第3章 エメラルド・シティ(3)


 たった二週間留守にしただけなのに、何度も見てきたはずの風景が、初めて見る鮮やかな色に包まれているかのように感じられる。西から射す夕日に照らされ、天空に赤く浮かび上がる天蠍宮は、ミロの過ごした十数年の間寸分の違いもなく、そこに在る。赤く染まる石の壁と柱、此処が自分を育て守り生きる場所であることに変わりはない。たとえこれから、何処に行こうとも、何処で死のうとも、最後には此処に還って来る。纏った黄金の聖衣が沈みゆく太陽の光を集め、白いマントが夕暮れの風になびくのに任せて、天蠍宮正面階段の前、どれくらい長く佇んでいただろうか。
 下から、知った小宇宙が流れてくるのを感じた。目を向けるまでもない、覚えがある気配。顔を向けて見下ろす時には、意外に思えるほど落ち着いていた。石段を上り来る姿は、ひどくゆったりとしていて、だから同じようにゆっくりと、向き直った。
 二週間。その間、ふと頭にのぼることは何度もあったにもかかわらず、ミロは次にその男に会った時に、何と言おうか、またはどういう態度を取るべきか、驚くぐらい何も考えていなかったことに気づいた。平らかである一方で、どうすればいいのか、全く思いつかない。近づく姿を捉えた視線ばかりが、僅かずつ上がっていく。横からの西日を受けて鮮明に際立つカノンの精悍な顔には、苛む影も、ましてや媚びる色も浮かんではいない。
「答えは、見つかったみたいだな」
 不意に下からかけられた言葉で、ミロは初めてこの場に引き戻された気がした。
「随分とすっきりとした顔をしている」
 とても穏やかに、目を細めて笑った顔には、やはり気負いとか、罪悪感とか、そんなものは全然見受けられなくて、ただ自然に笑みがこぼれ出ただけの、至極単純な感情を表しているように思える。あまりにそれが穏やかだったものだから、思わずそのまま迎え入れそうになった情感を、ミロは振り払った。
 そうだ、俺はこいつに怒っているのだ。だいたいこいつのせいで、日本まで行く羽目になり、二週間も聖域を留守にして。
 苦々しげに眉を顰めて、睨みつける表情を作ってやっても、カノンの顔は変わらない。
 なんでそんなに平然としていられるのだ。俺に、他に言うことがあるのは貴様だろうに。
 ミロの立つ数段下、視線が交わり合う距離でカノンは立ち止まった。睨むミロに対して、短く、一言。
「よかったな」
 返事を聞くまでもないとでもいうような確信を示す口調、それでも反発する気を起こさせない安らいだ声だった。なんでそんなことがこの男に言えるのか、ミロ自身でさえも、その変化に気づいたばかりだというのに。それが何から来るかと言えば、やはり明白なような気はして。……だから。
 こいつがいなければ、日本に行くことにもならなくて、氷河と話すこともなければ、緑の風にそよぐこともなかった。帰ってきた今、沈みゆく感情も青白い月も、もう翳を落としていない、それがよかったのだと、言うのなら――。
 少しばかりは、ほんの僅かに過ぎないが、こいつのおかげと言えなくもない、かもしれない。
 気を鎮めるように、深く息を吐いてから、ミロは言った。
「この前のことは忘れてやる」
 ミロにとってはもう一生ないかと思うくらいの、最大の譲歩である。顔は少し引き攣ったかもしれないが、それくらいは仕方がないだろう。
「二度はないと女神に誓うなら、以前のように戻ってやってもよい」
 ふっと伏せたカノンの目には、しかしミロが期待したような安堵の色は現れず、変わらぬ穏やかな笑みが浮かんでいるだけだ。
「それは、無理な話だな」
 何事でもなさそうにさらりと言われたせいで、ミロには咄嗟に継ぐ言が出てこない。言われた意味がよく分からなかったというのもある。
 それ以上何があるというのだ。この俺がせっかく忘れてやると、なかったことにしてやってもよいと言っているのに。
「お前を忘れることなどできない。よもや、なかったことになど」
 ミロの心の声を読んだかのような、しかし断固とした口調が返ってきた。数段の下で止まっていた歩みを再開するとともに、長く伸びた影も動く。
「誤魔化すな。お前だって、本当はもう分かっているだろう。俺の本気は」
 まただ。優位にいるのは自分のはずだろう? ならば何故、こんなに追い詰められた気分になるのだ。真っ直ぐに向けられる視線に、何故だかとてもいたたまれない気分にさせられて、息が出来なくなる。
 反射的に踵を返そうとしたミロの動きは、大層ぎこちなくて、体がブリキ仕掛けの人形のように、ぎしりと音を立てているかと思えた。
「ミロ、逃げるな」
 半歩ひねっただけで、ぴたりと足が止まる。
「逃げないでくれ」
 少し、困ったような声。
 同じ高さまで来たカノンの作る影は、少しだけ高い身長の分だけ長く、その差を強調しているようでもある。このまま無視することもできる、しかし、そうしてはいけないと、ミロの中のどこかが告げていた。背を向けるなど男のすることではない、だが、足が動いてくれないのは、そんなくだらないプライドとは別のところからきていることは、もう分かっている。
「お前に何かを強いたいわけではないんだ、ただ」
 カノンが一歩前へ出るのに押されて、一歩後ずさりしたミロの作る影が、天蠍宮の一本の柱の影の中に、飲み込まれていった。
「ただ、お前を大切に思うことを、許してくれないか」
 瞳と声から伝わりくるものは、以前に見た熱も激しさも含んではいないが、同じように胸の奥の芯を揺さぶる。それはたぶん同じところから来るものだからなのだろう、が。
 どうにか言った言葉は揺れて、昏い影に吸い込まれていった。
「……許さんと言ったら、どうするのだ?」
 微かに笑ったカノンの顔は複雑に歪んで、この男にしてはひどく子供じみた顔にも見える。
「困ったな」
 誰に言うでも無いような呟きだった。
「それは出来そうにないんだ」
 心底、どうしていいか分からないとでもいいたげな、だがそれがふりでも演技でもないことは、分かり切っている。
「それなら、俺がどう言おうと同じじゃないか」
 答えたミロの声は、やはり語尾が掠れて夕焼けの赤が覆う空に拡がって消えた。
「そうかもしれんな。だが――」
 カノンの声は静かなまま、複雑な顔を掲げ、緩めた目は困惑したよう、でも、随分と、何だろう。随分と、ただ、切実に。
「俺はお前に許してもらいたいんだ」
 それに込められたものは、激しさの代わりに緩やかに暖かく染み入るようで、ぶつけてくるかと思えば、ひどくやんわりと包み込むようで。
 目を逸らそうとしている間は見えなかった。逡巡する肩を叩き、向き合おうと目を開けた時にふと浮かぶのは、この視線だったように、思う。
 迷ったミロの目が左右に細かく振れる。ミロも、カノンも動かない。しゃべらない。刻が止まったような一枚絵。ただ、二つの長い髪と金色に纏われた純白のマントが風に揺れるのが、時の流れを示している。僅かずつ、長さを増して伸びる、黒い影。
「お前が勝手に思うことを、俺には止められんだろう」
 長い沈黙の末に呟かれた言葉は、肯定でも否定でもなく、しかし非常に彼らしい一言。
「それは、許すと?」
「……俺は何も言わん」
 俄かに刻が動き出す。柱が作る狭い影の中にもう一つの人型の陰影が溶け込むのに、はっとしてミロは顔を上げた。近づいてくる顔に驚いて、咄嗟に肩を掴んで押し戻す。目の前に端正な顔がある。目が合う瞳は、紺碧に近い深い碧色。今でも近過ぎるその距離から、更に近づこうとする意図を察して、押し戻す力を強くする。
「そういうことまで許した覚えはない!」
「俺にとっては、こういうことも含めて大切にするということなんだ」
「勝手に含めるな!」
 語気を強めて言うミロの声にも、カノンは動じた様子もない。
「細かいことをがたがた言うな。男だろう」
 カノンはミロの後ろ頭を両手で掴み、強引に引き寄せる。
「ふざけるな。男だから嫌なんだろうが! 用が済んだらさっさと帰れ!!」
 間近に見る睫毛が長くて美しいなとカノンは思いながらも、のけ反ろうとする頭をがっちりと押さえ、逃げることは許さなかった。こんな時にも、嫌がって抵抗はすれど、本気で拳を振るうことはしない。情が深いのも困りものだ。一旦懐に入れた相手には許し過ぎる。本気で拒絶したら、きっとカノンが傷つくと思っている。そんな気遣いなぞしているから奪われるんだろうが。それとも、勘違いしても良いということか。
「これは別れの挨拶だ。するまで帰るつもりはない。帰って欲しくばおとなしくしろ」
「どんな理屈だ!!」
 らちがあかないかに思えた問答と攻防の決着は、有無を言わさぬカノンの一言を境に、意外にあっけなく着いた。
「いいから、もう黙れ」
 覚悟をしたのか、それ以上至近距離からの強い視線に耐えきれなくなったのか、ミロが固く目を瞑るのと同時に、カノンは同じく固く結ばれた口唇に自らのものを重ねた。
 数秒の、軽く落とした触れるだけのキス。
 それでも、今の胸の内の熱を伝えるように。重ねた口唇から溢れ出す想いに、気づくだろうか?
 口付ける時とは逆に、ゆっくりと解放する。目の前で青い瞳が瞼の下から現れるのを目に収めてから、カノンは腕に押し出されて夕日の光の下にその身をさらす。軽く息を継いだのちに、聞こえてくるかと思った罵倒の声はなく、代わりに、ミロはひどく決まりの悪い表情を作っていた。
 ああ、伝わってしまったんだな。伝わればいいという願いはカノンのもので、確かにそうなのだけれど、一方でそれをしまったと思っている自分もいた。願わくばこの想いを受け入れて欲しい、だが突きつけて追い詰めたくはない。この想いをなかったことにされるわけにはいかないし、出来もしない。しかし、隠してやることはできる。たまに今のように溢れ出てしまうかもしれないが、受け止めきれないでいるうちは、見せずにい続けてやろう。
 わざとおどけた調子で、カノンは先に声をかける。
「また来る。続きはその時だ」
「続きがあるか! もう来るな!!」
 すぐさま返ってきた憎まれ口に、多少安堵し、赤い夕日を背に浴びてカノンは石段を下りていく。
 来るなと言われても、無理な話だ。明日も明後日も、何度でも来てやろう。あいにく持久戦には強いのだ。お前が根負けして音を上げるまで。
 後ろ様に振る手と軽妙に躍る長い髪に向けて、浴びせられる罵声が茜色の空に響く。
 夕映えの天蠍宮、その色は、どこか暖かい。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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