戦士の宿命が身に染み込んでいるミロは、ひたすら縄張りを固辞するかに見えて、執着の残るものを置いて発つということは、本能的に避けようとする。強すぎる所有権の結果は、ごく少ない所有物と、意外に整頓された部屋に表れていた。嫌いなわけではないのに、世話の必要な生き物を近くに置こうとしないのは、再び戻ってこられるとは限らないという無意識が働くせいである。
『心残りは邪魔になるだけだ』
植物の一つでもあれば慰めにでもなろうかと、自前の紅茶を注ぎながら勧めた最後の宮の守護者に、両隣の不在と友人の旅立ちを経て変わりゆこうとする少年がかつて言った、短くて断固とした答えだった。その意味で言うのならば、薔薇の香りで閉ざされた居宅に住まう守り人の彼は、他の誰よりも自宮への執着が強いということにもなる。これはある面において、的を射ている。
ミロの居宅に鉢植えの一つも置かれていないことの意味を知る、数少ない者の一人である同行者は、そのミロが道程のさなか、折に触れては気遣わしげに、苛立つようなそぶりを見せるのに、気づきながらも指摘するということはせず、ちらりと意味ありげな一瞥を投げかけるだけだった。
今度は意図してのことではなかったのだから、何も気に病む必要はない。が、繰り返し胸の内で唱えたからといって、さっぱりと心が晴れるわけでもなかった。突然持ち上がった厄介事に急遽召集されて任地に赴いたきり、しばらく天蠍宮に戻らぬこととなったのも、実際、やむを得ぬことだったのだ。任務を請け負ったのが黄金聖闘士二人ということも、用向きの重さを示している。
ミロとアフロディーテが役割を終えて聖域に戻ったのは、出立から数えて五日後のことだった。遠方ではどうにも気になって仕方がなかった聖域に、帰れる目途が立った時には、ミロは安堵さえしたものだった。しかし、聖域に近づくにつれ、徐々に気の重さが膨らみ、今ではずしりと重い雲が頭上にたちこめているようである。ミロの眉間の皺は、報告を終えて教皇の間から石段を下る時には、一層深さを増していた。
カノンとは、あれ以来会っていない。何も告げずに出て来たのは、急な用務上致し方のなかったことだし、ミロに出た指令の出所が教皇代理、すなわちサガであるのだから、自ずと不在は伝え聞くであろう。だから、問題はない。はずだ。そして、ミロの帰還も、同じく、知ることになるのだろう。
「難しい顔をして迷っているなんて、らしくないじゃないか」
数日の行動を共にしていた男は、双魚宮が眼下に確認できる段になって、やっと口を開いた。この男も、実は大概に人が悪いのかもしれない。
「まだ刻限も早い。ミロ、市街にでも出てみようか」
「は?」
口癖というには頂けない、全く失礼な返答であるが、悪気はないのを知っているアフロディーテは、咎めだてするような様子もなく、穏やかに流した。
「気晴らしに飲みにでも行くかい?」
きょとんとしたミロは、視線を泳がせてから、思案気に押し黙った。その横顔を眺め、少しばかり年長の彼は、急かそうとはせず気長に待つ。
言われてはじめに浮かぶのが、ここのところずっと頭の中身を支配している男のことだということを、腹立たしいとは思わなくなっていた。というより、それすらミロは意識していなかった。
今晩カノンは来るのだろうか。また飄々と、何食わぬ顔で現れる気もする。だが、最後に見たカノンの顔は、それまでのものとは一線を画しているようでもあって、もう、来ないのではないかとも思える。どちらのカノンも想像ができ、そしてどちらだとしても、自分が釈然としない不満を感じるであろうことにも予想がついた。しかし、どちらだって、ミロにはカノンをどうこう言えはしないのだ。別に、約束があるわけではない。
「どうする?」
双魚宮を目前にして立ち止まったアフロディーテが、ミロに返事を促す。
「……行く」
反射で出した答えに、ミロはほんの僅かだけ後悔した。そんなミロの胸のうちを知ってか知らずか、アフロディーテは柔らかく微笑んで空を仰いだ。今日も聖域の空に浮かぶ雲は、うっすらとした茜色のベールを纏っていた。
「お、やっと来たか。遅せえぞ」
「お疲れ様でした」
アテネ市街の表通りから一本入った路地裏に看板を掲げた店は、繁華街のど真ん中にあるのが嘘のように、ひっそりとした佇まいをしていた。二人を出迎えたのは、この手の場面が似合いの一人と、浮世離れした処女宮の主ほどではないが非常にそぐわない一人。
「ムウよ、もう出歩いても良いのか」
「その言い方では、まるで私が病床に臥せっていたみたいじゃないですか」
にっこり笑った世に唯一の修復師の口は、常に冴え渡る。
「おかげさまで聖衣修復の方は一段落しました。皆さんにはご迷惑をおかけしましたね」
何とも微妙な組み合わせであるが、ムウを誘ったのがデスマスクであるというのだから、分からないものだ。蟹座の男は、意外に気を回す男なのである。
奥の一角に席を占めた二人は、既に大分前から始めていたらしい。ムウの顔色はほとんど変わらないが、デスマスクの絡み方がすでに出来上がっているところを見ると、もう一巡はしたと見える。
「ミロ、お前が出て来るなんてのは久しぶりだな」
ウェイターが運んでくる料理を横目に、ミロはデスマスクが傾けるワインのボトルにグラスを合わせた。
「そうだったか?」
注がれた酒をすきっ腹に流し込み、気のない返事をしてみるが、言われてみれば、そうかもしれない。ミロがこの前街に出て来たのは、もう、ふた月も前になる。まだ、皆が目覚めて間もない時だった。最後に目覚めたのが、カノンだった。まともに口をきいたのは、あの時が初めてだ。
「なんだ? まだしけた面引きずってるのか?」
小突かれてミロは、自分の手が止まっていたことに気がついた。傾いたグラスに、続けて注がれる液体が零れそうになるのを、すんでのところで持ち直し、口に運ぶ。芳香なアルコールの香りが、鼻腔を衝いて漂った。
「すっかり引き籠っているかと思いきや、日本まで行ってきたりで何やってんだと思っていたぜ」
デスマスクは自らのグラスも満たして言った。それに横からムウが口を挟む。
「そうだったんですか? どちらかというと、勢いが有り余っているくらいかと思っていましたけど」
ミロには、そう言われるほどに、カノンの前以外で青筋を立てていた記憶はないのだが、その誰かのせいで、沈殿する暇なく毎日を過ごしていたのも事実である。戦列に復帰したばかりのムウとは、最近顔を合わせる機会が増えていたのに対し、どうにも逃げ切れなくなった女神護衛の任を宛がわれ不在がちにしていたデスマスクと会うのは、確かに久しぶりの事であった。タイプは違うが口は立つ二人に、正面から言い募られては何となく気まずい。ちなみに、デスマスクの女神護衛の顛末は、既にムウとの間で散々やり取りが繰り広げられた後のようで、もういい加減にしろ(ミロはまだ一言も聞いていないのだが)とキレたデスマスクによって、話題にする間もなく即座に打ち切られた。
「大方、カミュの事だろ。お前も慣れねえなあ。あいつが我が道を行くのはいつもの事だろうが」
「今回のシベリア行きは女神のお達しですよ」
「前回のシベリア行きも教皇様のお達しだったぜ?」
「自虐ネタは趣味が悪いからやめて下さい。ミロ、日本では氷河たちに会ったのでしょう。元気にしていました?」
「あいつもカミュとそっくりだよな。無表情な癖に、突然何をやらかすか分からん」
「確かにそういうところは。師弟ともども、自覚はないようですけど」
「得てして本人たちは自覚ねえもんなんだよ。何だってな」
歯に衣着せぬ言い合いが出来るようになったのは、喜ぶべきことなのだろう。口を差し挟む隙もなく、二人の応酬はミロを置き去りにして、弾んでいった。話す役目を与えられない口は、専ら食と呑に使われ、ミロは自然、杯を重ねていった。
もうずっと前のことのように思えた。カミュと氷河。赤と金の師弟は、ミロの大切な二人だ。彼らに対して想い抱いてきたものは、決して一言で言い表せるようなものではなかったけれど、移ろい至った今では、それが分かっていれば十分だ。痛みなくそう思えることが、ミロにはなんだか懐かしく、少し寂しくも思えた。日本での新緑は忘れない。その時感じたことも。あの時背中を押した手が誰のものかも、今でははっきり分かっている。
「でも、そろそろ戻って来るんじゃないですか」
突然、顔を向けられミロが戸惑っていると、デスマスクがすかさず会話をさらっていった。
「聞いてなかったのか。カミュだ。お前、何か聞いてねえのか?」
「あいつは俺に便りなどよこさん」
「薄情な奴だな」
「俺たちには必要ない」
言い切ったミロに、デスマスクは一瞬驚いてから、にやりと笑った。
「分かってんじゃねえか」
そう、これでいい。
親しい友。自分たちのことを何一つ知らない男によってあっさりと名づけられた関係は、言われるまでもなく、ミロとカミュを知る多くの仲間たちが評したそのものである。何も特別なことはない。ただそれが、意外なほどに屈託のない言い様だったものだから。ミロの一方的なものなのではないかという、微かな疑念など、露とも想像しない単純な口調で与えられたその名は、素直にすとんと落ち着いた。
だが、一つのことに答えが出れば、別のことが分からなくなる。親しい友を羨ましいと言った、縁がないとも言ったあの男は、友人としてのミロを必要とすることは、これからもきっとないのだ。それがぽっかりと、塞がったはずの部分に穴をあけた。
しかし改めて、ミロにとってカノンが、友人の範疇に入るものなのかと考えると、それも明らかに違うのだ。
「難しい顔ばかりしていると、頭の中身まで難しくなるものだ」
ふり仰いだ左隣には、それまで静かに飲んでいたアフロディーテの優しげな微笑があった。
「ずっと顔を顰めっぱなしだ。任務中から」
「……もとからこういう面だ」
「確かにね。昔から、よく目の前の事しか見えなくなっていた。随分回りが見えるようになったと安心していたら、やっぱり相変わらずだな。とても、君らしくもあるけれど」
遠い目をして笑うアフロディーテを、ミロはずっと前に見たことがあるような気がした。
「ミロ、覚えておくといい。答えなんて出そうと思って出るものじゃない。後になって、そうだったのだと分かるだけだ」
十三年前の答えを彼らがいつ出したのか、ミロは知らない。でも、もういいのだ。アフロディーテの張り付いていた微笑みは、止まっていた刻を取り戻すように、今は様々な色を表すようになった。作り物ではないそれは、心から美しいと思える、それを知っていれば。
変化とは時に残酷で、時にはとても優しく、ある者にとっては閃光のように鮮烈に、またある者にとっては海流のように緩やかで力強いうねりをもって訪れる。カノンがそうであったように。だから、ミロにとっても。
「帰る」
「おい、ミロ」
低く言って席を立ったミロは、振り向かずにドアの向こうに消えた。
「なんだありゃ?」
「忘れ物を思い出したんだろう」
怪訝そうなデスマスクの脇で、アフロディーテはグラスに近づけた口元をふっと緩めた。彼の薔薇と同じ色をした液体が吐息で揺れ、波紋がたつ。
敏いはずの男が、自分のこととなるとどうしてこうも鈍くなれるのか。器用な男の何とも不器用な頼みごとは、他愛なさ過ぎて貸しにもならない。面白いものが見れた。それがどことなく嬉しくもあったから、気晴らしに飲みたくなったのは私だということにしておいてあげよう。
「まあ、でも必要なかったかな」
アフロディーテは隣には聞こえないように、一人呟いた。
「もうすっかり、頭が一杯じゃないか」
当人たちですらまだ知らない答えの在り処に、一番早く辿り着いていたのは、おそらくはこの薔薇の宮の住人だったのだろう。
刻は、既に深夜である。澄んだ空に満天の星が輝く。廻った酔いに幾分体温の上がった肌が、夜の大気に曝されるのは心地よい。季節の移り変わりを示す風は、ミロの髪をはたいて聖域へと吹き抜けていった。
いつかカノンと二人で歩いた道を、今は一人で歩いている。
夜空に凛と立つ男の、深海を宿す碧の瞳が見ているのは、ミロの知らない世界で、初めてカノンが目の前に立っていることを意識した。その時カノンが言っていたことの半分も分からなかったが、今ならそれが、少しだけ分かる。意図しないでも、誰かにとっては大きな意味を持つこともあると、あいつは言った。傲慢な無知は、時に人を傷つける。自分は何も知らなかった。ミロがカノンに与えたものも、カノンがミロに向ける視線の訳も。でも、知ってしまっている。カノンの瞳に映る己の姿を、カノンの存在を。それを否定することは、もう出来ない。
あの時は、隣にいる男のことを忘れていた。今は、隣にいない男のことが、忘れられない。
下から三番目の宮、そこに差し掛かった時、ミロは言い知れぬ感覚に襲われた。そびえ立つ双児宮の、飲み込まれそうな漆黒を映す奥の闇は、圧倒する虚無と幻想を象徴する。空気は冴え、空は高く、星々は頭上に、柱と天井の白さは抱く闇を際立たせ、季節はもう夏だというのに、体の奥をひんやりとした冷気が駆け抜ける。
此処は誰もいない宮だ。
足を踏み入れる時に感じた背筋を伝う緊張とは裏腹に、双児宮の暗闇は、恐ろしいほど呆気なく終わった。たった今通り抜けてきたぽっかり空いた空洞を振り返り、突如として沸き起こった直感を、ミロは既に確信していた。
この十三年間、此処は無人の宮だった。その守護者たるサガは、遠く上に在る教皇の間から時空を超えて双児宮を守ってはいたが、此処には誰もいなかった。双子座の黄金聖闘士と呼ぶことの出来る人間は、今は二人いるのにもかかわらず、相変わらず此処は不在の宮なのだ。
それはきっと、この宮が、まだ誰のものでもないからだろう。まだ誰も、この宮を自分の在るべき場所として、自らの守護する宮と認め、此処に存在していないからである。
いくら考えても、カノンが双児宮にいた場面を、ミロは思い出すことが出来なかった。存在そのものの不確かさを否定するように、ミロは空虚を睨む眼力を強くした。そんなはずはない。目覚めるまでの一ヶ月、カノンはこの双児宮の奥で、その時を待っていたのだ。かなり遅くまでサガと共に教皇の間に詰めているのが、それほど珍しいことではないことも知っていた。出向かずとも、向こうの方から天蠍宮へやってきていたのだから、此処で会わないのは当然だ。毎日帰っていると言っていた。何より、カノンの行く場所は此処しかないはずなのだから。
だがどうしても、ミロには、カノンが双子座の黄金聖衣を纏って双児宮の前に立つ姿が、思い描けないのだった。
「ミロ?」
立ち尽くすミロの背に、上から、懐かしくさえある低い声が降りてきた。ゆっくりと振り返り、ミロはその姿を目の中に入れた。癖のない長い髪が夜風に揺れている。
「今帰りか」
変わらない姿、何気ない様子で、何事もなかったかのように。
ああ、やはりそうだ。あんな別れ方をしたというのに、どうしてそんな風に平然と笑っていられるのだ。
心の隅に燻った予想通りの不満よりも、安堵の気持ちが大きく広がることが、予想とは違っていた。
「飯は食ったのか」
ミロは、己に向けられた質問には答えず、脈絡もなくぼそりと言った。
「夕刻に軽くな。サガと顔を突き合わせて食うのは、何とも美味くないものだが」
カノンはそう言って笑う。近くまで降りてきたカノンは、しきりと何か話しかけてくるのだが、その声を耳はしかと捉えるのに、内容はなぞるだけで、ミロの中にはほとんど入ってこなかった。表面を覆う端正な顔よりも、浮かぶ表情に目を凝らす。その僅かな動きも、見逃してはいけないように思われた。
カノンがミロの癖を知るようになったのと同じように、ミロにもカノンの笑い方の微妙な違いが分かるようになっていることを、たぶんカノンは知らない。
いくつもある忘れられない顔の一つが、何故あの時のものなのか。サガと双児宮のことを思って見せたカノンが浮かべていたのは、これまで見せてきたどの顔とも違う、複雑な笑顔だった。いつもと変わらぬ笑顔ではあるのに、どこかが違う。分からせようとしないやんわりとした拒絶に、継ぐ言葉を奪われた。今も、その時の顔に、よく似ている。
「サガの奴、一旦のめり込むと人の都合などお構いなしだからな。おかげでこんな時間だ」
やれやれといった調子で軽口を叩くカノンが、いったいいつまで教皇の間に居て、いつごろ天蠍宮に寄り、いつ、出てきたのか、ミロに知る術はない。ミロのことをどれくらい待っていたのか、それとも言葉通りつい先程解放されて、ただ不在を確認してそのまま降りてきたのか。カノンの言葉から知ることは出来なかった。
幼い頃から黄金聖闘士として、自らの居場所に疑問をもったことのないミロは、天蠍宮に一人で居ることを、疑問に思ったことも、寂しいと感じたこともない。だから、いるはずの者のいない場所に、一人戻る時の気持ちを、理解することは出来ない。待ち人が、いつまでも帰らない時の孤愁を、知ることも出来ない。だが、迎える者が在ること、待つ人がいることの意味を教えられた。他でもないこの男に。
責めるはずもなく、恨み言など言うわけもなく、カノンは、未だ馴染まない自宮に帰っていく。
「夕刻からはもう大分時間が経っている」
カノンの脇をすり抜け、ミロは石段に足を掛けた。
「飯くらいなら食わせてやっても良い」
「生憎、今日は何も食材を持ち合わせていないんだが……」
「お前が作っていったものがまだ残っている」
カノンが帰ろうとしている場所まであとほんの数歩、たった今下りてきた方向に、五つの宮をまた上れと、噛みあわせるつもりのない会話がどう聞こえているのか、ミロは考える気にはなれなかった。理不尽で、無茶苦茶で、そんなことは、よく分かっている。
「来るのか来ないのか」
苛立たしげな口調になったのが、まるで駄々をこねる子供のようで、この男の前でそんな態度しかとれない自分に、ミロは唇を噛んだ。
「……行こう」
どういうつもりと言われても、よく分からない。だから、聞かれなかったことに、ミロはほっとしていた。自分でもよく分からないのだ。ただ、この空虚な、誰も迎える者のない、誰も待たない、まだ誰のものでもない無人の宮に、一人で帰らせたくないような気がした。そういうことなのだろう。