第3章 エメラルド・シティ(1)


「逃げたな」
 カノンが天蠍宮を訪れた際、すでに宮はもぬけのからだった。
 分かりやす過ぎる逃走は、むしろ潔い。呆れるよりも、半ば感心するような心持ちで、カノンは不在の尋ね人の守護する宮に立っていた。
 集めた情報を総合するに、この宮の主は、件の日の翌朝には女神のお供として、本来護衛の予定であったアイオリアの代わりに日本へ渡ったらしい。女神の護衛の任が、そんなに行き当たりばったりで変わるような緩いものでいいのかという気もするが、同じ黄金聖闘士であれば実質的にはさして違いもなく、今は有事ではない。そもそも誰が行くのか決めるのも、仲間内で話し合いという名の駆け引きが始まり、結果大抵は生真面目なアイオリアやアルデバランあたりが引き受けることが多かった。そういったことに人一倍うるさそうなサガが、黙認を決めているのには訳がある。聖域に残っている面子を考えてみれば、理由はおのずと見えてくるだろう。黄金聖衣の修復は無事に終わったとはいえ、壊れた聖衣はそれだけには留まらない。相変わらず他者の代替を許さないムウや教皇代理のサガ、正式に聖衣のないカノンは除くとして、融通が利くのはアルデバラン、デスマスク、アイオリア、ミロ、シュラ、アフロディーテである。具体的に考えると、平等に女神の護衛の任を指名するには、やや気まずいメンバーが若干名いるのは事実で、だからといって敢えて毎回外すのも、かえって不審を増長する。他の任務をタイミングよく請け負ってひらりひらりと上手くかわしていくのには限界があり、上からの命令となってしまえば、逆らうことはできない。本人たち同士の話し合いの余地を残してあるのは、そのためである。とはいえ、身に覚えのあるカノンからすれば、蟹座の黄金聖闘士やその悪友どもの気まずさは、わだかまりというより今となっては照れ隠しに近いものなのであって、女神の聖闘士である以上いつまでも避けて通れるものでもない。それこそ、原因の一端を担ったサガ本人が、どこかでガツンと打ち砕き、背中を押してやらねばならないことだとは、思うのであった。
 しかしそんなわだかまりなど当然なく、女神への忠誠心は誰にも引けを取らないくらい篤いミロが、この件に関しては然程積極性を見せないのは何故かと言えば、ひとえに聖域をあまり離れたがらない性質のせいである。
 アイオリアが任につくため女神神殿へ向かう途中で、何故か既に黄金聖衣を身に纏っていたミロに捕まり、頼まれて交代することになったとは表向きの言いようで、実際のところは、鬼の形相で有無を言わさぬ勢いに、思わず頷くしかなかったということらしい。嬉々として階段を上っていく後ろ姿を見送りながら、先日決める際には興味なさそうに敢えて口を挟んでこなかったではないかという考えが頭をよぎったが、理由を考えるのはええい面倒になって、獅子宮に引き返したのだそうだ。教皇の間でミロを見たときの、サガの訝しげな顔がありありと思い浮かぶ。
 それにしても、背を向けて逃げ出すなんてことを、あの男がよくやる。そうまでして俺と顔を合わせたくなかったかと、苦笑いが滲むが、カノンの心境はさほど波立ってはいない。ぼんやりうつろっているよりは、ずっと良い兆しなのだ、あの一直線な男にとっては。
 行動の速さと手段の強引さには舌を巻くが、それにしても海の向こうとは随分遠くまで逃げたものだ。
「少女と共に西の地に旅に出る、か」
 カノンは天蠍宮の正面階段を下りながら、一人呟いていた。自然、口元が緩む。
「探しものが見つかるといいな、ミロ」
 口に出して言ってから、日本は東の島国だったなと、心の中で訂正する。ふいに目をやった太陽の、東の空から注ぐきらきらとした朝の光の眩しさに、そっと目を細めた。

§  §  §

 暇だ――――。
 城戸邸の客室で、ソファにだらしなく背をもたせ掛け、読むつもりもない本を顔の上にのせてミロはひっくり返っていた。
 狭い日本のものとは思えない広い客室には、ブロンズガラスをはめ込んだグラフテッドウォールナットとマホガニー製の上品なカクテルテーブルを中央に、光沢のある緑色の生地に大柄の花の模様をあしらったソファと、同柄のウィングチェアが置かれていた。十分な幅のあるソファは、体格の大きいミロが手足を伸ばして寝そべっても、優に余裕がある。壁に飾られた絵画が誰のものなのか、ミロには分からなかったが、おそらく著名なものなのだろう。繊細なガラス細工の技巧が凝らされた背の高いスタンドや、バルコニーに続く広いガラス窓を縁取るレースのカーテンなども、そういったことに疎い聖闘士にも、趣味の良い高価なものだと分かる。そして何よりも目を引くのは、絵画が飾られた方とは逆側の壁を覆う重厚な書棚で、誰が読むのだか知れない、おそらく観賞用と思われる分厚い本がずらりと並んでいる様は、壮観であった。普通なら居心地悪くもなりそうなところだが、意外に豪胆というか、無頓着なところのあるミロは、似つかわしくない豪華な部屋に通されても、物怖じせずに自由に寛いでいた。結果、装丁麗しい本をアイマスク代わりに、適度な弾力のある心地よいソファに身を横たえたあげく、こともあろうか靴のまま長い脚をブロンズガラスの上に投げ出しているというわけだった。
 アイオリアから強奪した任務で日本まで来たはいいが、道中何が起こるわけもなく、日本では女神のお気に入りである青銅らやグラード財団の黒服とかいう聖闘士より怪しげなのではないかと思う者たちに役目を奪われ、ミロは早々に暇を出されていた。悪しき神々の滅んだ、平和な、そしてある種独特の文化のある日本では、黄金聖衣は目立ちすぎる以上に特殊な層に喜ばれすぎるという理由だったが、「目立つ護衛よりも、護衛していないと見せかけて敵をあぶりだすという方法もあるのです」との女神のお言葉はいったい何を敵としているのか、ミロにはさっぱり分からない。きっと深いお考えがあってのことだろう、と思うことで決着した。こぞって女神には滅法弱い黄金聖闘士、ミロもその例外ではない。一応黄金聖衣を纏わなければと食い下がってはみたものの、身長百八十センチメートルを越えた長髪美形の外国人、金色に光っていなくても大変目立つ。ここでアイオリアあたりなら、女神の意図を全く読まない悪意なき正論で、無理やり任務を全うするところなのだろうが、ミロはそこまで任務に忠実ではない。というと語弊がありそうだが、力を抜くところと入れるところは存外弁えている。ただしその物差しは自分が基準になっているので、納得しない時、頭に血がのぼっている時には特に、相手が教皇だろうが女神だろうが、全く言うことを聞かないので、アイオリアとは違った意味で、上司としては頭が痛い。ともかく、今回に関しては、ミロは別段強い拘りがあるわけではなかったので、ゆっくり羽を休めてくださいね、というお優しい女神のお言葉に甘えて、お役御免となったのである。
 帰国の予定は二週間後。その間女神のお供も許されずにとぐろを巻いているくらいなら、一旦聖域に帰りたいと普段のミロなら思うのだが、今回はあまり聖域にいたくない事情がある。なにせ元凶は聖域にあり。日本へは立派な女神の護衛という任務でやって来たのだから、無事女神を聖域にお連れするまで帰れようはずもないのだ、ともっともな理由でミロは自分を納得させてはみたものの、言い知れぬ怒りはふつふつと湧き起こってくる。だいたいに、だ。向こうが気に病むならまだしも、俺が奴を避けねばならん理由などないはずだ。なのに、何故に俺の自由が害されねばならぬのだ、とミロはそれすら腹立たしく思えて一人で歯噛みする。
 いったい、何を好き好んでそういうことになったのか。向けられた感情が、愛情とか好意とか、言葉にすればそう分類されるものだということは、まあおそらくは、たぶんそうなのだろうと、分かる。だが、圧倒的な質量をもった熱量は、まともに向き合おうとすると、その圧迫感に飲み込まれ息ができなくなる程で、甘酸っぱい恋だとか、胸が苦しいとか、小娘のままごとのようなことを言うつもりは端からないが、そんな可愛げのあるものとは全く違う。油断すれば奪い取られる、暴力的ともいえるほどの激流。全力で相対しても持ちこたえられるか分からない激しさを感じるのに、そのくせ、妙にひたむきなものがちらりとだけ閃くから、突き放してやろうと身構えた牙の行き場を失って、どうしていいか分からなくさせる。と、すると、悪いのは俺か? いや、断じて違うだろう。全てあいつのせいだ。ずかずかと人の領分に入り込んできて、好き放題やっていって、あまつさえ……。うっかり思い出しそうになってミロは全力で否定する。犬に噛まれたと思って忘れてしまえ。犬に噛まれること自体大変不名誉だが、この際百歩譲って致し方ないということにしておく。犬は犬でも黄金最強といわれた神の化身の弟で、自らも神を誑かそうとしたとんでもない犬なのだ。
 たとえ好意的な感情からくるものでも、無理やりにしていいはずもないのだが、自分が犯されたということは、不思議とミロの心に痕を残していなかった。それよりも、行為の間中、全身の触覚と聴覚と、なんだか名前の付けられない何かの感覚を通して降り注がれる熱情にわけが分からなくなって、その事実自体は影が薄くなってしまったというのが正しい。ついでにカノン自身への嫌悪感や行為自体への不快感は、実のところあまり感じていないということには、とりあえず気づいていないことにしておいた。
 やめだ。
 本を被ったままミロは首を振った。わざわざ日本まで来て、せっかく考えまいとしていたことに囚われていては意味がない。それもこれも暇なのがいけないのだ、アイオリアめ、と理不尽な怒りをギリシャの同僚に向けて一人呻いていると、上から涼しげな声がかかった。
「あなたでもそうやって暇を持て余すことがあるのか」
「暇ではない。本を読んでいるのだ」
 顔に被った本で顔は見えないが、背後で扉が開くのと、近づいてくる気配は小宇宙で分かった。
「とても読んでいるようには見えないけどな」
 不思議そうに首を傾げる様を、ずらした本の隙間からミロはちらりと見る。緩やかにウェーブのかかった金髪が顔の上で揺れている。――手が届く距離で。
「だってこれギリシャ語でも英語でもないじゃないか。読めるのか?」
 ミロが被っていた本を持ち上げ、氷河は純粋な疑問を口にする。
「ドイツ語だ。俺だって少しは読めるぞ」
 行儀悪くテーブルの上に伸ばしていた脚を床に下ろしながらも、鷹揚にソファに身を投げた体勢のまま、ミロは覗き込んでくる逆さまの顔を見上げた。
「何が書いてあるんだ?」
「…………読んでいる途中だ」
 むくりと起き上がった勢いで分厚い本を取り返し、憮然と答える。その様子がちょっと可笑しかったのか、氷河は声をあげて笑った。
 こんな笑顔は珍しいのではないだろうか。固く口を結び遥か先を見つめる顔ばかりが、覚えのあるミロには、そう思える。
「君こそどうした? シベリアではなかったのか」
 瞑っていると目立つのだなとは、一方の瞼の上に残る薄い傷跡を見て思う、ミロの感懐である。傷の理由は以前に聞いた。海底神殿から戻ってきた後に。
「カミュが調査で遠方に回るというので、俺もシベリアから出てきたんだ。お嬢さんの手伝いもしないといけないし」
 確かに女神の本拠地としては、聖域と肩を並べるくらいに日本の重要度は高い。聖域を黄金聖闘士が固める以上、数々の戦いを潜り抜けてきた氷河たち青銅聖闘士に日本で求められる役割は大きい。それにしても、カミュがシベリアを離れるから、という前提がつくのが、実に氷河らしい。
「手伝いというのなら、こんなところで油を売っていていいのか? 女神は今日、お出かけになるのだろう」
 早くも切り上げようとするかのようなミロの言い草に、氷河は表情を戻した。しかし、もともと口達者な方ではない。感じた違和感を表す言葉が見当たらなくて、ただ返事をするに留まった。
「お譲さんには、もう星矢と瞬が付いていった。俺は留守番だ」
「なら、他の青銅どもはどうした」
「紫龍は五老峰で、一輝はいつの間にかいない」
 暗にそちらへ行けと言われている気もしたが、やはり気のせいかもしれない。単純に問いと答えだけの会話が途切れ、すぐに沈黙が訪れた。感じる居心地の悪さは何だろうか。以前ミロといた時に、同じような居心地の悪さを感じた記憶が、氷河にはなかった。正体はわからないままだが、そのあたりのことを突き詰めようとしないのは、氷河の良いところでもあり、鈍感な所以でもある。要するに、あまり気にせず、赴いた理由を口にする。
「あなたが暇そうにしていたから。せっかく来たんだ。少しは日本を見て回ればいい」
 一呼吸おいて、付け加えた。
「俺が案内しよう」
 やはり、しばらくの間を置いたのち、ミロはおどけたように言う。
「なんだ。君が暇だったんじゃないか。他の青銅たちにあぶれて拗ねていたのか」
 氷河が反論を口にするより前に、ミロは続けた。
「俺はこれでも任務だからな。君の心遣いは有難いが、女神のお許しなしに持ち場を離れるわけにはいかん」
 聖戦でのミロの言動を知っていれば、突っ込みどころは満載なのであるが、生憎と氷河はそのことを知らない。案の定、口籠る。うつむき加減に、そうか、とだけ言った。
 金色だな。今は一色だ。
 傷跡と瞳を揺れる前髪が隠すのを、ミロは我知らず眺めていた。自分の言う言葉なぞはうわべを滑って言った傍から忘れていったが、目に入ってきた色からは目が離せない。眩く、そして痛い。
 一色だと、また印象が違うのだな。
 何と比べているのかは、分かっていた。
 はたと、アイスブルーの瞳がこちらを向いた。僅かに逸らしてそれを避ける。
「確かに俺も暇だというのはあるのだけど」
 まっすぐ向けられる視線も少し痛く、眩しい。
「それだけが、あなたを誘おうと思った理由じゃない。あなたは我が師の大切な友人だ。それに俺も、随分と世話になった」
 少し照れたのか、すぐに氷河は視線をずらした。そもそも彼はあまり人の目を見ない。水色の光が陰ったことでそれを認めてから、ミロはゆらりとその瞳に目を移した。
 カミュが命を賭して導いた命。届かない位置に立ち止った理由。友と少年の間にあるものを、俺は知らない。
「……女神には多少の自由は許されている」
 一つ、前置きをしてからミロは言った。言葉を選ぶ。
「日本には馴染みがない。君が案内してくれるというのなら、悪くはないな」
 顔をぱっと綻ばせて、じゃあ準備をしてこよう、と翻った薄い金髪が扉の向こうに消えるのを眺める。ミロは手に携えていたままだった本を静かにテーブルの上に置き、ゆっくりと立ち上がった。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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