I belong to you第3章 エメラルド・シティ(2)「で、日本を案内してくれるのではなかったのか」 「ここも立派な日本だろ」 氷河は、隣で長い脚を窮屈そうに折り曲げて、子供向けのブランコを揺らしている青年をちらりと見た。自分でもエスコート、にしては大分スマートでない様々な手順が分かるので、語気は弱い。頑張って試みた反論にも、中央のグラウンドでボールを蹴っている少年らを目で追っているのか、薄い反応しか返してこないミロに、ほっとしたような、少し物足りないような心持ちがしていた。 任せてくれ、と城戸邸から自信満々に連れ出したはいいが、今日はあいにく休日、時間帯は昼。行く先々で満員だの、満席だのではじき出され、流れ流れて結局街角の公園に辿り着いていた。都市の中においては珍しく、広い砂のグラウンドを有したその公園には、滑り台やシーソー、他にも小規模なアスレチックのような遊具が備わっており、幼稚園から小学生の子らの格好の遊び場となっているらしい。昼食を終えて表に遊びに出て来た子供たちの集団には、自分たちの縄張りの真ん中にぽつねんと二人、毛色の違う珍しい侵入者として、遠巻きに眺められることになった。しかし、警戒心より好奇心が勝るのも、順応力に優れるのも、そして遠慮がないのも、どの人種にも共通な子供の特性だ。注目されることを苦手とする氷河に対し、ミロは存外子供は嫌いではないらしい。一人、また一人と恐る恐る近づいて来たところへ、ついにはにやりと笑みをうかべて、ではこのミロが相手をしてやろう、覚悟するがいい、という本人にとっては素なのだが、すっかり劇場型のアクションが、大いに子供らには受けた。一人を肩にのせてぶん回してやれば、我も我もといつのまにかじゃれつかれ、大歓びの子供たちから解放されたのは、彼らがおやつに呼ばれ散っていった後だった。そして今、木陰のブランコで揺られている。 ギリシャから来た客人を――女神のお供なのだから正確な意味で客人ではないのだが――、散々真っ昼間の日差しのもと歩き回らせてこれでは、立つ瀬がない。もう一度横を振り仰ぐと、相変わらずミロは遠くに視線を投げたままだった。黄金聖衣を纏っていると、あんなにも気高く遠い人のような感じがするのに、だらりと力を抜いてブランコにぶら下っている様は、少し年上なだけの、兄貴のような身近な人にも感じられる。常に"師"であり、姿勢を崩さないカミュとは違う。だらしなくソファに寝そべっている様も、意外に子供好きなところも初めて見た。いつも気を緩めない威丈高な人だと思っていた。こんなところのある人なんだという感想は、実はふさわしくないのだと、氷河は気づいていない。氷河がミロと接したことは、そう多くないはずだからだ。なのに知っている気になっていた。何故か。 「連れまわしてしまって、すまない」 呟いた氷河に、おや、とミロは見るともなく眺めていた風景から視線を戻した。氷河はいつになく神妙な顔をしている。 「もっと楽しんでもらいたかったのだけれど」 それに対して、ミロは軽く笑って言う。 「俺は十分楽しんでいるぞ」 でも、と言い募る氷河を遮って、ミロは更に続けた。 「君にとってはありふれたものでも、俺にとっては十分珍しい」 返ってきた言葉が本心からなのか、単に表向きのものなのか、氷河自身に分かる術はない。十分楽しめたわけ、ないと思う。どこに行ってもミロは大変目立ったし、うっかり声をかけられてもいたが、ミロは悪戯っぽいような曖昧な笑顔で答えていた。これでは気も休まらないだろうと、氷河は人目の多いところを歩かせてしまった迂闊さを悔やみ、雑踏を避けて辿り着いたのが、結局ここだ。残念ながら、ここでもちびっこたちに捕まったわけなのだが。それでも、楽しいと言ってもらえれば、多少ともよかったのかと思える。氷河がかなり本気で凹みそうになっているのを慮ってか、意地悪なからかいをかけてきてもよさそうなところで、そうは言わない。こういうことに関して大分鈍い氷河にも、流石に分かるというものだ。今までだってそうだった。一見突き放すようでいて、そこにはいつも諭すような気遣いがあった。天蠍宮でも、海底から帰った後の宝瓶宮でも。 なおも俯いて眉根を寄せている横顔を、ミロは一瞥した。氷河がこちらの視線に気づいていないのは、分かっていた。正確には、違う。氷河がミロを見ていないときだけ、視線を向けているのだ。だから視線が合わない。 ギリシャと違って、四季のある日本、新緑の季節から初夏へと移り変わろうとする気候は、暑いというより心地よい爽やかな風を吹かせている。聖域とは違う風景に、新鮮な予感を感じたのは、嘘ではなかった。ブランコに揺られて、他愛ない日常を目に入れながら、ミロは別のことを考えていたが、氷河のことを忘れていたわけではなかった。正確には、氷河といるからこそ、違うことへ意識を飛ばしていた。 その痛々しさを目の当たりにして、伸ばしかけた手で、触れることは躊躇われた。カミュが死んでいる間、この少年を覆っていた拒絶のオーラは、今はない。隣り合ったブランコまで、長いミロの腕をいっぱいに伸ばせば、その金色の髪に触れることはできるだろう。そう思う一方で、決して自分がその一本の腕を伸ばさないことも、ミロは知っている。 望まなければ手に入らない、だと。偉そうに。別に欲しいものなどない。全てが手の内に納まらないものなどいらない。だが、これも欺瞞だということも分かっていた。 手元に引き寄せたかったのは赤い髪だったのか、自らを翻らせた金色と白い羽に何かが揺さぶられたのは確かな気はするが、触れてみたいとまで思ったのはかき消えた赤い陽炎が重なったせいなのか、手を伸ばすのをやめたのもまた白い羽で追う視界には赤しか映っていないと知っていたからなのか、はたまた二色の対比を美しいと感じたのに何故高揚とは逆方向に心が傾いていくのか。向き合わなければその答えは出ない。答えが出てしまったら、どうするというのだ。答えは出さない、それも一つの答えだ。 「あなたに謝らないといけない」 ここにいながらも、ここではないところに意識を飛ばしていたミロに届いたのは、ミロの方を見ないまま、金髪の少年から告げられた思いがけない言葉だ。ミロは僅かだけ目を大きくする。知らぬ間に雰囲気の変わった氷河が、何を言い出そうとしているのか、量りかねた。 「カミュの死に向かい合えないでいた。あなたには叱咤してもらった。そんな様では命を懸けて俺を導いたカミュに申し訳がたつのかと」 どうしてこんな話題になったのか分からない。氷河のことを見ているようで、やはり見ていなかったミロは、その思考の経緯を見落としていた。 「それに反発していた。あなたに俺の気持ちが分かるものかと」 途中をすっ飛ばして、勝手に出てきた結論だけを言う。こんなところまで、師匠と似なくてもいいものを。 「でも」 言葉を切って、氷河は続ける。 「我が師はあなたの友人でもあった。あなただって、悲しくないはずなかったのに、俺は自分のことばかりで、あなたの気持ちを気遣えなかった」 言葉足らずの言葉。でも、言いたいことは、その意思は伝わってくる。そんなことを考えていたのか。少年の成長は早い。坊やだとばかり思っていたのに、いつの間にか人を気遣うことを覚えている。周りのことなど、何も見えていなかった。その真直ぐな視線はただ前を見ていて、だからこそ残酷で、強い。だが人は、常に変わっていくのだ。成長していく様は確かに感慨深くもあり、カミュもまたこんな気持ちで見守っていたのだろうかと思えば、それもまた感慨深い。 天蠍宮で見せたあの力強さを、何人も覆せない強靭でしなやかな意思に、何かが震え揺さぶられた。ミロを翻させたのは、他でもない、この金髪の少年なのだ。だがカミュがいなければ、この少年とああいう出会い方をすることもなかった。 「カミュの死に顔は、とても満足げだった」 ミロは静かに思いを馳せて言う。外界より数十度も低い宝瓶宮で、倒れている友と、少年。確かに満足げだった友の顔。同時に痛みも沸き起こる。かつて感じた痛み、今思い出しても突き刺さる痛みを、二度と感じたくはない。今、カミュは、生きている。嬉しいはずだ。いや、嬉しいのは確かなのだ、共に生きているということは。 「カミュは君を誇りに思っている。俺は、それを知っている」 そう、知っている。 「だから俺には良かったのだと思えた。あいつは満足して死んだ。君を残せて本望だろうと」 その少年は、友が命を懸けて導いた少年で、彼らの間には、何人も、入り込めない何かが、あった。 ミロの言葉を最後まで聞き終えて、数度瞬かせた後、氷河は彼の扱う凍気と同じように透きとおる瞳を、すいと緩めて、笑った。 「カミュが死んだ時、同じように悲しんでくれる人がいて良かった」 それは美化した記憶だ。相容れることはなかった、その時の氷河とは。だが。 もう過去のことなのだな。ほっとしたように緩んだ穏やかな顔が、全てを物語っていた。この少年の中で、カミュが死んでいたことは、もうなかったことなのだ。カミュの死を、彼が受け入れられたのかは知らない。けれど、少なくとも今を、受け入れている。 俺も向き合うべきなのだろう、今に。 友の死を悼んだ。だが、友の遺志を継ぐ者が残った。自らを覆させた少年への何かの感情があるとするなら、それは、友への想いなしにはおそらく語れない。 俺が欲しいのは、何だ? 別にあの男にけしかけられたから、思うのではない。だいたい偶然だ。ここに氷河がいるとは思いもよらなかった。どこでも良かったのだ。とにかく聖域を離れられれば。手近に機会が転がってきたので、即座に拾ったら、ここに来ていて、こうなった。 少し考えれば分かりそうなものだったが、聖域を離れることしか頭になかったミロには、まさに偶然である。だから余計に、その偶然は掴むべきもののような気がした。ミロにとって、聖域を離れたいという欲求は、実は甚だ珍しいものだったのだから。 「俺は、君の役に立ったのか」 自分のものとは色調の違う、青い瞳を見て言った。今日、初めて合った視線。 「世話になったと思っていた。でも、言えなくて後悔した」 「後悔、何故?」 水色の瞳の真剣さの意味が、ミロにはよく分からない。自分に向けられる類のものではないような気がしている。 「前にも言っただろ。ちゃんと礼が言えていなかったと。もっと早くに言えていればよかった。もう、あなたに、礼が言えないと思ったんだ」 言われた意味を掴みかねる。そして下された言葉は、親しいものを次々と失った者の口から出る、重い言葉。 「死んでしまってからでは、何も言えない」 それは、他人事のように聞こえた。だが向けられる視線は、確かに自分に向けて言ったのだと示している。そうだ、この少年はあの時も、こんな真剣な目をして、ただ前に進もうとしていた。 「黄金聖闘士たちがエリシオンへの道を拓いてくれた。だから俺たちは前へ進めたんだ。でも」 歪んだ顔は、その時の痛みを思い出しているかのようで、その痛々しさを、ミロは見たことがある。 「悲しかった」 絞り出した声は、空に浮いた。ずっと黙って、長いこと黙って、ようやくミロは答えた。答えというより、それは反復で、僅かに語尾が上がっただけの疑問形で。だが、間違いなく、尋ねる意図が含まれていた。答えが分からなかったから、本当に。 「……悲しかった?」 「当たり前だ。悲しくないわけないだろ」 迷う間もない返事、それが答えだ。 ――そうか、俺も死んだんだったな。一つの盲点。しかしよく考えれば、いやよく考えなくても分かりきったこと、だがミロ本人は失念していた。というより、実感がなかった。それだけ、ミロ自身も、自分がそれに向き合うことで手いっぱいだったのだ。 ミロにとって、カミュは死に生き返ったのだが、氷河や、他の聖戦を最後まで生き残った者たちにとっては、ミロもまた一度死に、その喪失を経て、生き返った。死んでいた期間は確かにカミュたちより短いけれど、それでも喪失の痛みを彼らにもたらした。ミロが、カミュの死の時に感じたように。 氷河にとって、カミュの死と、ミロの死は、その重さにおいて比べようもないものだろう。でもカミュの時の十分の一でも、百分の一だったとしても。その量を比べることなどできない。いや意味がない。悲しみをもたらさない死など、ないのだ。 「宝瓶宮で戻ってきた二人を見て、俺はカミュとあなたが並んでいるのを見て、良いなと思ったんだ」 続けた氷河は、もうミロを見ていない。だから今、ミロがどんな表情を浮かべているかを知らない。 「初めて見たはずだったけど、そんな気がしなかった。たぶん、カミュがいない間にも、あなたからカミュのことを聞いていたからだと思う」 ミロがどんな表情で氷河を見ていたか、氷河が知ることはないだろう。 「あなたと話したこと、あまり多くはないはずなのに、前から知っているような気になっていた。どうしてだろうと考えていた」 遠くを見る、爽やかな薄い水色の瞳。 「カミュから聖域の友人のことを聞いていた。あなたのことだったんだな」 漠然とした、だが、それは、感動と呼んでいいものだった。 俺も、その中にいるのか。氷河たちから見れば。自分は傍観者だと思っていた。だが観る者を違えれば、自分もその景色の中にいる。自分だけではない。喪失と、その痛みと、再生の混乱の中にあって、それでも前に進む者は。 勇気なんてものは、何処かに探しにいかなくても、最初から自分の中に在るのだ。ただ気づかないだけで。 俺はこれが欲しいのだろうか。 もう一度、見詰め直してみる。目を逸らさずに。 ――たぶん、違う。いや、違わない。違うが、一部でもある。それは別々のものではなくて、一続きのもので、だから俺は間違ってなかったのだ。最初から。 「俺も、君とカミュが共にいるのを見るのは好きだな」 赤と金が触れ合うその景色を見た。これは本心だ。それが、好きだ。 「どちらかが欠けるのも見たくはないな」 ミロにしては、随分と控えめな言い方だったのが、氷河には不思議に感じられた。 今度会ったらカミュにも聞いてみることにしよう。彼が何を思い、何を感じ、今何を想っているのか。 友を想う気持ちは、聖域の空に消えていった気がしていたけれど、氷河を通して、また触れ合った気がした。カミュの思いを尊んで、それが友というものへの敬意と、答えで。 金色の頭に手を置いた。柔らかい細い髪の毛が、優しく手に触れた。 中空にういたまま伸ばさなかった手は、ようやく降りて、落ち着いた。名前がつき損ねた感情は、名前をつけられたその時には、過ぎたものとなっていた。どんな名前だったかは、もう、いいだろう。赤と金を引き裂いてまで、欲しいものじゃない。誰かに言われたから、負け惜しみを言っているのでもない。欲しいというなら両方欲しい。かつてはそうではなかったのかもしれないが、風化して分からなくなったものと、気づくより前に風に踊って散ったもの。でもこれは、あいつの言う欲しいというのとは違うだろう。俺の中にあるという、眠っている欲求とも違うだろう。あの熱に中てられた今ならよく分かる。目覚める機会を逸したそれは、まだ気配を見せないが。今はそれでいいと思っている。だから、いいのだ。 臆病だと言ったな、この俺を。今更ながらに腹が立ってきた。こんなものが勇気なものか。それならもとから持っている。……ああ、でもここに来なければ、気づかなかったのかもしれないな。 青々とした緑、颯爽と生い茂る樹の葉で作られた影は、葉が風に揺られる度にちらちらと形を変える。湿った土の上に落ちる細かい光が作った影絵。ベンチで井戸端会議に夢中な母親の横で、幼い子らが洗いたてのシャツで、今まさに砂と水で作り上げた泥の城にダイブするところだ。アスリート姿の老若男女が、数分の間をおいて公園の脇を走りぬけていった。 ギリシャにはない風景。 オリーブと白い壁と、青くぬけるような空と、やはり真っ青な海、それがギリシャの風景。そして、聖域の姿は、それよりも更に狭い。 さらさらと葉が触れ合う音と、どこかで鳴る鐘の音、遊ぶ子供らの声は遠く、車は道を走り抜ける。どれも日本の日常、されどミロにとっては初めての非日常。 「こういうところも在ったのだな」 路の向こうを見やり呟く時には、たぶん聖域のことを思い浮かべているのだろうということは、氷河にも何となく分かった。 「こんな風に時間を使ったのは初めてだな」 聖域だけが世界ではない。そんなこと、分かっていたはずなのだが。少し出ただけで、随分違ったものが目に入る。だとすると、目に入れていなかっただけなのかもしれない、そこに在ったものを。そして、目を向けていなかっただけなのかもしれない、自分にも。 気づかなかっただろう、ここへ来なければ。聖域の外の日常がこんなに美しいということも、そして守った平和がこんなに尊いということにも。 「これからはいつだって。また来ればいい」 そう言う少年の言葉に返した返事は、とても自然なものだった。 「次は、違うところも見てみたいな」 「案内しよう。次こそはちゃんと」 嬉しそうに笑う金髪の少年の頭に、気負いなく落とした手、あんなに遠くに感じられた距離が、伸ばしてみればたった一本の腕の長さ。 なんだか無性に聖域が懐かしくなった。緑に生い茂る葉の隙間からこぼれる光も、遠くに聞こえる子供たちの声も、走る犬の足音もないけれど、あそこが自分の帰るべき場所だ。いくら離れたってかまわないのだ。心はいつも聖域に在る。故郷、そう呼べるものが在るならば、あそこが俺の故郷だ。 遠い東の国を発ち、戻るは西の太陽の国。 |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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