自分の一部のように思っている節がある。自宮にあまり人を入れたがらなかったし、夜遊びはするものの外泊は好まないということは、ここのところミロに付き合っているうちに、カノンが知った傾向である。それに一見人付き合いが良いようで、その実飲むには自宮で一人が好きらしく、存外自分の領域に関する意識が強い。要はかなり厳密に内と外の区別をつけているようなのだ。
『おい、カノン、酒でも飲むか』
 だからミロの方から天蠍宮に誘ってきたのには、内心驚いたのだった。
 夜の方がいいな。遅くに来い。が、夜半になる前だ。勝手に話を進めて、では後でな、と言って別れたのが教皇の間での雑務から解放された夕刻のことだった。
 何を気に入られたのか、カノンにはいまいちよく分からないのだが、ミロにはたまに飲みに誘われるようになっていた。カノンにとって、ミロの誘いを断る理由はどこにもない。だいたい聖域に知り合いは多くない。任務やサガの出す山のような仕事以外は、予定などないのだ。
 おそらく。大きくは外れていないとカノンは踏んでいるのだが、カノンがミロにとって、あまり馴染みがない、というのが一つの理由なのではないかと思っていた。十三年間聖域にいなかったカノンは、当然その間のミロや、他の連中のことを知らない。ミロがなぜ旧知ではなく自分に声をかけるのか、詳細な理由までは分からなかったが、知らない方が気楽、というのも確かにあるのだと思う。自分だって、サガと飲むのは気が張るだろうしなと思ってから、自分たちの場合は少し事情が違うかと、カノンは思い直した。
 風習自体は知らなくても、やろうとしたことは月を見ながら酒を飲むことだったのだから、同じことである。しかし、風流というより、随分感傷的なことを思いつくなという印象の方がカノンには強かった。
「しかし、お前が人を呼ぶとは珍しいな。どういう風の吹き回しだ?」
 注がれた液体に口をつけて、カノンは隣の男に問うた。
「いつもは一人で飲んでいるのだろう」
 石作りの寝台に申し訳程度にかぶせられたシーツと、転がっている空の酒瓶から、どうやら酒を煽って転寝するのにでも使っているらしいことが見て取れた。カノンがそうであったように、ミロもまた目覚めを待つ間、ここに横たえられていたのだろう。その時使われていた跡のままに、リネンやらタオルやら、既に一ヶ月以上経過しているにもかかわらず、最低限の生活ができる程度のものは、備えてあるようだった。隣の小室から水が潅流する音が聞こえる。
 ミロは横目でちらりとカノンの方を見て、鼻を鳴らして言った。
「別に意味などない。強いて言えば、満月だからだ」
 手に持っていたグラスの中身を瞬く間に消して、微かに笑った口元で続ける。
「お前こそ帰ってもどうせ一人寂しく寝るだけだろう。可哀想だから月ぐらい見せてやってもいいかと思っただけだ」
 尊大な口ぶりではあるが、それが口実であることは、流石に分かる。が、わざわざ指摘するつもりはない。内か外か、ミロにとって自分がどれくらいの位置にいるのかは分からないが、少なくとも一人では飲みたくない時に声をかけられるくらいの近さにはいるらしいというところで、よしとする。
「聖域の住人に認められた気分はどうだ?」
 それ以上、話題を引きずりたくなかったのだろう。ミロは唐突に会話を跳ばした。何のことかと思ったが、どうやら先日の、カノンの歓迎会、元い、品定め会のことを言っているらしい。
「アフロディーテは、ああ見えてかなり難しい男だ。気に入られたみたいで良かったじゃないか」
 知っていたなら一枚噛むようなことをするなと言いかけて、やめた。あれを契機に、なんとなく一人部外者な感じが薄れてきたのは事実なのだ。
 少年時代を数年に渡り過ごした聖域ではあったが、誰にも見咎められることなく、自分として日の光の下歩けること自体、カノンにとっては初めてのことだった。かといって、聖域に戻って来てからカノン自身が疎外感を感じていたかというと、実はそうでもない。むしろ、部外者とみなされるのは当然だと思っていたからである。一歩引いて、眺めているような感覚でいた部分は確かにあった。
 だから、意味があったのは、カノンが彼らを知ったということよりも、彼らが、カノンを知ったことだ。
「まあ、大丈夫だろうとは思っていたがな」
 ミロからの距離がなんとなく近くなったように感じたのも、あの日以降ではあるのだが、ミロは聖域において、最初にカノンを認めた男である。人に対する気遣いのようなものは、もとからあったのだ。考えようによっては、取り持ってもらったと言えなくもない。本人がそのつもりかどうかは、別として。
 ただし、ミロのそれは、カノンに対して特別というわけではないということも、承知していた。感情の微細な動きに妙に敏感な一方で、時にあらゆるものを弾きとばす直線的な行動をとる。一見真逆のものを併せ持つ性質がどこで培われたものなのか、カノンは純粋に興味があった。
「以前にも思ったが、随分彼らのことを知っているようだな」
 カノンは、ミロの横顔に向けて探りを入れる。
「黄金聖闘士同士、平時にそれほど交流があったとも思えんが」
 含み笑いはそのままに、少しだけ口からグラスを離して離して、ミロは答える。
「話すことはここ数年ほとんどなかった」
 それにしては断言するじゃないか、とカノンが言う前に、続きが来た。
「幼い頃は構われもしたが。それに、あいつらはあまり聖域にいなかったと、前にも言ったろう」
 構ってもらったの間違いだろうと、先日の様子を見て思ったが、これはミロ特有の言い回しなのだろう。カノンにも大分、分かってきた。
「話しかけられたくも、なさそうだったしな」
 ぼそりと落とされた言葉に、思わずミロの方を見やると、背を反らせてくっくと笑っている姿があった。こいつはもしかしたら、笑い上戸の方向に酔っ払うのだろうか。低く底冷えするような声音だったにもかかわらず、次の瞬間何事もなかったかのように笑っている。いったいいつから飲んでいたのか、やけにペースが速いことが、カノンは少し気になった。
「お前はずっと聖域に留まっていたのか?」
 以前から感じていた疑問を、カノンは口に出してみた。必ずしも黄金聖闘士全員が、十二宮に始終いなければならないわけではなかったはずだ。にもかかわらず、口の端々から窺えることから察するに、ミロはほぼずっと聖域にいたのではないか。確信めいたそれの答えを聞いて、どうするつもりでもないのだが、ミロという男を知るには、必要なことの気がしていた。ミロはそんなカノンの意図には気づかず、そしてカノンにとっては、全く明後日の答えを返した。
「俺に弟子はいない」
 今の会話に弟子が関係するのか。唐突に出てきた単語に、はたと思考が止まる。前触れなくものを言い出す男だということは分かっていたが、カノンはしばしばそれについていき損ねる。別の会話に移ったのか、それともカノンの問いに繋がるものなのか、思案している間に、その答えは返ってきた。
「カミュと違って、他に行くところがあったわけではない」
 ああ、そういうことかと、その名を聞いてカノンは得心する。ミロが水瓶座のカミュと友人だということは聞いたことがある。カノンが目覚めるよりも前に任務に発ったカミュとは、聖戦時に女神神殿で顔を合わせたきりで、直接話したことはない。だが、つくづく他人の口から聞くことの多い名だと思った。カノンにとっては、ミロが特別であるのとは全く違う意味で、カミュも他の黄金聖闘士とは存在を異にする人物だ。海底にいた頃に、隻眼の少年がこぼした名前。カミュは長い時間をシベリアで過ごし、その間二人の弟子を育てた。結果、二人は戦士になった。白鳥座の聖闘士とクラーケンの海将軍。海闘士がこの世に還ってきたという話は、今のところ、無い。
 聖域にいた自分と、いなかった友。ここでカミュを思い浮かべることは、ミロにとって自然なことなのだろう。
「カミュは、無口な奴だった。そのくせ頑固でな」
 ミロは勝手に一人でしゃべりだした。やはり、酔っているのだろう。普段はこんなに相手の反応を見ずに話したりはしない。もともとは饒舌なのかもしれないが、一拍自分の中に留め置いてから口にする男だった。抑制が取れて生来の性質が出るということもあるが、それなら彼の本性は、怒っている時か酔っている時に出るのかもしれないと、カノンは思った。
「餓鬼の頃は俺の方がよく癇癪を起した」
 ミロは、空になったグラスの氷を鳴らして遊んでいる。
「あいつは俺が何で怒っているのかなど、分かりもしなかった。お前の方がおかしいと言われればそれまでだ」
 カノンが注いでやるのも待たずに、自分で杯を満たし手の先で玩ぶ。回すグラスの中で渦を巻く液体をじっと見ながら、呟いていた。
「譲るということを知らんのだ。怒るだけ無駄だと諦めるのに、大分時間がかかったな」
 少し、間が空く。
「人の気持ちというものを、まるで分かろうとしない奴だった。突然弟子をとると言い出して。前日だぞ? 信じられるか?」
 一つ一つは繋がっているようでいて、関連はない。何を、言いたいわけでもないのだろう。
「喧嘩した時も俺ばかりが喚いていた。カミュが喚くのを見たことがない」
 そしてふと、真顔に戻る。
「だがあいつは、欲しいものは絶対に渡さなかった」
 どこに向かっているのか分からない会話だった。他愛ない昔話のようでもある。このまま聞いていてやればいいのかもしれない。……ひとつ、気になるとすれば、何故過去のことのように話すのか、ということだ。カミュは生きている。確かに今は聖域を離れているかもしれないが、シベリアに居続けなければならない理由も、聖域に近寄りがたい何かがあるわけでもない。
 自覚は、たぶんないのだろう。親しい者の死をどうにか飲み込んで受容した者、できなかった者。死、そのものがなかったことになったら、その感情の行き先はどこなのだろうか。死んだのを受け入れられないことはある。蘇ったことを受け止めきれないことだって、あるかもしれない。その理由に、カノンは心当たりはない。だが、人の感情は時としてひどく複雑だ。そして平等に流れているはずの刻の差は、時としてひどく残酷だ。
「前には興味もなかったのだ、月なんぞ」
 ミロの独り言は、うつろう月のように流れていく。
「日の光が好きだ。当然だろう。俺は黄金聖闘士なのだからな」
 カノンは答えない。答えを求められてもいない。
「目を開けたらそこにいた」
 長く、長く黙ったのちに、こぼすように言った。
「どうしてこんなに気になるのだろうな、カミュよ」
 ぼんやりした目が、細かく揺れているのが、正面に捉える光の反射で知れる。酔って呼び間違えたか、と複雑なものを感じながらも流そうとしたが、そうではないと虚ろな目が告げていた。言った本人は無意識で、それは目の前にいるカノンに向けてでも、ミロよりもふた月ほど早く死に、数日先に生き返った友人に向けたものでもない。
 聖域で過ごした十三年間、天蠍宮を守る確固たる使命、蠍座の黄金聖闘士の誇り、感じていたかもしれない不穏な空気、不在の友、話すもののいなかった年月。皆、一連なりのことなのかもしれなかった。
 どれくらいの月日を、こうして過ごしてきたのだろう。少年から青年になりゆく時期に、聖域の生温く歪んだ空気は、どれほどこの健全な魂に無自覚な孤独を強いてきたのだろう。
 それは、カノンが今更口を出せることでも、どうこうできる立場でもないのかもしれない。だが、ミロの無意識が、酒の相手にカノンを選ぶのなら、何か言ってやるくらいのことはできるんじゃないだろうか。
「何が、欲しかったんだ?」
 昔話の続き。
「……もう忘れた」
 少し間を開けてから、同じ高さの声が返ってきた。
「今は。何が欲しいんだ?」
 なんとなく、尋ねたかったことは、朧げに隠した曖昧な言葉になった。
「特に欲しいものなどない。たいていのものは、望めば手に入るからな」
 自信家なミロらしい言い様だが、声に力はない。そうやって簡単に手に入ったものに、意味や執着を見出しているのだろうか。
「……それに。中途半端なものならいらん」
 しばらくしてから付け加えられた言葉の方に、おそらく本音が紛れていた。全部自分のものにしなければ気が済まない。極端で強烈な独占欲。それが成り立つことは、とても難しかったのではないだろうか。こと、この聖域では。
「随分、臆病なことを言うな」
 酔いが回ったミロの耳は、言葉自体は捉えながらも、含む意味まで掬いきれなかったのだろう。
「臆病? この俺がか?」
 口の端を歪めてから、からからと声を上げて可笑しそうに笑う。
 怒りもしないのか。
 しゃべりながら円柱の石椅子の上で、大きく弧を描くように上体をまわし、目測を誤ったのか、カノンの肩に背中をぶつけて一瞬よろめく。バランスを取り直しながらも、そのまま背中をカノンの方にもたせかけて、目を瞑り天井に顔を向けながら喉の奥で笑っている。大分酔いが回っているのだろうことはすぐに分かる。明らかに距離感がおかしい。だが、それだけではない。どことなく危なっかしい。このまま何処かへと転げ落ちるんじゃないかと不安になる危うさを感じる。
「望まなければ、何も手には入らないぞ」
 単に手に入らないと諦めているのか。欲しいかどうかが、分からないのか。それとも、何が欲しいのか分からないのか。分かる前に目まぐるしく迫ってきた現実は、その感情に名前を与える間を与えず、次の現実を連れてきた。宙に浮いたまま揺れている感情は、行き先もなく、後は落ちるのを待つだけだ。
「お前にそんなことを言われる筋合いはない」
 一拍遅れて言われた意味が届いたのか、寄りかかっていた背を離し、傾けた頭で振り向き様に不機嫌に口をとがらしたミロの言い分は、もっともでもある。
「だいたい何故そんなことを気にする? お前には関係のないことだろう」
 何故か。それは決まっている。突き詰めれば、こいつがこんなにらしくないことばかり言っていることに、なのだが。
「理由がいるのか?」
 ミロは青い視線をカノンによこして、確かめるように二、三度瞬きをした。
「何か勘違いしているのではないのか? 俺はお前の弟ではない」
 弟。その単語は、カノンにとって思いもよらないものであったが、理解し得るものでもある。ミロを弟だと思ったことはない。他の連中に対してもだ。とはいえ、確かにそういう面が全くなかっとは言いきれない。生まれてから今まで、弟であるということを意識しないでいられたことはなかった。自分が兄だったことは、一度もない。海底にいた頃や、まして以前聖域にいた頃、弟なんてものが欲しいと考えたことなどないし、いたとしても愛着をもって接していたかというと、有り得ないと思う。その頃のカノンと今のカノンでは、そういう感じ方から、おそらく微妙に違っている。聖域にいる連中は、ほとんどが自分より年若い連中だ。彼らを見る時のどことはなしの新鮮さと見守りたいような気持ちは、そこに繋がっていたのかと思えば、目が開かれる思いもした。
 それにしても。こいつは、よくもこちらが自ら認識してもいないことまで気づくものだと感心すらする。危うく納得もしかける。だが、ミロに関してはそれだけで片付けてしまえるものではない。というか、明らかに違う。
 カノンは、改めて自分の心中を鑑みる。
 これを自分のものにしたいという感覚。それがまぎれもなく、出口だった。遡ったその入口となる感情は、どこにあるのか。荒れ狂う激しさと静かで深い平静さと示す海の色をした瞳が見たい。ミロがいれば、常に視線の端に捉えている。気づけば探しているという自覚はある。いなくてもだ。飲みに誘われれば嬉しいし、揺れている様を見せられればどうにかしてやりたくもなる。ここにはいないカミュの話ばかりされるのは、別にどうとも思わないが、面白いかと言われれば、まあ面白くはない。何かしてやりたいと思う一方で、そんな様子には無性に苛立ちも感じる。だが何より、許されるならば、優しくしてやりたい気になっている。これに、名前を付けるとすれば――。
 当然、大層ありふれた結論に落ち着いた。
 何のことはない。複雑でも難しくもない、単純で明快で、子供がそれを望むように、とても直線的な感情に、赤面したくもなる。が、悪い心地はしない。当の本人に言われて今更自覚するなど、カノンにしては相当に鈍い部類に入るのだが、この場合仕方がないのかもしれない。ただ、出口だけが降ってきた。成り行きが成り行きだったために、高尚で次元の異なるもののように思っていた。しかし、得てして発端とするものはとても明快で。結果的には、最初から最後まで、まっすぐ一本に繋がる感情だ。連なる欲求もまた、明らかである。
 突然声を上げて笑い出したカノンを、ミロは不審な目で見やる。
「どうした? 気でもふれたか」
「確かに、弟ではないな」
 一周回ってようやく元に戻ってくるなんて、間抜けもいいところだ。
「お前のおかげで、俺はまた、知らなかったものを見付けたぞ」
 ミロの意味が分からないという顔をよそに、カノンは立ち上がる。
「理由がいるなら、今から教えてやる」
 分かってしまえば話は早い。俺が、嫌なのだ。こいつがこうしているのが。それは、とても独善的な理由には違いなかったが、理由を持つことは、人を行動へと突き動かす力にもなる。
 ミロの正面まで近づいたカノンは、月とミロの間に身を挟む。見下ろしたカノンの影が、座ったままのミロの上に落ちた。
 このままに、させておくわけにはいかない。
「いつまでもそうやってぐずっているつもりだ? 欲しいものは欲しいと言え。忘れているなら思い出せ」
 荒野のライオンが、獲物をとるのをやめたら、その先にあるのは、緩やかな死である。じわじわと身を蝕む飢えである。飢えと気付いた時には、もう獲物を捉える力はその身には残っていない。
「何を言っている。お前の言うことはよく分からん」
「お前は口で言っても分からなそうだからな。実力行使だ」
「は?」
 カノンを映す瞳には、不思議なものを見るような色が浮かんでいたが、それ以外の感情はない。
「お前を俺のものにしたいと、前に言ったはずだ」
 こいつが欲しい。すべて。それは精神的な意味でも、つまりは肉体的な意味でも。今さっき、自分でも判明した感情の行く先を、さも当然知っていたはずだと言わんばかりの言い方は、卑怯だとは思う。大概に独りよがりで強引なやり方であることも分かっていたし、自分の欲求を全く離れてのことだとは言い難い。
 欲求を感じれば手に入れたいのが本能で、それすら忘れているのは不健全だ。欲求のままに動くのは獣か子供でしかなく、それを制御し得るからこそ人間足り得るとも言える。しかし、人間とて動物である。欲求を満たしたいと思う渇望が、生命力となり原動力になる側面は、否定しきれないし、してはいけない。
 こいつには、望み、追いかけ、欲する事で生き生きとし、生命を溢れさせているのが似合っている。全く自分の中には無いものを、人は決して理解し得ない。ただこれこそ直感でしかないのだが、ミロは、カノンのいうところの欲求を、おそらく理解できる種類の人間だ。今は、眠っているだけで。だったら叩き起こしてやる。
 カノンの迫力に気圧されたのか、意図の読めない行動に戸惑ったのか、おそらくその両方なのだが、ミロが背後の退路に意識を向けたのが読めた。しかし、迷っている内は、カノンの敵ではない。動き出す気配を感じて、ミロは反射的に腰を浮かして後ろに引く、が、予測したよりもカノンの動きは速く、そして手加減がなかった。ミロが引くよりも長い距離を詰めて、結果、後ろの壁際に迫る。円柱の石椅子が鈍重な音を響かせて転がった。
「冗談はよせ」
 壁に追い詰められながらも、顔の両脇の壁に付いたカノンの腕を目だけで確認し、咎める調子でミロは言った。突然のカノンの変貌を量り兼ねていたが、自分の中で警笛が鳴っているのは確かだった。まずい感じはする。しかし、理由が分からない。
「俺は本気だ。最初からな」
――殴られる、酷薄に細められた目を認めて、咄嗟に身構えたミロの見当違いの動作を、カノンはあっさりとすり抜けた。深く口付けされるまで、ミロは何をされたか分かってはいなかっただろう。見開かれた目には驚愕の表情が浮かんでいた。
 遅れて理解してから、顔を背けて振りほどこうとするが、中に侵入した舌は執拗に口腔内を蹂躙し、呼吸すら絡め取ろうとする。押し戻そうとした腕も、関門となるべき歯列も、嫌がりはするが決定的な拒絶は下せないでいる。背を壁に遮られ、これ以上後ろに引けないミロの逃げ道は、おのずと左右に限られるのだが、カノンの両腕と体が作る影で閾された狭い範囲しか動くことを許されなかった。
「お、まえ。こんなところで」
 追い縋るカノンの口から辛うじて逃れたミロの声は、長い時間息がつげずいたせいか上ずっていた。ミロの言うこんなところとは、此処、すなわち自らが守り、もっとも自分に近い厳格な縄張りである天蠍宮であることは、察しがついていた。自らが守ると同時に、自らを守るはずの場所で、何故にこんなことになっているのか。身の内から伸ばされる手への信じ難さ。
 察しはついたが、カノンは敢えてその意は介さずに、揚げ足をとるような言葉を選んだ。直前まで押し付けていた体を壁から引きはがし、失ったバランスと遠心力を利用して、寝台に叩きつける。シーツで覆われているとはいえ、造りは石でできている。投げ飛ばした勢いで掴んでいたシャツが千切れ、数個のボタンが床に弾けた。かなり乱暴になったが、相手は黄金聖闘士だ。躊躇っているうちに抑え込んで、反撃する余地は与えない。後頭部を打ちつけて呻いている間に、下肢に乗り上げて体重をかけ、抵抗を奪ってから、真上より声を落とす。
「壁が嫌ならベッドにしてやったぞ。これで満足か?」
 わざと挑発するように言った。かっと怒りが閃くのが見えた。
「舐めてるのか!?」
 カノンの横面めがけて飛んできた右手をカノンは身を引いて避けるが、拳圧が頬をかすめて薄く血を滴らせた。しかし、はっと怯んだのはミロの方で、空を切った拳はつかみ取られ、シーツの上に引き下ろされた。何に戸惑ったのか、カノンには分かる。この期に及んで、自分に害をなそうという相手に対して――カノン自身にそのつもりはないのだが、つもりがあろうとなかろうと、行為そのものはミロにとってはまぎれもなくその範疇に入るだろう――、傷つけるのを躊躇うのは、冷静にみれば愚か、としか言いようがない。が、この男の中では、自分の中に入れた相手を信ずるのは、当然の行為なのだろう。本気で拒んだら、カノンに悪いとでも思っているのだろうか。無意識のそれに、カノンは少し胸が痛む、がやめるつもりも、ないのである。ミロとて、意識の上での判断ではない。繋ぎとめられた腕に目を向けたのは一瞬で、捕らわれていない方の手でカノンの胸ぐらを掴み、引き寄せる。鼻先が触れ合うくらいの距離で顔ごとカノンの眼前に滑り込んで来た目は、きつく顰められた眉の下で、強烈な光を放ってカノンを睨みつけてきた。
 こういう目をしているのがいい。
 自分に向けられた、とても好意的とはいえない視線を受けて、しかしカノンは思った。
 この男には、この目が似合っている。真っ直ぐに、曲がることなく射し入る、強い瞳をしているといい。
 間近で交錯する視線の質は、驚くほど違っていたが、ミロの燃えた焔に見据えられたカノンの瞳も、決して逸らされることはなかった。押し隠しているわけでもない、なのに何を語るでもない、激しさはない代わりに、何をもっても翻らない、強固な意思に裏付けられている。見下ろされる碧い視線は、一見あらゆる抵抗も受け付けない非情さを感じさせるようでもあるのだが、それでいてミロへの敵意は微塵も浮かんでいない。自分が向けたはっきりと攻撃的な視線を受けるには、あまりにそぐわない。何を意味するのか分からない視線にぶつかって、ミロは刹那確かに困惑した。だから睨めつけていた目を一瞬だけ瞬かせて、次にぶつかった視線が、直前のものと大きく様変わりしたのを認めて、睨みつけるのを忘れて大きく目を見開いた。
 形も色もほとんど変わらないそれ、なのに込められた感情を、打って変って雄弁に伝えてきて。間違いようもない、注がれる視線に湛えられるのは、熱情と劣情。そしておそらく、愛おしげに狂おしく浮かぶ奥に潜むのは、恋情。
「好きだ」
 単純明快で、この上ない理由。

^

拍手
Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
ねむたい宇宙 http://sleepycosmos.halfmoon.jp/