第4章 Je t'embrasse(2)


 岩肌の露出した壁沿いに緩いカーブを回り切ったところで、足早に小径の砂利を蹴っていた足を、ぴたりと止める。顔の表情にほとんど変化はない。ただ、眦の上がった大きな青い瞳の中で、狭い小径の突き当り、"目的地"の前に腰を下ろすその人物を映した黒檀の瞳孔だけが、一瞬すっと大きさを増した。
 淡いレンガ色のブロック石を積み上げた門柱の下で、でかい図体を折り曲げて小脇にこれまたやけにでかい紙袋を抱えて座っているカノンは、窮屈そうな体勢の割に、妙にのびやかに寛いだ様子である。しばらくぶりに姿を見せた本体が、それからすぐに目を細め、締まった眉を更に険しく寄せるのが、数メートル先のカノンからもはっきりと分かった。
「随分久しぶりだな」
 視線はカノンに固定したまま、ゆっくりと近づいて来るミロが、丁度脇を通り抜けようというところで、カノンは真下から声をかけた。
「そうだったか? 大して気にもしていなかったからよく分からん」
 気安げなカノンに応ずるミロの方は、声にも内容にも険がある。
「何をしに来た」
 対照的なのは声色ばかりではない。にこやかなカノンに対して、二本の門柱の間を埋める黒い鉄の門に手を掛け、見下ろしてくるミロの表情は威圧的で、不機嫌さを隠そうともしていなかった。すべりの悪い門扉がギィと軋んだ音を立てるのが、ミロの苛立ちを表しているようでもある。
 "目的地"、すなわちミロの居宅は、天蠍宮裏手の岩壁下、表側からは目につきにくいやや奥まったところにあった。白っぽい石積みの壁に瓦屋根のモノカティキアは、建てられてから大層長い年月が経っていそうだが、これでも聖域においては新しい方に属するだろう。鉢植えの植物や凝った装飾といったものは一切ない、殺風景ともいえる門構えは、実に戦士然とした男らしさを表している一方で、通る道筋は小ざっぱりと綺麗にしてあるのが、意外なようでいて、逆にらしくもある、ミロの性格の一面を垣間見られるようでもあった。
「お前に会いに来た」
 辺りは既に薄暗い。木陰から抜け出しすっくと立ち上がるカノンの顔を睨みつけたままのミロの視線は、僅かに上に向く。立つとカノンの方が、少しだけ背が高い。
「はぐらかすな! わざわざこちらにまで押しかけて何の用だと聞いている」
 こちらというのは言わずもがな、守護宮ではなくて居宅の前に何故お前がいるのだという意味だ。蠍座の黄金聖闘士としての在るべき場所は、常に守護宮としての天蠍宮である。従ってミロにとって家とは、寝食を行う場所ではあるが、拠点というよりもより私的な空間という意味合いが強い。だからなおさらに、この縄張りの最奥にずかずかと入り込まれれば、ミロが憤慨するであろうことは、予想されたことだった。しかし、予想していたにも関わらず、実行するのが、カノンである。
「暇さえあれば天蠍宮に張り付いているはずのお前の顔が見えないものだからな。寝込んでいては悪いと思って様子を見に来てみた」
 そう言って、カノンはにっこりと――ミロからすると大変胡散臭い顔で――笑った。
「元気そうで安心したぞ」
 ミロが実に嫌そうな顔をしたのは言うまでもない。チッと舌打ちをしてからくるりと背を向け、無言のままに門扉を押し開けた。カノンのことは無視すると決めたようだ、が、ここですんなり引き下がるようならわざわざ出向いて来たりはしない。続いてカノンも門の内側に足を踏み入れ、玄関に向くミロの背中へなるべく陽気に声をかけた。
「一緒に飯でも食わないか」
 追うと逃げるというのなら、向こうからやって来るのを待つ。それには、思いがけない時間に思いがけない場所で。
 ミロが比較的早い時間に十二宮に戻って来たのは確認済みだった。普段カノンが天蠍宮をうろついていた時間帯とはずらすため、不審顔のサガを横目に休息なしのフル稼働、その甲斐あっての夕食時である。雲隠れしていても、腹が減れば飯は食うだろう。外に出るか、自炊でもするか。まめに料理をしそうには見えないし、直接出かけるという可能性もあるのだが、しかしここには一つの確信があった。勘、というよりも、ミロの行動傾向からの予測ともいえる。
 非常に縄張り意識の強いミロは、おそらく何をするにも一旦は家に戻ってくる。
 まさに的中といったところである。流石に一人の人間を毎日追い回しているだけのことはある、と褒められるようなことではないが、こういう悪巧み、否、より上位の優先される目的のためなら、カノンはあらゆる労も厭わない。ちなみに、カノンの周到さと計画性が存分に発揮されるのも、こういった時であることは付け加えておく。
 だが、これはカノンにとっては残念なことに、ミロの反応も面白いくらい予想通りだった。
「俺に用はない」
 錠がはずれる音と同時に背後のカノンへ向き直り、言葉短かに言った。
「帰れ」
 努めて感情が籠らないように発せられた、平坦な口調が若干痛い。が、いちいちめげているわけにもいかない。
「つれないな。せっかく来たのに入れてくれないのか?」
「入れると思うか。帰れ」
 けんもほろろ、取りつくしまもないとはこのことだ。
 きつい眼力と受け流す笑み、視線の交錯は一分くらい続いただろうか。肩を竦め、やれやれといった素振りを見せて先に視線をはずしたのは、カノンの方だった。
「仕方がないな、今日のところは引き下がるとするか」
 ふっと息を抜くカノンの呼吸に合わせて、ミロも一瞬だけ緊張を緩めた、時だった。
 唐突に後頸を引き寄せられた衝撃に体のバランスが崩れ、反射的に伸ばした右手首ははしと掴まれ、ドアに押し付けられていた。見開いた両目のすぐ前には、碧い瞳が飛び込んできて、もう僅か近づいただけで触れる、しゃべる吐息が口唇にかかる位置に迫っているのは、カノンの顔だと一拍置いてから気がついた。
「なん、だっ!?」
「門前払いとはいえ、会ったからには挨拶くらいしていかんとな」
 目の前で碧い目が緩やかに笑う。
「別れの挨拶だと言ったろう」
 動揺を瞬時に落ち着かせ、置かれた状況を把握したミロは、記憶が呼び起こされるのと同時にカノンの意図を理解した。
 確かに言っていた。勝手な理屈であの時も、無理やり奪っていったのだ、この男は。
「屁理屈をっ……!!」
 馬鹿力で抑え込まれた頭は例によってびくともしないし、今の時点で既に触れそうなくらいに近いこの位置は、何が何でも分が悪すぎる。一瞬覚悟をしかけたミロの心持ちに反して、いつまでたっても予想した感触は降りて来なかった。訝しさに薄目を開けて見ると、笑った瞳が見返してきた。
「どうする? 俺としてはこのまま帰ってもいいんだが。お前としてはされ損だな」
――つまりは取引というわけだ。このまま帰るなら挨拶代わりにキスの一つでも、それが嫌なら中に入れろ、と。
「一応、手土産は持ってきたわけだが」
 カノンは視線でちらりと門柱に立てかけたままの紙袋を示す。つられてミロも、そちらに目を移した。荷包の背は高く、一杯に物が詰まって閉じきらない口の端から、なるほど旬の果実のものと思われる赤い色が覗き見える。
「どうせ結果が同じなら、多少は腹の足しになった方がいいんじゃないか?」
 ますます眉間の皺を深くして、視線を戻したミロの正面には、変わらず碧色の瞳が楽しげに揺れる。近過ぎてどんな表情をしているか見えないが、きっとしたり顔のにやけた面をしているに違いない。
 ぶん殴って押しのけるのと、あと数センチの距離を縮められるのとどちらが速いかと言われれば、答えは決まっている。油断があったとはいえ、そう簡単に口唇を奪われるだけというのは、プライドが許さない。
 キスか飯か、冷静になればそんな二択の天秤なぞ、どこかバランスが狂っているとしか言いようがないのだが、疑問に思う猶予をカノンは与えるつもりはなかった。
「ミロ、どうする?」
 更に距離を詰めて、当たりそうな鼻頭を避けるように顔を傾ける。空気の振動が直に伝わる距離だ。
「くそっ!」
 思わず目を背けて、苦々しげに唸る。
「勝手にしろ!!」
 吐き捨てたミロの言葉を諾ととって、漸く力を緩めたカノンの腕をすかさず振り払い、そのままの勢いで、ミロは乱暴に玄関の扉を開け放った。黄金聖闘士が力任せに怒りをぶつけた扉が壊れずに済んだのは、奇跡としか言いようがない。周囲に強烈な音を響かせた後も、往復する蝶番がぎしぎしと悲鳴を上げていた。

 ミロは大股で室内に入るが早いか、他所には目もくれず、まっすぐに居間の中央に置かれたソファに向かい、勢いよくその上に身を投げた。室内には、玄関口と同じく余計なものはほとんど置かれていない。数個のクッションと共にミロが埋もれているソファの周囲だけが、空白の多い部屋の中において一際物が多く、気に入りの生活空間なのだろうということが見て取れた。ソファに組み合わされたローテーブルの上の飲みかけのペットボトルや、何かの毛があしらわれたふかふかの敷物に、本が数冊散らばっているのが、そのことを物語っている。
 不貞腐れたミロの様子を見て、後から居間に入ったカノンは思わず苦笑をこぼした。ああは言ったが、一度腕から逃してしまえば、警戒する黄金聖闘士相手に同じ体勢に持ち込むことは、カノンであっても困難である。しかし、口約束など反故にしてしまおうという発想が生まれてこないあたりが、誇り高いと言うべきか、良い意味で育ちが良いと、カノンには思えた。……だから、惹かれるんだろう、とも思う。
 ミロのことはそっとしておいて、カノンはカウンターを挟んで居間と一繋がりとなっているキッチンへ足を運んだ。案の定、調理場は大して使い込まれている形跡はない。片付けられたまま、最近水にぬれた気配のない調理道具が良い証拠だ。数も種類も少ない。深底大鍋まで持参したのは正解だったなと、カノンは自らの判断を自賛しつつ、紙袋の中身を台に広げる作業に取りかかった。
 嬉々として調理場を吟味している男に、当初は勝手にしろとばかりに無視を決め込んでいたミロも、ここにきて不審を覚えたようだった。
「おい、何のつもりだ」
 胡散臭そうに、うつぶせのまま上体だけ反らし、ソファの背越しにカノンの方を見やる。
「飯はどこだ」
 そういえば怒りのために失念していたが、少なくとも食い物の匂いは漂って来ない。キッチンのカノンはすでに鼻歌混じりなのに、嫌な予感も募る。
「さっきから見ているだろう」
 はぐらかすようなカノンの物言いに、ミロは苛立った声を上げた。
「だからどこに飯がある?」
 既に調理済みのものか、ともかくすぐに食えるものが出てくるものだとばかり思っていたのだろう。普段の食生活が懸念されるところである。
 カノンは小玉の玉ねぎを三つ、片手にかざして、今日一番の笑顔で言ってやった。
「原材料は持参した。場所は貸せ。飯は借り賃ということにしてやる」
「はあ!?」
「大人しく待っておけ。腹がすいた方が飯は美味いぞ」
 普段はきつめの顔も、丸くなった目を瞬かせれば、大層愛嬌のあるものになる。間の抜けた声とぽかんと口を開けたミロの顔が可笑しくて、思わずカノンは声をたてて笑った。
「ッ……意味が分からん!!」
 我に返った瞬間から、一層の憤りと半ばの呆れを何度も口の中で繰り返しながら、やり場のない感情をぼすぼすとクッションにぶつけて、顔を押し付けているのが見えた。

 いい加減に諦めがついたのか、怒ると余計腹がすくのが分かったのか、肉の焼ける匂いに食い気が勝って誘われてきたか。だがおそらく一番は、好奇心に勝てなかったのだろう。
 はじめは信じられないものを見るような目付きを投げてきていたミロも、楽しげに調理場に立つカノンの後ろに、ほどなくして、遠巻きに近づいて来た。警戒心を緩めていないのは、あからさまな距離感とすり足のような動き、顰めた眉からも明らかだった。
 自分の城で繰り広げられている、見たこともない光景。
 色とりどりの食材が並べられ、大量のトマトが煮詰まりつつある横で、一口大に切られた牛肩肉が香ばしい匂いをさせて焼かれている。手際よく玉ねぎが大鍋に加えられるのを、瞬きもせずに凝視していた。
 カノンが、肩越しに煮立った鍋を覗き込んでくるミロの頭へ視線を向けると、それを敏感に感じたのか、仰ぎ見る青い瞳と目が合った。途端にミロは、僅かばかり後退って距離をとる。だが、何か言いたげに目は逸らさずにいるのに、カノンは一瞬考えてから、ああと思い至った。尋ねたいが、自分の方から話しかけるのは癪だといったところなのだろう。カノンは手元に視線を戻して、無言の問いに答えてやった。
「スティファドだ。食ったことはあるだろう」
 ギリシャの代表的な煮込み料理、ギリシャ生まれのミロが知らないわけがない。あまり嫌いだという者はなく、選択肢としては無難なはずだ。が、一応聞いておく。
「ミロ、嫌いなものはあるか?」
 しばらく間があった後に、ぼそりと返事が返ってきた。
「……特にない」
 あいた間は、カノンとの会話の糸口に、答えるべきかを迷った時間なのかもしれない。返されたのは素っ気ない一言だったが、それでも頑なに閉じていた殻が少しは口を開けたようで、カノンはミロから見えないところで、少しだけ眦を緩めた。

 塩胡椒ににんにく、オリーブオイルで味を調え、煮詰まったばかりのトマトピューレを流し込む。カノンはおもむろに鍋に蓋をして、やや離れたところから、だが意外なことに大人しく飽きもせずに鍋の様子を覗いていたミロを振り返った。
「あとは煮込んでニ時間だ」
 ミロはそうか、と言いかけてから目を剥く。
「二時間だと!?」
「おおよそだな」
 さらりというカノンに、ミロは顔を引き攣らせた。わなわなと震える口唇で、言いたいことは言わんでも分かる。おそらくミロに一日でこんな顔を何度もさせたのは俺が初めてなんじゃないだろうかと、変なところでカノンが満足しているところに、ミロの罵声が飛んできた。
「そんなに長くお前と顔を突き合わしていられるか!」
 これまでの様子から、料理と呼べるものはやっていないらしいことは知れていた。煮込み料理に時間がかかることくらいはじめに気づいておくべきなのだ。ただし、わざと時間のかかるものを選んだということは伏せておく。
「待つ間にもやることはある」
 カノンの台詞に何を思ったのか、ミロはじりじりといつでも飛びすされる体勢と距離を作る。心配せずともそんなに警戒心丸出しのところへ不用意なことをするつもりはないし、ものには下ごしらえと手順というものがあるのだ、とカノンは思いつつも、そういう段どりを一足跳びに最初にすっ飛ばしたのは自分だったことに、改めて苦笑した。それは警戒されもするだろう。
「コレは使えるんだろう?」
 気を取り直して、手の甲でこんこんと叩いたのは、おそらくこれまで一度も使われたことのないであろうオーブンである。
「カミュのところで動いているのを見たことはあるが……。お前、これ以上何をするつもりだ」
 ミロはありありとした不満顔だが、天蠍宮の肥やしになっていた数々の調理器具には、日の目を見させてやって感謝されているのではないだろうか。
「やるのはお前だ、ミロ」
 言って、チーズと卵に黒胡椒とナツメグ、パイシートを手渡す。
「ティロピタの方を頼む」
 反射でうっかり受け取ってしまったミロは、一瞬呆けてから、今日何度目か――もう数えてもいない。
「どうして俺がそんなことしなければならんのだ!」
「チーズパイを知らんのか?」
「知っている! 何で俺がやるのだと聞いている!!」
「あったほうが美味いだろう」
 ミロが息を継いでいる間に、すかさずカノンは続けた。
「なら、お前がこっちを請け負ってくれるわけか?」
 あまりもののトマト、玉ねぎに、キュウリ、ポテト、タラコ、レモン、オリーブオイル、各種調味料などなど。
 良くは分からんが、またこの男は理解できんものに取り掛かるらしい、という気配は察知して黙ったミロに、追い打ちをかける。
「大丈夫だ。混ぜてのせて焼くだけだ」
――――結局。
 量って混ぜるだけのことに大騒ぎし、のせるのにも悪戦苦闘して、そして今はオーブンの真正面に陣取って、姿勢正しく見張っている。そんなにオーブンの前で待ち構えておらずとも時間がくれば焼き上がるのだが、大真面目なミロの様子がカノンからすれば可笑しくも、そして可愛くもある。
「ミロ」
 機嫌が悪いのは、腹がすいているせいも間違いなくあるだろう。最後の仕上げに蓋を開けた鍋から、煮込まれてとろとろになった肉の小片を小皿に取って差し出してやる。
「味見だ」
 ミロは手渡された小皿を恐る恐る受け取りながらも、やや心配そうな顔つきをつくった。
「味など俺には分からん」
「柔らかくなっているかをみてくれればいい」
 火傷するなよ、とカノンが言うそばから、舌まで猫舌らしい、顔を顰めてはふはふと苦労しながら食っている。仏頂面で皿を突き返してきた顔に、首を傾げて返事を促すと、ぽつりと答えが返って来た。
「煮えている」
 そしてさっさと、定位置、すなわちオーブンの正面に座り込んだ。そんな答えがあるものか、とカノンは思いつつも、おそらくこいつの性格からして、文句があれば言うはずだ。無いことが答えとみて、カノンはガスの火を止めた。
「じき出来る。もう少し辛抱しろ」
 小さく、フンと鼻を鳴らす音が聞こえた。

 下ごしらえから正味約三時間。
 よくもまあ、空腹を抱えたこの男が堪えた、というべきだろう。スティファド、ティロピタ、サラダ二種。食卓のものは、面白い程あっさりと無くなった。最初こそ、口に入れるものに一定の警戒心を示していたミロだったが、一口、二口と、その後はほぼ無言で、食うのに専念することに決めたようだった。育ちざかりはやや過ぎたとはいえ、二十歳の食いざかりのしかも黄金聖闘士、気持ち良いくらいに平らげてくれれば、作った方としてはやはり料理人冥利に尽きるというものだ。カノン自身も口にものを運びながら、時々こちらを気にしつつ食に集中していくミロの姿を眺めることに、暖かい感情が込み上げてくるのを自覚していた。お前とはもう酒は飲まん、と言うミロの言い分で、飲み物が水になったのは残念なところだが、それを差し引いても上出来だ。
 態度はとても褒められたものではないし、歓迎されているとは思い難い。しかし、自意識過剰と言われればそれまでなのだが、必ずしも、ミロがカノンのことを嫌ってそうしているようには、カノンには思われないのだった。現にミロは、今まで一度も本気の拳をカノンに向けて来たことはなかった。好意があるからだと都合よく勘違いできれば幸せなのであろうが、生憎カノンはそこまで能天気な頭をしてはいない。それは、どちらかというとミロ本人の性質によるものだと思っていた。
 人の感情の機微や口に出さない本音まで、敏感に拾い感づいてくる。カノンがミロに向けるものが、冗談やからかいの類のものでないことは、とうに分かっているはずだ。真剣に向き合わねばならないと思う理性的な思考と、いきなりそんな感情に曝された困惑や戸惑いが混じり合って、表に出て来た行動なのではないか。嫌で避けたいのは、きっと落ち着かないからで、どの位置に身を置けばいいのか、判断がつかないせいだろう。
 だから今欲しいのは時間だ。今は、時間を共に過ごしたかった。慣れて、打ち解けるまでの時間。ミロが、安心して居られる距離を測るまでの時間が必要だった。
 こんなやり合いにも意味はある。抱き寄せることは出来なくても、触れることが出来るなら、それが許されなくても、近くで飯でも食べてくれればそれでもいい。ミロが良いという距離に、置かせてもらえれば、まずはそれでいいのだ。
「そろそろ俺は帰るとしよう」
 あらかた片づけはすませ、カノンはサワーチェリーの盛られた器を、ミロの前に差し入れながら言った。それまで食うにかまけて下を向いていたミロが、跳ねるように顔を上げる。近くで見かわす目には、不思議そうな色が浮かんでいる。カノンは軽く両肩を上げて、その疑問に答えた。
「用は達したからな」
 なおも訝しげにカノンの瞳を覗き込んでから、ミロは呟いた。
「何しに来たんだ……」
 それでももう、その青い瞳に、数時間前のような冷たい拒絶の色は浮かんでいない。単に食い物で懐柔されたというものではないだろう。分かりやすいところもあるが、この男は言うほど単純ではない。
「はじめに言っただろう」
 カノンはゆっくりと、涼やかに微笑んだ。
「お前に会いに来た」
 それは、何かを企んでいそうな嫌な笑顔ではなく、目だけで笑っているわざとらしいものでもない。ミロには、少し、覚えがある。『よかったな』、そう言って笑った、天蠍宮の夕日の下で見た笑顔だ。
 この短期間のうちに、随分こいつの笑った顔を見てきたような気がするが、たぶん、この顔が一番好きなんじゃないかと、そんな感想がふとミロの心に浮かんできた。こんな時に限ってこういう顔をするのはずるいと思う。
 自然に近くにあったカノンの顔が、さらに自然に近づいて、何でもないようにひょいと口に触れる。
 タイミングも所作も、仕掛けられたというにはあまりに自然で、遠ざかった後でさえ、構える暇もなかった。
「これもはじめに言ったぞ。挨拶だ」
 親指で今触れたばかりの口唇を撫ぜるカノンの顔からは、先ほどの笑みは消えて、今度は意地悪そうなにやついた表情が浮かんでいた。この顔は嫌いだと心の中で唱えたミロが、悪口雑言を繰り出すより前に、カノンは素早くドア付近まで後退していた。
「余ったものはしまっておいた。しばらくはもつ。だが、早めに使えよ? 夏場は傷むのが早いからな」
 出鼻を挫かれ、しかも言われたことにぎょっとして、ミロが調理場の方に顔を向ける隙に、カノンは扉を開けて半身を夜風に曝す。
「鍋は貸しだ。トマトピューレは瓶に詰めた。玉ねぎもあるから、イェミスタもいい」
 顔を引き攣らせて食材と格闘するミロを想像するだに可笑しくて笑いがこぼれる。調理場の台の上で存在を主張している鍋を、呆然と見ているミロに向かって、カノンは最後に、朗らかにさっぱりと言い放った。
「安心しろ。大人しくしているならまた作ってやる」
 また来る、そう言って今度もミロの返事を聞く前に、カノンは扉の隙間をすり抜けた。締まるドアの向こうで、名を呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、カノンは既に暗くなった小径を駆け出していた。
 猫はもう幻じゃない。住処は見つけた。次行く足掛かりも残した。何より、縄張りに俺の匂いは残した。
 過ごした時間の分だけ、距離は今日より明日が、縮まるといい。だから少しでも長く、共に在りたいと願う。

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拍手
Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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