第4章 Je t'embrasse(4)


 教皇の間から下る階段で出くわす人物は、大抵決まっていた。それが地理的な問題によるものなのか、頻度の結果か、はたまたカノンがサガを残して下へ向かうタイミングを見計らってのことなのか単なる偶然の積み重ねか、どれだとしても、ふんわりとした髪を風に舞わせて双魚宮から上ってくるのは、遠目にも分かる程見目麗しい男だった。
 夕暮れ時の淡い紅色に染まる空を背景に、石段を上り来る男の纏う黄金聖衣は、優雅な輝きに包まれていた。同じ空の色、同じ金色の鎧に一瞬の幻視を見ても、呼び起こされる印象は、これより数個下の宮で、太陽の光をその身に集め佇んでいた男のものとは違う。ほんの些細なきっかけからも、独りでにその姿を思い描いている自分に、カノンは気がついていた。瞼の裏に焼き付いている一齣は、色褪せるどころか、時が経つほどに、鮮やかな色彩を増し続けている。
 数段の下で顔をあげたアフロディーテはカノンを見て、その美しい顔に穏やかな微笑みを浮かべた。
「随分ミロを甘やかしているんだな」
 微笑みを湛えながらも、馴れ合おうとは決してしない。何度か行き会うことはあったが、香気漂う魚座の黄金聖闘士が声をかけてきたのは、この時が初めてであった。
 初めてにしては随分と意味深な台詞に、思い浮かべていた名を聞いたとしても、あからさまに動揺してやるほど、カノンは素直にはできていなかった。さらりと切り返す。
「そうでもないぞ。大人しく甘やかされてくれればいいんだが、なかなか手強くてな」
 相手もまた、カノンのことを狷介な男と認定してくれているとみえる。足を止め一拍の間を置いた後に、朗らかに声をあげて笑った。
「少しは手加減してやることだ。カミュはああいう男だからね。ミロは構われるのに慣れていないのさ。押してばかりいないで引いてみればいい。そんな駆け引き、君には容易いのだろう」
 カノンとて、そう断定的に言われるほど、分かりやすくはないつもりである。だがそれ以上に、他人に干渉せずさせずを旨としているらしいこの男にしては、すこぶる珍しい振る舞いを、カノンは意外に思った。色恋沙汰、と言っていいものかどうかは定かでないが、少なくとも、この手のことにすすんで首を突っ込むようには見えないものを。
 無言をもって答えとするカノンの心中を察してか、アフロディーテは笑みを浮かべたまま言った。
「別に深い意味はないよ。単に興味があるんだ。君たちに」
「興味がある、か」
 腹の探り合いなど時間の無駄だと言わんばかりの豪胆さを、外見は巧みに隠してしまっている。含ませるようでいてはっきりした物言いには、不快感よりも好感が先んじた。別に聞かれて困ることでもない。基本的には用心深いカノンにしてもやはり珍しく、独り言のように風に乗せた呟きは、思った以上に柔らかい声音となった。
「あまり、そういうことをしたくないんだ」
 誤算と言えば、誤算だった。そのことに、カノン自身が驚いた。しかし、何よりも誤算なのは、その自分自身のことなのであった。
 もっと隠しごとが上手いと思っていた。欲しいものを手に入れるためなら、かかる時間や手間など問題ではない。周到に準備して、外堀から埋めて、己の心情など隠し切って待つくらい、造作もないことだと。だが、ミロに対しては何となく、そんな手練手管を駆使するような真似はしたくないと、思っている自分がいた。
 真摯でありたい。あの男に対しては。
 ミロに何かを強いたいわけではない。それは本心だった。ミロにいらぬ圧力をかけて追い詰めたくはない。しかし、いざ目の前にしてみれば、声色、面差し、纏う気にまで溢れ出て、隠し切れずにいることも、カノンは自覚していた。湧き出すものは、際限を知らない。誰よりも一番、想いを伝えたい相手は、今は誰よりも、見せずにおきたい相手でもある。
 へえ、と嘆息して楽しげな目をしたアフロディーテに、カノンは仕方がないといった風に、言葉を繋いだ。
「好意に胡坐をかいてくれるようなら、少しはやりやすいんだがな」
「でも、そういう奴じゃないということは、分かっているんだろ」
 カノンが見せた苦笑を返事と受け取って、アフロディーテは続けた。
「安心したまえ。情は深いが流される男ではない。それにああ見えて、意外に敏い男だからね」
「よく、知っているんだな」
「昔からの付き合いだ。彼もずっと聖域にいたから。……あまり相手はしてやれなかったけれど」
 一瞬だけ遠い目をしたのはカノンの見間違いだったか。すぐにアフロディーテは、大輪の華のように顔を綻ばせた。
「羨ましいかい?」
 視線には悪戯っぽさが滲む。
「少しばかりな。だがそれより」
 月の光を映し、くゆらいでいた青い瞳と、表情の抜け落ちた横顔を思い出すと、きりりと胸が詰まる。カノンは、フッと笑った。
「良かった、と思ったんだ。思っていたほど、あいつは孤独でいたわけではなかったんだな」
 聖域にいた少しばかり年若い、あの誇り高い黄金聖闘士は、同じく聖域にいた彼らには、どう見えていたのだろうか。十三年の聖域に、共に在りたかったという羨望は、意味を成さない。ただカノンが知らないその頃のミロが、当人がたとえ覚らぬところでも、多くの親愛に包まれていたなら良かったと、今は思える。
 サガと同じ顔が作る違った眼差しに、アフロディーテは目を細めた。
「……君は、やっぱりサガとは似ていないな」
「なんだ、褒め言葉か?」
「どちらでもない。ただの感想だ」
 何故だか、それまで湛えていた微笑をすと内に潜めたその顔が、この男が見せた中で、もっとも美しいもののように、カノンには感ぜられた。
――どうしようもない。諦めに似た感情もまた、真実である。ミロを前にする度に生まれ、募るものは、己の心の赴く行方そのものであり、自覚したところで止めようがない。
 カノンは、少し迷ってから、口を開いた。
「アフロディーテ、ひとつ、頼まれてくれないか?」

§  §  §

 天蠍宮の居宅で一人、ミロはしんと静まった室内に、微かな戸惑いを覚えていた。思いの外早く任務の方が付き、まだ日が傾く前に、期せずして戻ることとなったのである。
 窓から射し込んだ日差しが、明かりをつけない部屋に、うっすらと光の軌跡を描いていた。自分以外誰もいない室内は、当然のことながら、自分のたてる物音以外人の音はなく、外から漏れ聞こえる、葉が風にそよぐ音や鳥の鳴き声を、耳が殊更敏に捉える。自分しかいない、そのことを改めて意識するのは、裏を返せば、自分以外の人間がこの空間にいることを知ったということでもある。
 柄にもなく所在無げに迷っていた身を翻し、ミロは座り馴れたソファへと腰を落ち着けることにした。一人の時間の使い方に困ることは、あまり経験がなかった。そもそも大体が、一人で過ごしてきたのだから。本でも読んで時間を費やすのも、昼寝をするのも、そのものが目的であって、何かを待つまでの時間潰しという感覚を、ミロはあまり持ったことがない。だからだろうか。今のこれが、どうにも落ち着かないと感じるのは。
 聖戦以来、多忙が続いた中、せっかくできた暇だ。久々に聖域の外に出て、そのまま飯でも食ってこようか。賑やかな街並みに明るい街灯、ちょっとした思いつきに心が躍っても、ソファに深く沈むことを決め込んだ体勢は、実行に移す気はないのだということを物語っていた。
 また、飽きもせずに来るんだろう。あいつは。
 ミロはごろりとソファに仰向けに寝転んで、最近不本意なことに見慣れてしまった顔を、頭に浮かべていた。
 別に約束しているわけではない。待たねばならない義務はない。来るという確証もない。
 だが、きっと、あいつは来るんだろう。
 次々とカノンのペースに巻き込まれて、距離感がうまく量れずにいることも事実だった。そうだ。もともと必要以上に自分の領分に入り込ませない性質なのだ。それが、カノンを相手にすると境界が曖昧になり、いつの間にか隣にいることが普通のことのようになっている。
 カノンの言うところの別れの挨拶もだ。何が嫌なのかと改めて聞かれると、それほど嫌なことでもないような気がする。良いわけでは全くないのだが、減るものでもないし飯代だと割り切ってしまえば我慢できなくもない、という発想自体あの男に丸め込まれているようで気に食わないが、結局向かい合って飯を食うのもそのあとのも、なんとなく習慣になってしまっていた。傍にいる居心地は、それほど悪くない。そんな気さえしていることを、どうしても認めたくはないような気もする。
 言うほどカノンが暇ではないことは、分かっていた。ぶらりと立ち寄るようにやって来て、帰っていく方向が、必ずしも下ばかりではないことにも、ミロは気がついていた。カノンが言う、時間をつくって会いに来ているという言葉が、その言葉通り本当なのだということも。
 何故そこまで、という疑問がないわけではない。だが、返ってくるのが分かり切っている返事と、口に出さない方の理由、おそらく両方知っている自分は、当人にそれを問うことも出来ないのだ。
 あの男は、きっと困った顔さえ見せずに、曖昧な面で濁していくのだ。
 それこそ押し倒され組み敷かれたような状況でも、その先までカノンが迫ってくることは、最初のあの時以来、一度もなかった。用を足せば、それまでの執拗さが嘘のように、さっと引いていく。波打ち際の海の水のようだと、以前にも思ったことがあった。寄せてきては足を浚い、掬われまいと身構える間もなく返っていく。全て曝け出しているようでいて、その実、飄々と掴みどころがない。こちらの懐にするりと入って来るくせに、自らの底を覗かせようとしないのが、気遣いとか優しさとかそういう類のものであったとしても、その一方的さが、腹立たしいようにも感じられた。かといって、それを見せろという権利が、今の自分にあるとは到底思えなかった。
 応えもせずに、興味本位で踏み入れて良い部類のものではない。普段は軽い調子で、そんな素振りなどおくびにも出さないが、ふとした時に見せる穏やかな視線、それに心安さを感じていた時期は過ぎようとしていた。
 嫌ではない。嫌ではないが、それだけで甘んじて良いような、軽いものではないように思う。ならば、その気持ちに対応するものがあるのかと言われると、よく分からない。中途半端にぶらさげた今の状況は不誠実なものにも感じられるが、かといって今になって拒むのも男らしくないように思える。
『大切に思うことを、許してくれないか』
 どうして駄目だと言えなかったのか。それはカノンの真剣さが痛いほど分かったからで、そして、この居心地の良さに安穏と甘えていることが、堪え難い焦燥と居心地の悪さをもたらすのも、やはり同じ理由からなのだ。

 日の暮れる刻限、天蠍宮に差し掛かったカノンは、慣れない感覚に首を傾げた。門扉を通過し、玄関へと足を運ぶ段になって、それは確信へと変わる。
 ミロは中にいる。そのこと自体は、然程珍しいことではなかったが、いつもと気配が、ごく微妙な差においてだが、違うように思えた。何と言えばいいのか、ミロ固有の凛然とした小宇宙が薄れ、しかし消えるわけでもなく、夕凪のような静けさを帯びている。
 呼び鈴を鳴らそうと上げた手を下し、カノンは代わりにドアノブに手をかけた。ガチャリ、少しの抵抗があってから回ったノブに押す力を込めると、扉は簡単に内側へと道を開けた。思った通り、鍵はかかっていない。カノンは、音をたてないように後ろ手に扉を閉め、中に足を踏み入れた。
 明かりも灯されていない室内は薄暗く、窓から入る僅かな光を頼りに、中の様子を窺い知る。居間の窓に掛けられたブラインドは、開け放たれたままだ。カノンはミロの気配を辿って、室内を注意深く探った。中央から流れてくる確かな気配、しかし動く様子はない。息を殺して近づき、真上からその元を見下ろす。
 ソファの上で、豊かな髪が上下していた。丸くなって寝息をたてているミロの姿に、思わず苦笑が零れ落ちる。
 何が命知らずだ。不用心もいいところだ。これが俺だったからいいものを。
 広いソファに悠々と寝そべっている普段とは異なり、身を丸くして寝入っている様子は、やはり猫科の何かを彷彿とさせる。どこか愛嬌のある姿の割に、難しい顔をして顰めた眉が、時折ピクリと動くのが何とも可笑しい。いったいどんな夢を見ているんだか。下ろされた瞼の下で、眼球が動くのが分かる。
 その顔を覗き込んでいる自分の顔が、緩んでいるだろうことは想像に難くない。ソファの背から正面に回り込み、カノンは腰をかがめて膝をついた。ミロのお気に入りのラグの長毛が、柔らかく脚に纏わる。改めて近くで見るミロの顔は、ややきつめで、太い眉と彫りの深い、男らしい造形をしていると思う。これを美しいなと感ずるのは、先刻出会った万人が美しいと評する美しさを感じる部分とは、おそらく違ったところが刺激されているのだろう。今は隠された青い目を縁どる睫毛は長く、瞬きでもするように震える――と、刹那、それに口づけたい衝動に、カノンは駆られた。
 俺だからこそ、まずいんじゃないのか。
 先ほど思ったことと、正反対のことが不意に頭に上ったのを、カノンは打ち消した。打ち消しながらも、のびた手はミロの頭の上で止まり、しばらく中空を彷徨った。
 触れたい。触れれば、その髪は手に優しく、口唇が柔らかいことを知っている。
 間近まで寄せた顔に 踏みとどまれと命じるのは、瞼の下に眠る青い瞳だった。ミロの瞳の色が好きだ。火を宿した激情と覆い尽くす海の抱擁を同時に示す瞳に、見詰められたい。その視線に射殺されることがあっても、背けられることには、きっと耐えることが出来ない。
 カノンは伸ばしかけていた手を、葛藤と共に握り込んでから、深々と息を吐いた。再び開けた距離で一息ついて、それから、無造作にミロの額にかかった前髪を払って一言、声をかけた。
「ミロ」
 薄く開いた瞼裂から、透明に冴える青い瞳が現れて、カノンはほっと安堵の溜息をもらす。二、三度瞬きをしてからそれは、くるりと動き、ぼんやりとした視界の中に、カノンの碧い二つの瞳を捉えた――。
 赤い閃光が至近距離で閃いたのを、カノンはすんでのところで躱した。背後で何かが抉られる音に気をやる間もなく、二撃目。
「ミロ!」
 立て続けに向けられる容赦ない攻撃、が、狙いがいつになくぶれていることに、カノンは疑念を抱いた。戦士としての本能が、瞬時の判断を下す。距離を取るより近づくことを選び、繰り出される衝撃を掻い潜って、その発端たる右手を掴み取る。閃光が掠めた痕に痛みが走るが、構ってなどいられない。
「落ち着け、俺だ」
 カノンは掴んだ腕を引き寄せて、跳ね起きたミロの体ごとソファの背に押し付け、その上に覆いかぶさった。もう片方の腕は背中に回し動きを封じる。暴れようとしたミロを、自らの体で抑え込んで、カノンは背に当てた腕に力を込め、耳元で宥めるように言ってやる。びくりと戦慄いたミロの鼓動は早く、荒らいだ息が、重なり合った胸から、直に伝わってきた。
「そんなに荒れた息では、獲物は仕留められんぞ」
 分かりやすいほど荒れた息遣いに、カノンはミロの動揺を知る。耳元で吐き出される息は、それでも徐々に、肩の上下動と共に落ちつき、そして腕の中で大人しくなった。
 攻撃する気配がやんだことを確認して捕らえていた腕を離すと、そのまま抵抗なく下に降りた。両腕でしっかりと抱きしめて、背中を擦ってやる。
「離せ」
 ようやく整った息の下で、短く命じたミロの声に、カノンは大人しく従った。ソファから退いたカノンの目に入って来たのは、奥歯を噛みしめ、眉根を深々と顰めたミロの姿だった。
「勝手に入ってきて悪かった。だが、お前も悪いんだぞ。だから、鍵くらいしめておけ、と」
「…………違う」
 絞り出すように言ったミロの声に、カノンは黙った。
 気づかないなんてことは有り得ないのだ。黄金聖闘士、いや、聖闘士であれば。まして、眠り続けていることなど。
 いつの間にだ。触れられるほど近くにいるのに気もつかず、眠りこけていられるほど、この男の存在が身に馴染んでいる。そこまで気を許しているつもりなどなかった。なのに、それなのに自分は、カノンに対する答えを、まだ持っていない。
 誰にぶつけることも出来ない、自分に中に留め置くこともままならない。苦悶、焦燥、やり場のない感情、全てを吐き出すように、ミロは言った。
「お前はっ、……俺をどうしたいんだ!」
 それでカノンは、ミロの言う意味を理解した。
――そうか。俺のせいなんだな。
 しかし。
「それを俺に言わせるのか?」
「……っ」
 どうしようもないのだ。
「全てお前の望むようにしてやりたいんだが」
 カノンは眦をさげて困ったように言った。
「悪いな。こればかりは譲ってやるわけにはいかんのだ」
 俯いて、自らの握りしめられた拳を、眉間に皺を刻んだままの苦しげな表情で睨みつけているミロに対し、カノンは諦めを含む受容の表情を浮かべていた。
 カノンがミロの顔の脇に流れるひと房の髪を掬うと、ミロは首を動かさず、目だけでそれを追った。手からこぼれる髪の、指先に残ったくるりとはねた毛先に、カノンはそっと口唇を落とす。それは、この男にしては、とても遠慮がちな仕草だった。
 口付けた髪先を、愛しさと寂しさと、諦めの混じった顔で数秒見詰めてから、カノンは無言で立ちあがった。足音が室内に響き、遠ざかる。
 閉じかけた扉の隙間から、ミロが小さく呻いて、固く握った拳をソファに押し付けているのが見えた。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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