I belong to you第4章 Je t'embrasse(3)「何の用、……っ! 何をする!!」 「何度も言わせるな。お前に会いに来たんだ。それで、挨拶だ」 「貴様、いきなりそれか!」 「大切なことは先に済ませておく主義なんだ。そう怒るな」 「おい待て、誰が入って良いと言った」 「詫びにお前の好きなものを作ってやろう。昨日の残りもあるしな。今日はもう何もせんから安心して、飯ができるまでその辺で寛いでいろ」 「ここは俺の家だ。お前に指図される謂れはない!」 出会い頭に隙をついて掠め取れたのは初回だけで、流石に学習能力も適応能力もある相手にそうそう不意打ちのような真似が通じるわけもなかった。にもかかわらず、勝敗という言い方が適切かどうかはさておき、単純に"挨拶"を――かなり一方的にではあるが――交わした回数を数えるならば、カノンの全勝に終わっていた。 「いい加減に慣れろ」 「だから俺は許すと言った覚えはない!」 「挨拶はきちんとしておかないとな。そう習わなかったか?」 「誰にだ! 少なくともお前の兄貴から聞いた覚えはないぞ!」 我ながらに滑稽だ、とカノンは思う。腹の空く時間帯に押しかけては、わざわざ手間のかかる料理を選んで、次に訪れる理由を残して、キスする口実まで作って。八つも年下の男を口説くのに、随分と遠回しで古典的なやり方を大真面目にやる自分は、道化以外の何ものでもない。だが、当のミロがまた、真剣に生真面目に全力で反応を返してくるものだから、ついつい歯止めが利かなくなる。向けられるはっきりとした感情は、俺だけのものだ。それがとても、心地よかった。 「そもそもすり替えるな! これのどこが挨拶だ」 「こればかりは譲れん。どうせ結果は同じなんだ。抵抗しても無駄に時間を食うだけだと、そろそろ諦めろ」 「俺が本気になって、お前に敵わんとでも?」 「くだらんことで本気になるな」 「お前が言うか!?」 一度ならず、二度三度、同じことを繰り返していれば、顔を合わせる度にこの挨拶とやらが付随して来るのだということに、誰だって気づく。それなのに、これまでは殊更出くわさないよう逃げ回っていたものが何故にとおかしくもあるのだが、一度居所を掴まれてからは、ミロは隠れようとはせず、行けば義理堅く扉を開けて、居留守を使うということもしなかった。 ミロがいない時には、カノンは戸口で帰りを待った。その気配に対してだけ、特別に開かれた受容体があるのではないかと思うくらい、鋭敏な感覚はあまさず求める人物の、音のしない足音を捉える。三、二、一……。遅れて、小径の緩いカーブの向こうから想い描いていた姿が現れるまでの数秒は、カノンにとって一日で最も待ち遠しい時間であった。ミロを待つのに苦痛はない。待てば必ず帰って来た。それは一種の安心感でもある。 カノンに感づいても、鈍らせることも急くこともない歩みは、誇り高く潔い性格の故か。主たる自分がこんな訳の分からない闖入者に惑い、行動を乱されるなど、断じて許せることではないとでも、思っているのかもしれない。 「お前も大概に往生際が悪いな。俺はそろそろ帰りたいんだが」 「さっさと帰れ。どけ! 離せ!!」 「俺もそうしたいのだが、誰かがさんざん抵抗するものでな……」 「誰のせいだ!」 「俺のせいでいいから、少し口を噤め」 去り際に走る緊迫感は、戦闘開始の合図である。運びは様々。ソファの上に縺れ込んでの力技もあれば、正面からがっちりと両手を組み合わせ、あわや千日戦争という体勢になったこともあった。しかしそんな時でさえも、最終的には食いしばった歯を覆うミロの口唇に、カノンが落とす軽い口づけで終わるのだ。 嫌がりはするし、抵抗もする。それでも、数に明らかな勝敗の理由は、単純に、戦闘能力の差と結論づけられるものではない。ミロが本気の闘志を示したならば、カノンとて無傷で済むはずもなく、また、そういう意味で言うのならば、カノンの方こそ、ミロに傷を負わせることなど望んではいないのだから。無意識の支配する領分か、多少なりとも含むところのあるものなのか、導かれる解はない。だが、強いて答えをあげるのならば、攻守において、どちらも相手を傷つけることを躊躇う気持ちがあれば、守る方が不利であるということで、理由としておく。それは物理的な意味でも、おそらく精神的な意味でも。 「だいたいキスぐらいでなんだ。初めてでもあるまいに。ただの挨拶だと言っただろう?手紙の最後に付ける程度のものだと思えばいい」 ひとしきりお約束となった行事が一旦の結末をみて、ある時、カノンは自らの所業は棚に上げて言ったのだった。 「俺には手紙にキスするような女々しい習慣はない」 たった今重ね合わせた口をシャツの袖口でごしごしと拭いながら、剣呑な目付きで見上げてくるミロに、カノンは苦笑したものだ。意味が分からなかったのも無理はない。カノンにしてみても、初めは思いつきの、洒落みたいなものだったのだ。 Je t'embrasse―君にキスする― だがそれは、言葉どおりの意味ではなくて、当たり前の手紙の結び、特別な意味があるものではない。親愛を表す単なる挨拶である。 「カミュはフランス人だったな。手紙に書かれているのを見たことはないか。友人なのだろう?」 幼少期よりサガに、"いつか役に立つ時がくる"と叩き込まれたカノンは、各国言語と習慣に、見かけによらず通じている。 何気ない調子で尋ねたカノンに、ミロはふいと俯いて、拗ねたように答えたのだった。 「カミュが俺に手紙をよこすようなことがあるか」 「ないのか?」 あっけらかんと言うカノンを睨み、口をへの字に曲げたミロは、しかし続けられた言葉に、大きく目を見開いていた。 「余程、信頼されているんだな」 感嘆をでも湛えようかという声色に、不可思議な顔を作る。 「……何でそうなる」 言われた方は方で、意味が分からないといった風に首を傾げた。 「離れていても変わることのない、わざわざ手紙などしたためるまでもない間柄だと、思われているということだろう?」 カノンは言い、それから、緩やかに目を細めて笑った。 「親しい友か。俺には縁がない。羨ましいな」 深い夜の海を映す碧眼が、朝の光が差し込んだ時のように明るみを帯びる。ミロは一度開きかけた口をすぐに閉じて、真っ直ぐにその青い瞳で、カノンを見返したのだった。 もう行け、と短く促され、緩く笑った顔のまま、また来る、とこれも決まり文句となった台詞を残し、夕闇に踏み出そうとしたカノンの背中に返ってきたのは、やはり短い一言だった。 ――ああ。 思わずカノンが振り返った時には、声の主は既に扉の内に消えた後だった。 別れ際にかかる時間は、少しずつではあるが確かに短くなっていき、浴びせられる罵声や怒りの形相も、質を違えつつあるようでもあった。それに呼応する形で――正確には、因果関係は逆なのかもしれないが――、普段のミロの態度も、僅かばかり変化を見せていた。相変わらず不必要に近づいてこようとはしない。様子を窺うようにあけられていた物理的な距離が、目に見えて縮まるということこそなかったが、むやみに遠巻きにして警戒することもなくなった。終始張りつめていた緊張が幾分緩み、場合によっては寛いでいるようにも感じられることがあるのは、カノンの勘違いではないだろう。それは、距離感を見定めれば落ち着きを取り戻す動物と、よく似ている。カノンが同じ空間を共有することを、認めつつあるようでもあった。 「毎日毎日ご苦労なことだな。そんなに暇なのか、お前は」 既に恒例となった晩餐に天蠍宮を訪れたカノンを出迎えて、ミロは溜息と共に吐き出した。開けた扉を体で支え、不機嫌そうに腕組みをしてみせる姿は、一見すると侵入者の前に立ち塞がる仁王像のようでもある。が、気持ち、真正面から斜めに体の位置をずらせば、抱えた荷物で両手が塞がったカノンでも、室内に滑り込めるだけの隙間が開く。 「時間を作って会いに来ているのだと思っておけ」 すれ違いざまにちらりと合った横目同士の視線を、すぐに外したミロの脇をすり抜けて、カノンは冗談めかして笑った。ドアクローザーなど当然ついていない古い扉が、勢いよくバタンと耳にうるさい音をたてるのが、後ろで聞こえる。ミロが支えとなっていた体をひらりと引き、後に続いてくるのを感じて、カノンはゆっくりと先に歩を進めた。既に勝手は心得たものだ。こうして訪れた回数も、もう両手を使っても足りないほどになっていた。部屋の間取りはすっかり頭に入っていて、目を瞑っても迷わない程度ではある。 「何が面白くてそんなにやって来るんだ」 後から居間に入って来たミロの呟きを耳聡く拾ったカノンは、キッチンに向いていた足を止めて、呆れたように言った。 「おい、今更それを言うのか? お前がいるからだ」 「そういうことを言っているのではない」 若干決まり悪そうに、カノンの視線を避けたミロの方は、中央のソファへと足を運ぶ。傍に張り付いて案内などせずとも、カノンには必要なものの在り処はとうに分かっているのだと知っているからだ。そしてまた、強引に押し掛けてくるようでいて、不必要なところに勝手に侵入したり、暴こうとはしない、ミロが決して許さんと牙をむく一線を、カノンが弁えているということでもある。でなければ、ミロは自分の縄張りにおいて、少しであってもカノンに自由を許したりはしないだろう。 床に敷かれたふかふかのラグの上に直接座り込んだミロの、やはりふかふかした後ろ頭がソファの向こうに沈むのを、カノンは見やった。寛ぎ体勢に入った証拠だ。こうなると、しばらく動くつもりはない。それ以上、返事をする気がないことを確認して、カノンは天蠍宮に唯一打ち込んだ楔、今や主よりも詳しくなったテリトリーに足を踏み入れた。 幾度も通う間に覚えたものは、なにも部屋の間取りや調味料の仕舞い場所ばかりではない。カノンは手際よく食材を捌きながら、カウンター越しに明かりの下でもぞもぞと蠢く癖毛を盗み見て、感慨深くも思っていた。 ミロは、ソファの周辺が大のお気に入りで、大抵はその辺りで寛いでいた。特にソファを背もたれにラグの毛の感触と戯れているのは、大いに気が緩んでいる時である。黄金聖衣を纏えば厳格で隙がない装いも、一度内に入れば、ラフな服装であまり頓着しない。素足でぺたぺたと歩き回っていることさえあり、カノンがいるのにこれだったら、一人の時はどんなものかと、興味半分やや邪よりに、カノンには気になるところでもある。 意外にものを読む男だということも知った。言い様によってはだらしなく、ソファに横に転がって何をしているかと思えば、食事が出来るのを待つ間、書斎だか寝室だか、カノンのまだ見ぬどこかから持ち込んだ雑多な読み物をめくっていることが多かった。どんなものを読んでいるのか関心を惹かれたが、どうも統一性はないようで、手当たり次第、気になったものをという主義らしい。そのせいか、つまらんと思えば途中で放り出している姿も、往々にして見受けられた。 鍵の使い方にも妙な習慣がある。ミロが中に居る時、鍵が掛けられていたことがないのには、早い段階からカノンは気づいていた。一度、不用心ではないかと尋ねてみたら、愚問だと言わんばかりに鼻で笑われたのだ。 『この俺の住居に侵入しようなどとは、どこの命知らずの賊だ? その勇気に免じて、直々に相手をしてやってもいいがな』 カノンがその命知らずな賊とみなされていないかどうか心配なところではあるが、確かに聖域十二宮という特殊環境の中、鍵なぞあってなきが如くであるので、間違ってはいない。しかし、警告と意思表示くらいの意味はある。ミロが不在にしている時には必ず、戸口の錠は下ろされているのだった。 全身を総毛立てて威嚇してきた以前の姿は、もうそこにはない。だからといって、完全に無防備になるというのとも違っていた。カノンが話しかけても面倒くさそうにおざなりの返事しか返してこない時は何かに集中している時で、無言が続けば話しかけるなのサインだ。カノンのことを全く忘れているわけではなく、見ていない時でもカノンの動作に意識を配っていることは感じられた。張りつめるでも、緩み切るでもないその空気は、この微妙な距離感を表している。 ここに来なければ知ることもなかった、些細な日常的事柄の数々。それは他愛もないことには違いないが、カノンにとっては一つ一つが発見で、全てが新鮮なことだった。 「良くやるな」 背後に気配を感じても、話しかけられるまで振り返りはしない。ミロが、踵から頭、肩から伸びる腕、指先に至るまで、注意深くカノンの動作を観察する時間を与える間、カノンは手元から目を離さずに作業を継続する。 「何がだ?」 努めて気のない声色と所作を繕って、カノンは答えた。急激な動きは、警戒心を刺激する。以前、無理やり料理教室もどきに巻き込まれたのに甚く懲りたらしく、カノンが厨房に立っている間は中に足を踏み入れようとしなかったものだが、しきりに味見に呼んでやっているうちに、ここのところ漸くトラウマが解消されてきた様子なのだ。 「何でお前、料理が出来るんだ。似あわんにもほどがある」 「少しは助かっているんじゃないか? おかげでまともな飯にありつけているだろう」 こんがりと焼けて香ばしい匂いのする串から一片、スブラキのポークを外してとりわけた小皿を片手に、カノンがくるりと振り向くと、ミロは片側の眉をぴくりと上げた。緊張感は未だ去らぬらしい。カノンは腕だけ伸ばして、小皿を渡してやった。 「お前が勝手にやって来ているだけだろうが」 可愛げのない憎まれ口で、同じく腕だけ伸ばして受け取ったミロは、口いっぱいに頬張った肉を嚥下してから、仏頂面で皿を突き返した。 「焼けている」 まるで進歩がない。本当に、何かの大型猛獣を餌付けしているようだ。言うことには進歩がないが、自ら近寄ってくるようになっただけ、少しばかりは懐いてきたものかと良い風に捉えれば、気分も上向きになるのだから単純なものだ。カノンは、料理を盛り付けた大皿を器用に手に三枚持ち、やや離れた場所で壁に寄りかかっているミロの方へ顔を向けた。 「自分で作らねば誰も面倒を見てくれなかったからな。やむにやまれず、だ」 流れるような動きで料理を食卓へ運んでいくカノンを、ミロは同じ姿勢を崩さず眺めていた。手伝おうという発想は、端から期待してはいけない。 「食うだけなら、こんなに凝らんでもいいだろう」 カノンのいなくなったキッチンに、するりと入れ替わりで入り込んだミロは、台に残っていた塩漬けのオリーブを口に放り込んで、咀嚼しながら言った。サガならば、行儀が悪いとたしなめるところであるが、生憎カノンはどちらかというと注意される側の人間である。ついでにミロには滅法甘い。つまみ食いの一つとっても、和んでしまうのだから末期だと思う。 「あいつは放っておくと碌に――」 途切れた声に、二個目のオリーブの実をつまんでいたミロは手を止め、不審げに視線を移した。テーブルに皿を置こうとしていたカノンの表情は死角にあり、ミロからは窺い知れない。 ゆっくりと体を起こすと、幅のある壮健な肩から、長い髪が腰回りに流れ落ちる。 「お前が美味そうに食うのが、見たいからだ」 向き直ったカノンの、どこにも非の打ちどころのない、かの兄と見紛う完璧な笑顔に、ミロはひどく、嫌そうな顔をした。 元来、一つ事を決めたら、極めるまで突き進む性格である。そして己には、それだけの才覚があると、信じ切れる傲慢さも兼ね備えていた。そうでなければ、大地と海の神になろうなどと本気で考えたりはしないだろう。更にこの男が手に負えないのは、地上支配ほど荒唐無稽なものでなければ、大方のものは人よりも優れた形で、そつなくこなしてしまうというところにある。ただし、それがカノンにとって本当に幸いなことだったかは、一度幕を閉じた彼の人生を振り返ってみると、一概に断ずることの出来ない命題だということは、余談としておく。 次元の違う話ではあるのだが、カノンの料理が今のレベルに至ったのも、この性質によるところが大きい。ただしそこには、他者の存在が介在した。幼い頃より隠される人生を強いられたカノンにとって、食糧の調達は必要に迫られた結果であり、腹を満たすという現実的な目的以上のものを、カノン個人としては食に求めていない。生活面に関して甚だ効率主義で淡白な傾向のある男が、味や彩りといった、第一には余計なものとして削ぎ落とされたはずのものに、こうまで拘りを持つようになったのは、凝り性極め体質が刺激されたのに加え、振る舞うべき人間の影なくしては有り得なかった。執着と呼ぶか、愛着と名づけるか、それは大分形を違えているとはいえ、同じ一人の男の中に今でも根を張る感情である。だから言ったことにも、嘘はない。今は、ミロに食わせたいから作っている。 食う時は食う、腹の虫が治まって初めて、話す方に口を使い始めるミロと、見守るカノンで構成される食卓で交わされる会話は、それほど多くはなかった。別段いつもと変わることなく進んでいた夕食の風景の中で、様相が異なることがあったとすれば、取り分けられた皿の中身が空になり切らないうちに、口火を切ったのがミロだった、ということくらいである。 「お前、こんなところで油を売っていていいのか」 これは、気まずさを感じさせない沈黙と、鬱陶しくない範囲での会話を自然に回していくカノンが、気をつけていなければ見逃す程度に、普段より口数が少ないことと、同じくらいの些細な違いであった。 一呼吸置いてから、ミロはその名を出した。 「サガを放っておいて」 カノンは、まだ半分以上残っている自分の皿に目を泳がせて、やはりなと、存外敏い男からは見えないように自嘲的に口元を上げた。 うっかりした。和み過ぎて滑らせた口を取り繕っても、刹那過去に思いを馳せて、ミロといる時にしては珍しく、うわの空となったカノンに気づかないほど、この男は鈍くはない。そしてこの微妙で面倒くさい双子の関係に、真正面から言及することを躊躇うような男でもないことは、既に知っていた。 「教皇の間には嫌というほど世話をやきたがる連中がいる。俺の出る幕ではない」 その無遠慮さが、無神経から来るものではないことは分かっている。乱暴なやり方こそすれ、思ん量りに裏打ちされたミロの性質には、幾度となく救われてきたところでもある。だからこそ、カノンは自分の中に燻る心情を、ミロに知らせたいとは思わないし、また、知られたいとも思っていなかった。 カノンは、用意していた返答をそのまま口にした。 「サガにとっても慣れた場所だ。ずっと離れていた双児宮よりも、今となっては、勝手を知った寛げる場所なのかもしれん。それに今更、十年以上も離れていた人間同士が、いきなり四六時中顔を突き合わせていて休まると思うか? せめて住む場所くらいは別でないと、息も詰まる」 言ってひょいと肩を竦めてみせる。これも嘘ではない。サガの場合は、自らの罪悪を忘れずにいるためなのかもしれないが、とカノンのペシミスティックな部分が心の中で付け加えた。 口と心の声でそう言いはしたが、サガが教皇の間に留まると言い出した主たる理由は別にあるということも、カノンは理解しているつもりだった。同時に、嫌というほど分かっていた。理解していたからといって、通じ合えるとは限らない。お互いに向ける感情が以前と質を変えたとしても、歩むべき道は変わらず平行に伸び、交わることはないのだ。もう、十代の餓鬼ではない。良くも悪くも大人になった。そして色々なことがあり過ぎた。 微妙な温さをぶら下げて晒すよりは、険悪な距離感を装った方が、遙かに分かりやすく安定を生む。これで納得しろ、という願いが滲んだのも、否定はできなかった。 「そう思っているのなら、何故、お前は双児宮に居つかない?」 だが返ってきたミロの言葉は、カノンの期待とも予想とも違っていた。 「お前、ほとんど双児宮にいないだろう」 天蠍宮の食糧貯蔵庫が日に日に充実していくのに対して、双児宮の厨房は寂れたまま。カノン以外が誰も踏み入れることのない、生活感のまるでない空間が、カノンの頭を掠めた。そこには、斯く言うミロも、訪れてきたことはない。 「そんなことはないぞ。毎日、きちんと帰っている」 「寝に帰るだけをいるとは言わん」 視線を滑らせて、カノンは息を吐いた。よくも気づく、と思う。好んで話題に乗せたことのないカノンの日常の現実に、ミロもまた特別関心を示したことはなかったはずだ。 目を合わせることを怖れない、いつでも真っ直ぐに見詰めてくる青い光は、カノンを捕らえて逃さない。その光に心の奥深くを射抜かれることを、心地よいと感じるのが自分の影の部分なら、眩し過ぎるとたじろぐのもまた、同じ自分の影である。だからこそ。 「ミロ、ついてる」 「は?」 ミロが聞き返すよりも前に、カノンは口角の脇に口唇を寄せて軽く触れてから、素早く舌でなめとった。軽いキスのような、そうでないような。 「またお前は……!!」 「飯がついてた。拭いてやっただけだ」 「普通にやれ。というか、自分で出来るわ!」 いきり立つミロに、どこかほっとしたカノンは、はぐらかすような返事を選ぶ。 「お前も最近手強いからな。たまには工夫しないとな」 「そっちも普通にやれ!」 「普通にならしてもいいのか?」 「いいわけあるかっ!」 一気に四散した揺蕩う大気と、戻ってきたいつもの空気の中、カノンはミロの頭頂部にはねる豊かな髪の中に手を差し入れて、ぐしゃぐしゃとかき混ぜた。 「俺はここに来たいから来ている。お前がいるからここに来るんだ」 「それはもう聞いた」 カノンがミロにするにしては、わざとらしく乱暴なその仕草に、ミロは乱れた頭を煩そう振った。 「双児宮には誰もいないしな」 そう言って、いつもと変わらず笑ったカノンに、ミロはちらりとだけ目をやってから、すぐに伏せた。 ふと思う。いつもと変わりはないのだけれど、どんなに完璧なものよりも、胡散臭いものよりも、この笑顔は見たくない、と。 一方的な逢瀬の終りは、カノンが纏う雰囲気を変えることでもたらされる。どういうところに違いがあるのかカノン自身には分からないのだが、帰ろうというカノンの意図を敏感に感じ取るミロが僅かな緊張を示すことで、カノンもまた、自分にも微細な変化が起こっていることを知るのだ。 本日分の挨拶は先ほどのものでカウント。せっかく和らいだ空気を壊したくはないという気持ちも手伝って、カノンは別れの言葉だけを告げて、部屋を後にした。守りに入っているとも取れるそんな思考に、思いの外気力が萎えているものかと軽く鼻白んで、ドアノブに手をかけようかというところで、唐突に後ろから声がかかった。挨拶を巡る攻防でいかに大騒ぎした後でも、律儀に見送りには出てくるミロである。戸口近く、カノンの数歩後ろまでやって来ていた。 「明日は郊外の任務だ。いつ帰るか分からん。来ても無駄だ」 いきなり告げられたぶっきらぼうな言葉に、カノンが振り返って見ると、ミロはその視線から外れるようにふいと横を向いた。 「勘違いするな。一晩中家先で待たれても敵わんからな。言っておくだけだ」 共に夕食をとろうと、約束を交わしているわけではない。勝手にカノンが来て、勝手に食事を作っていく。先だってミロが言ったことが、この関係のありのままの姿だった。そのはずなのに。初めての許容ともとれる言い方に、カノンが虚を突かれている間に、ミロは次の言葉を告げた。 「毎日来るな」 浮きかけた感情に水をかけられたように、気持ちが上下に振れる。やはり、どこか、調子がおかしい。 「迷惑か」 「そうは言っておらん」 どうにか平静な声で言ったカノンに、ミロは逸らしていた目を戻し、首を振った。 「無理に時間を作ってまで来る必要はない。二、三日顔を見せなかったからといって、お前のことを忘れたりはせん」 一度瞬きをしてから、はっきりとした口調で、しっかりとカノンを見て、ミロは言った。 「来たい時に来ればいい。俺は大抵、ここにいる」 カノンはドアノブにかけかけていた手を、一瞬迷ってから、ゆっくり放した。 どうしてこの男は、いとも容易くカノンを喜ばせ、そして苦しくさせるのだろうか。胸の奥に触れるのは、どうして優しい慈愛の女神の手と、鮮烈な赤い爪なのだろうか。 自らの欺瞞をそうと知りつつ自らの中で飼い慣らしている男が、うっかりと覗きみせた本音を、この、実は優しい男が聞き逃せなどしないのだ。 カノンは乾いた真綿に染み渡るように広がろうとする何かを、胸の内に抑え込んで言った。 「俺は自分を人質にとるような真似は好かん。だからお前は、何も気にする必要はない」 片側の口角を上げた顔は、大層意地の悪い顔に見えればいい。 「言ったぞ? 隙があれば、つけ込ませてもらうまでだ」 だが、ミロは怯んだ様子も見せず、カノンを見返してきた。 「白々しいことをぬかすな。俺の前で、今度そんなふざけたことを言うようなら、二度と天蠍宮の中には入れん」 しばらく視線を交わした後で、白旗を上げたのは、今度もカノンの方だった。 「まったく。敵わないな」 ふ、と息をついて、降参だとばかりに両手を上げる。お前がそう言うなら、いいんだろう? もたげた悪戯心を顔に出して、一歩踏み出し、二歩踏み出し、カノンはミロの目の前に立った。僅かに勝る体格に任せて、至近距離から見下ろす。毎日の別れ際の出来事を思い起こせば、伸ばせば顔に手の届くこの距離は、考えなくても非常に不用心な距離で、ミロによくみる緊張が走るのが、カノンにも分かった。 ――が、カノンの意図は明確なのに、いつまでもミロの両腕は下におろされたままだった。いつまでも抵抗を示す道具としての役割を果たそうとはしない手に、突としてカノンが顔をあげた先には、挑むよう睨み付けてくる青い瞳があった。無言で見交わす視線に艶っぽい雰囲気などこれっぽっちも含まれてはいない。戦闘でも始めそうな、射るような眼力にもかかわらず、やはりその手は握りこまれたまま、動こうとはしないのだった。 カノンが伸ばした腕を肩におき、引く力を込めると、それに反発して触れた体が硬く強張るのが伝わってきた。無理に引き寄せることはせずに、つかんだ肩を支えに、自らが今一歩顔を近づける。真上から落ちる玄関の電灯の光が遮られ、カノンの影をミロの顔に落とす。 堪らず先にぐっと目を瞑ったミロの顔を眺めて、カノンは場違いに悠長な感慨にふけっていた。迷い、ではない。一度動き出してしまったら、もう止められない。抑え込んだはずの何かが、再び込み上げてくるのを感じながら、動き出す直前の感情を、享受した。それは、覚悟の儀式に似ている。 流れる時間を訝しんだミロが瞼を開きかけた時に、それは動いた。奔流となる衝動に身を任せ、抱いた肩を勢いよく引き寄せる。衝撃で言葉を発しようと開きかけたミロの口唇に、カノンは噛みついた。息をふさがれて、ミロの喉が苦しげに音を鳴らす。口唇を食み、押し付けるキスは、今まで何度も交わしてきた挨拶の範疇に入れておいてもいいものだろうか。違う、と本能の部分が叫んでも、理性の領分は踏みとどまることを選ぶ。この愛しさを、どうすればいい? 動いた一瞬のままに留まり、長い時間を合わせたままに、進みもしない。ただその時を、共有した。 ミロが我慢できずに喚き出す直前で、カノンは塞いでいた口を離した。 「……ッ、長い!!」 カノンが離れるのと、ミロが瞑っていた目を開けて全力で睨みつけてきたのが同時で、離れたカノンの顔を見てミロがはっとした表情を作ったのが、次の瞬間だった。怒鳴り声を上げた勢いを殺し、眉間に皺を寄せて俯く。自分の顔に何が浮かんでいるのか、鏡を見ずともカノンには分かる。分かりながらも、こみ上げるものを隠すことが出来なかった。あれほど隠してやると、誓ったものを。 ミロは僅かに体を引き、それにつられて、もう力の抜けていたカノンの腕は取り残され、だらりと下に落ちた。しばらく、いたたまれないように顔を歪めていたミロが、不意に真顔になって言った。 「俺は俺のものだ。誰のものにもならん」 困惑でも苦悩でもない、眉根に込められていた力を抜いたその表情を言い表すなら、努めて作った無表情に近く、ただ、とても、固い意思が宿っているように、カノンには思われた。 「構わんさ。お前はそのままでいい」 直前の、どうしようもない愛しさが漏れ出でた笑みをするりと内側に潜め、制御下にある整った笑顔に戻りながらも、カノンはなお、穏やかに言葉を続けた。 「だが、俺はお前のものだ。好きにするがいい」 「……お前のような面倒なのは、願い下げだ」 「それは残念だ。その気になったらいつでも言え」 からりと言ってのけたカノンの顔は晴れやかで、間に在った数分の時間を切り取り、隔離したまま、元通りの冗談めかした会話を繋ぐ。月が雲間に隠れたひと時の間だけの秘め事が、再び光が姿を現した時には、まるで何もなかったかのように。 さよならにキスを。 ほんの言葉遊びに過ぎなかった。だが、確かにそれが、始まりだった。 |
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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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