第4章 Je t'embrasse(6)


 大方のものは然るべき場所におさまり、実に整頓されたものだった。そのことが、ところどころに残された生活感をかえって際立たせ、無機の冷たさよりも、人の住む温かみを感じさせるのだから、不思議なものだ。
 カノンは、ソファに腰かけたまま、長い腕を伸ばして床に転がっていたクッションを拾い上げ、ポンと脇に置いた。ミロがよく枕にしているそれが、どういった経緯で下にあったのか。八つ当たりでもして投げ飛ばしたのか、寝ぼけている間に落としたのか、想像しているだけでも、カノンは楽に時間を潰すことが出来た。
『お前はそこで待っていろ』
 そう言ってミロが指し示したのは、普段の食卓ではなく、自分がいつも寝そべっているソファの方だった。ソファとクッションと足元のラグ。確かにミロが気に入るのもよく分かる。初めて許可の出た座り心地を堪能しつつ、カノンはカウンターの向こうで屈んで蠢く癖毛に目をやった。カノンのいる時にはほとんど立ち入らないキッチンに、ミロが一人でいるのを見るのは、何だか不思議な気分だった。がたがたといくつもの棚を開け閉めしている様子や、複数の瓶が床に落ちる音が些か不穏ではあるが、ミロがせっかく率先してやろうとしているのだ。手も口も出したくなるのを押さえて、不穏な音が静かになるのを、カノンは待った。
 存外、時間はかからなかった。やがて食糧庫を物色し終えて姿を現したミロは、片方に皿、もう片方にはグラスとフォークを手にしていた。仏頂面で、乱暴にそれらをカノンの前に置くとすぐに、踵を返して戻っていく。皿には数種。パプリカとカリフラワーのピクルス、ひよこ豆の塩茹で、羊の干し肉、ザジキにパン、山羊のフェタチーズ、……要するに全てカノンがミロのために持ち込んだり作って保存しておいたものなのだが、盛り合わせてみるとそれなりの格好がつく。視覚学習の賜物か、見栄えも悪くはない。再びやってきたミロの手には、どこに隠していたのか、コルクを抜いたばかりのワインボトルが握られていた。ミロがどかりと腰を下ろした勢いで、揺れたソファの振動が、直に隣のカノンにも伝わって来た。
「お前の分は?」
「俺はもう食ってきた」
 つまみのようなものばかりとはいえ、明らかにカノンの正面に一皿だけ置かれたことに対する素朴な疑問に、ミロは簡潔に答えた。先ほどカノンが拾い上げたクッションに背を預け、手酌で自分の杯を満たしている。
「食わずに酒だけ飲むと悪酔いするぞ」
「お前のをつまむからいい」
 言うが早いか、皿からチーズを一欠片奪って、口に放り込む。全く行儀が悪い。だが、それすらカノンには微笑ましく思えた。料理をたしなまないミロが盛りつけた皿は、つまりカノンのために用意されたものなのである。
 今日は、初めてづくしだ。どうやらミロが先日のことを気にしているらしいことは、いくら朴念仁だとしても分かるというものだ。言葉には出さないが、彼なりの歩み寄りなのだと思えば、胸中がほんのりと色づいた。もうお前とは飲まないだとか言っていなかったかと、問い質したいことはいくつもあったが、カノンは胸に留め置くことにした。空のグラスで頭を小突くと、ミロは不満そうな顔をしたが、何も言わずに酒を注いできた。
「ここは良いな」
 ぽつりと零れた言葉は、今、思ったこと、そのものだった。
 ミロと天蠍宮と、それに満たされるこの感情の泉が、どこから流れてくるものなのか、正確にはカノン自身も把握しきれていない。
「俺はいなかっただろう」
 カノンを見ずに言ったミロの手が、僅かに握りしめられたように見えた。
「今いるならそれでいい」
 ミロの小宇宙が支配する此処での時間は、決して虚ろに捕らわれることはない。

 笑ったような気配に、何気なく横を向いた先にあったのは、どことなく憂いを帯びた横顔で、穏やかで寂しげな碧眼に、俄かに心臓が跳ねた。
 それは一瞬だったが、確かに見えた。ミロは慌てて顔を背け、手元のグラスを一気に飲み下す。液体の通り道が熱く焼け、全身の体温が上がったかのように感じられた。
 双児宮からここへ来るまでの道すがらも、ずっと考えていた。
 ミロ自身のことが無関係だとは流石に思わない。だが、カノンの天蠍宮への憧憬は――それを憧憬と呼ぶのならの話だが――、満たされない双児宮への裏返しである。双子の星は、二者の両立を許さない一つの座なのか。少なくとも、カノンの中にはその答えがあって、それはおそらく、サガとは違う。
 サガはきっと――。
 喉元まで出かかった言葉を、ミロは何度も飲み込んできた。カノンには、とうに分かっているに違いない。ミロが思うよりも遥かに複雑な想いを、この兄と弟は抱えて生きてきたのだ。微妙で面倒で、不器用な愛情を持て余している双子に、他人が何か言えることなど、きっとありはしない。
 無自覚に心情を晒すくらいなら、見せるなという気持ちと、触れたいと思う気持ちが同時に起こり、同じ強さでせめぎ合う。
 何故か。

「おい、お前そんなに飲んで大丈夫なのか? 既に大分入っているんだろう」
 カノンの苦言は無視されて、三本目の瓶の最後の一滴は、ミロのグラスに吸い込まれていった。頭は重力に引かれ落ちるのを抗うように、膝頭に組んだ手の上で揺れる。
 ミロは、捉えかけている訳を、探そうとしていた。理由は分からないのに、事象だけが積み重なる。答えはすぐ近くにあるようでいて、手をのばすと遠ざかり、目に捕らえようとすると霧散する。くらくらする頭の中には、取り留めもない思考が現れては消えていき、まとまりを欠くのに、記憶に残る情景は、妙に鮮明に再現される。共に過ごした時は、決して長くはない。だが、一つ一つは、確実にその跡をミロの中に残していた。辿る記憶が映し出すばらばらの影絵は、いつしか一連なりになって、逆回りの回り灯籠を形作る。遡る影絵の始まりに在るものは、何か――。
 聖戦の幕開けの、一時の邂逅。
 少しでも気を抜けば圧倒される強大な小宇宙と、血に濡れ、痛みに穿たれながらも怯むことない強固な意志は、真っ向からミロに挑み、そこには、どんな策略も欺瞞も矜持も、何もかもかなぐり捨てた一人の男の真実があった。地を這い、屈辱に頭を垂れても前に進もうとする覚悟がミロを動かし、全力をもって相対さねば、それに応えることは出来ないと思わせた。思った、というのは、正確ではない。直感も思考も全て通り越して、ただ在った。この男の本気に、自らの持ち得るもの、全てで応える。死を与える蠍の心臓が、生命を繋ぐ星に姿を変えた理由は、自分にも分からない。指先に、その男の命の拍動を感じながら、これでいい、と、静かに感じた。
 あの戦いが、後の者たちが美談と噂するような一方的なものだったと、ミロは考えたことはない。紛れもない真剣勝負、罪を断ずることでミロが与えたものが救済だというのなら、ミロが受け取ったものは確かな覚悟、交し合った二人の間には、その場にいた女神でさえも、入ることは出来なかった。
 形も質も、向かうべき先も違う。
 だが、カノンにとって、これが始まりだったというのなら、ミロにとってもまた、そうなのだ。
 迷うなどらしくないと言っていたのは、アフロディーテだったか。いや、もっと前にも似たようなことを聞いた。思い出せ、と。欲しいものは何だと。あれは、いつだ? 言っていたのは、誰だ?
 募るのは焦りばかりで、いくら出そうとしても答えは出ない。頭の中がぐるぐる回り、思考の渦に飲み込まれる。
 俺はどうしたい。何が欲しい。どうすればいい。
 ただ、分かっていることは、この男の胸の奥に、触れてみたいと思っている。

――ふと、頭の中で音が聞こえた。
 天蠍宮の玄関の錠が開く音が、寝静まった夜とざわめき立った心に、重く響いた。ここが、終着点である。ミロは深く息を吸い込み、双児宮からの長い道のりで初めて、カノンを振り返って言ったのだ。
 入れ、と。

 ガツン。
 隣で大きな音がして、カノンはソファから腰を数センチ浮かした。脇を見やると、ミロがガラス製のローテーブルに突っ伏している。テーブルか頭が割れたのではなかろうか、いや黄金聖闘士の頭がそう簡単に割れるわけはないのだから、割れるとしたらテーブルの方かと、くだらぬことを考えながら見ているが、隣の男は微動だにしない。恐る恐る覗き込むようにして、それから、後ろ頭に手を置く。反応を見せないミロの豊かな髪を、わさわさとかき混ぜて、カノンはこぼした。
「お前、散々人のことを警戒しておいて、ここで潰れるのは無防備過ぎやしないか?」
 手の下でミロが僅かに呻く。腕の下に肩を滑り込ませて抱えるように起き上がらせると、ミロは項垂れたまま、カノンに体重を預けてきた。
「ベッドと便所、どちらがいい?」
「……便所」
 全く色気のない返答を返してきた男を、お望み通り便所に叩き込んでやって、カノンは入口付近の壁に背をもたせかけて待つ。しばらく後に多少落ち着いた顔を見せたミロに、グラスに注いだ水を渡してやると、無言で受け取り飲み干していた。我ながら甲斐甲斐しいなと思う。おそらく一人で寝室まで辿り着けそうな様子ではあったが、無理やり手を貸してやると、敢えて抵抗はしてこなかった。

 とりあえずシーツの間にミロを押し込んでから、カノンはベッドの端に腰を下ろし、深く息を吐いた。
 ミロの寝室は、他の部屋と同様、簡素で飾り気がなかった。殊の外大きなベッドが存在を主張しており、ベッドの大きさには拘りがあるらしいことがすぐに知れて、ちょっとおかしい。脇には木製のサイドテーブルに傘型のライト。意外なのは、比較的大きな書棚が、寝室の広い場所を占めていることだった。カノンが腰かけている位置からは、内容まで見ることは出来なかったが、種々雑多な大きさの書物が、乱雑にではあるがぎっしりと並べられていた。飯が出来上がるのを待つ間も、そういえばよく本をめくっていたなと思い出しながら、カノンは当の持ち主の方へ視線を滑らせた。今は布団に埋もれて、柔らかい猫毛が僅かにシーツの端からはみ出て見えるだけだ。
 酔っ払いを相手にしても仕方がない。カノンは眉尻を下げ、諦観の表情を作る他なかった。全く人の気も知らないで、とも思う。付け入る隙を見せる方が悪いと言えば悪いのだが、先だってカノンは既に似たようなことをしている。意図を示すのは一回で十分だ。どこまで自分の我慢が続くか分からないが。
 もう一度深々と溜息を吐き出して、カノンが立ち上がろうとした時、不意に後ろから手を引かれた。いつの間に、どうやって掴まれたのか。ミロの右腕はシーツから抜け出し、ほんの指先だけでカノンの手を捕らえていた。微かに引き寄せる、その力に導かれてベッドに沈むミロの顔を覗き込むと、しっかりと開かれた大きな青い目が、カノンを見上げていた。
「別れの挨拶はしていかないのか?」
 緩慢な口の動きは、スローモーションでも見ているかのようで、目の前で起こっていることのはずなのに、まるで現実感がない。カノンは金縛りにでもあったかのように動くことが出来ず、見上げてくる瞳を凝視するだけだった。手を握る指先にぐっと力が込められて初めて、カノンははっと我に返った。
 弾かれたように乗り上げ、中央の膨らみの上に覆いかぶさると、かけた体重の重みでベッドがぎしりと軋む音がした。吸い寄せられるように顔を近づける。青い双眸が、目の前でゆっくり閉じられるのを、カノンは見た。
 息を潜めて静かに口唇に触れる。僅かに隙間を開けてから、確認するようにもう一度。それからなぞるように表面を濡らし、下唇を食む。何度か重ねなおすうちに深くなり、口唇を割って舌を滑り込ませる頃には、カノンは髪の中に差し入れた両手で、ミロの頭をかき抱いていた。入り込んだ舌に迎え入れる舌が絡み、口の中でもつれ合う。カノンの方に入り込んでは来ない。けれど、差し入れられるものを拒もうとはしない。長く深く、確かめ合うような口付けのあと、互いの唾液が混ざり合い紡がれた糸が、離れた口唇の間を繋ぎ、弧を描いて切れた。
「……お前、分かっているのか?」
 やっとのことで言葉を発したカノンを見る目は逸らされず、先ほどと同じように見返してくる。どれくらい待ったのか。沈黙を破ったミロの声は、カノンが思っていたよりもずっとはっきりと、意思に満ちた響きをしていた。
「俺はキスもその先も、許すと言った覚えはない」
 一つ一つの言葉を選び取る。ミロの目はカノンを見詰めたまま、カノンもまた、その瞳に囚われたまま、互いに逸らすことが出来なかった。
「だが、お前にとっては、全部ひっくるめてそういうことだというのなら」
 一呼吸おいて、最後だけ、一度大きく瞬きをして、ミロは告げた。
「俺には止められんのだろう」
 おそらく、自分に言い聞かせるように。
 今度は、どちらからともなく始まったキスは、隠された熱を暴き出すように高まっていった。外目に見えたほど酒の匂いも味もしない舌に、カノンは不意に頭を揺さぶられたような衝撃を受け、徐々に夢中に、溺れていった。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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