お国に女神がおくだりになるきざしは、いっこうに顕れませんでした。けれども、教皇さまのおとりはからいで、お城の行事はあるべきときに、粛々と、淡々と、一分の乱れなく、とり行われました。お国はなにごともなく平和で、静かで、静かで、とてもとても静かに、時が刻まれてゆきました。
 ざわざわと木々が揺らぎ、獣たちが騒ぐ、ある嵐の夜に、お城で赤子の泣き声を聞いた衛兵がおりましたが、それだけでした。同じ夜に、怒声と激しい金属の打ちあう音を、東へ続く深い森の中で聞いた村人がおりましたが、定かではありません。赤子の声を聞いたという者も、森での争いを窺ったという者も、実際には見つからなかったからです。
「昨日の夜は、わたしが門番をしておりました。なにも聞いておりません。もうひとり? いいえ、城の門を守るのはひとりです。これまでずっと、ひとりです」
「うちには、年老いて動けない父と、やはり年老いた母がいるだけです。とても嵐の夜に出歩いたりはできません。わたしは、家でふたりの世話をしておりました。雨風がひどく、寒い夜だったでしょう。腰が痛むと父が申しましたので、温かいいのしし汁でもと思ったのです。森には入っておりません。やめたんです。やめたんです。雨風がひどく、寒かったから。弟? いいえ、わたしに弟はおりません。生まれたときからずっと、この家の息子は、わたしひとりです」
 誰に聞いても、自分ではない、と答えました。口を揃えていいました。
 雲は厚くお城の上を覆い、青空を飛び交っていた鳥たちは、いつのころからか、姿を消しました。民はひっそりとつつましく、息を潜めて暮らし、不満を口にするものは、ひとりもおりませんでした。お国は、時の流れから取り残されたように、かわらず、平和でありました。
 いつの日のことだったでしょう。となりのとなりの、そのまたとなりの、遠い海のお国で、幼い皇子さまがお立ちになったと、風の便りが、伝えてまいりました。兵たちが続々と集い、海は船で埋め尽くされたといいます。中でも、ひときわ大きいはたぶねは、どの船よりもはやく波の上を滑り、まっさきに敵陣を切り裂いたそうです。はたぶねは、ひとりの若き将軍に、率いられておりました。将軍は、頭に海の龍を象った兜をいただき、身には七色に輝く鎧を纏っておりました。風を受ける姿は勇ましく、堂々たる海の覇者と、人々は、誉めそやしました。けれども、将軍の素顔を見た者は、誰もいなかったということです。兜の下からは、更紗のように見事な金の髪が、海風にたなびいておりました。

 それから、十三年の月日が流れました。
 女神のお国は、時の存在さえ忘れ去ったかのように、なにもかわらぬままでした。
 海のお国では、内乱がありました。幼い皇子を傀儡に、まつりごとをあやつっていた簒奪者が地位を追われたとも、どこからかやってきた光り輝く少女が争いごとを治めたとも噂されましたが、確かなことではありません。本当のところは、誰にもわからないのです。
 戦いのさなかに、海龍の兜の将軍は、海神の矛に胸を貫かれて命を落としたと、伝えられました。神の怒りに触れたのか、猛った神から少女を守ったのか、真実は、その身とともに深い海の底へと消え、知られることは、ありませんでした。そうして、忘れられてゆきました。

 カノンが気がついたのは、何日も経った、ある夜のことでした。ざっ、ざざっ、と、近くなり、遠くなる音にあわせて、足先を、冷たい水が、かすめてゆきます。頬に纏わる髪がむずがゆく、思わず、奥歯を噛みしめますと、細かい砂が、じゃり、と音をたてました。注ぐ光に促され、重い瞼をゆっくりと持ち上げたカノンの目の前には、大きな月が、ぽっかりと、夜空に浮かんでおりました。
「生きている」
 カノンは、乾いた口唇で、ぽつりと呟きました。
 浜に打ち上げられたカノンは、まずは、自分が生きていることを、呪いました。潮の香りも、波の音も、カノンには馴染み深く、そして、苦い疼きを伴うものでした。多くの罪を犯しました。海のお国の人々を騙し、他国を侵略し、数多の船を海の底へと沈めてきました。悔恨に身と心が引き裂かれても、失ったものが、還ってくることはありません。たとえ命をもってしても、償いきれるものではないのです。
 昏く沈むうちにも、ひとつだけ、慰めとなることがありました。ものごころついたころから、ずっとカノンの胸に巣食っていたよどみが、今はもう、すっかりなくなっていました。どんなに忘れようとしても、汚泥のように積み重なり、カノンを暴ぶる衝動へと、駆りたてたものでした。洗い流していったのは、温かく懐かしく、とても優しいものでした。海へと落ちる最期のとき、それは、カノンに、忘れていた大切なものを、思い出させてくれました。でも、それも、もはやすぎたことと、カノンは思いました。すべては遅すぎたのです。
 そのとき、頭上で足音がして、カノンは飛び起きました。カノンの身体を動かしたのが、戦士の習性か、生きものの本能かはわかりません。身構えたあとに、カノンは、笑いが込み上げてくるのを感じました。
 どうした。生きていることを悔やみながら、俺の本性は、まだ浅ましく生きたいと願っているのか。
 カノンの自嘲は、長くは続きませんでした。目の前に立つ男の姿に、一瞬で目を奪われたからです。立っていたのは、黄金の鎧を身に纏い、赤く鋭い剣を携えた騎士でした。黄金の鎧は、月の光を浴びて、美しく厳かな輝きを放っておりました。纏う鎧に劣らぬ豪奢な金の巻き髪が、精悍な顔を飾り、腰の近くまでうねっております。カノンのものより幾分濃い金の色味は、大らかな太陽の恵みを浴びた、一面の黄金の稲穂を思わせました。それは、むかしサガと一緒だったころ、物語の中で読んだ憧憬を、カノンの内に呼び覚ましました。お城から離れられないカノンは、見たことがありません。海のお国は不毛の地です。ですから、なにより、豊かな土地を欲していました。もしも、あの金の房が世の中にあるとしたら、きっとこんな色に違いないと、カノンは思いました。
 男が動く気配に、カノンは、はっと我に返りました。
「お前は」
 いいかけて、口籠ります。黄金の騎士から放たれる、凛とした迷いのない覇気は、今のカノンには、眩しすぎるものでした。太陽を携えて現れたその男の瞳は、それでいてなお、今、頭上にいただく月の光よりも、冷たく鋭く、青い光でカノンを貫くのです。
「俺は、黄金の国の騎士、ミロ」
 男は、構えた真紅の剣の切っ先を、まっすぐカノンに向けていいました。
「お前がなにものかは知らぬ。が、返答次第では、生かしてはおけぬ」
 緊張が、身体の芯をつきぬけるのを、感じました。この男は、なにをどこまで知っているのでしょうか。けれども、すぐに、どちらでもかわらぬことだと、カノンは思い直しました。
 どうせ死ぬなら同じこと。あのとき死ぬはずだった命を、ほんのすこし生きながらえただけだ。
 ひとたび決めたらこの男は、躊躇わず、確実に、カノンの命を奪うでしょう。
「いいだろう。殺せるものなら、やってみろ」
 わざと煽るように、カノンはいいました。ミロは、青い眼光をさらに厳しくして、カノンを見据えました。そして、なにも聞かず、よかろう、とだけ答えました。
 大きな月の夜でした。月明かりに照らされた波が、白い飛沫となって砕け、きらきらと輝きを放ちます。思い思いの輝きを散らす星々を従えて、月はただ密やかに、光をたたえておりました。夜空に抱かれた月は、すこしずつ、すこうしずつ、刻が経ち、夜が明けるにつれ、海へと近づいてゆくのでした。
 どれくらい刻が経ったでしょうか。
 まったく動いていないのに、一筋の汗が、つとカノンの眉間から鼻筋をつたい、顎から、ぽたり、と下に落ちました。そのときでした。
 ミロが動いたのを、カノンは感じ取りました。躱そうと思えば、躱せたかもしれません。しかし、カノンは動きませんでした。目を瞑り、その鋭い赤い剣が、心臓を貫く瞬間を待ちました。ただ易きを選んだというわけではありません。贖罪の覚悟の重みを、今のカノンはわかっていました。最後に瞬きの間だけ、頭をよぎったのは、更紗のように流れ落ちる金の髪と、海のように深い青い瞳をした、この世で一番美しい兄の姿でした。カノンの想い浮かべるサガの姿は、今でも以前のままでした。
 鋭い剣が、胸を貫きました。
 臓物のせり上がる感触に、カノンの口から、声にならない音が、漏れ出でました。ガクリとついた膝が、砂に沈む錯覚に襲われました。息がつまり、苦しさに、思わずつかんだ両の手の爪に、砂が深く食い込みます。唾液と胃液のまじったものが、口の端から吐き出され、白い砂の上に、ポタ、ポタ、と落ちて、染みをつくりました。がはっ、とせき込み、新しい空気が胸の奥に吸い込まれてから、ようやく顔をあげたカノンの目には、くるりと背を向けたミロの後ろ姿が映りました。
「なぜ……」
 すでに剣は鞘におさまり、刃を止めたミロの手には、赤い血が滲んでいました。地に伏すカノンを、ミロは肩越しに振り返り、こう答えました。
「お前には、まだ、やり残したことがある。迷いがあるうちに、死ぬことは叶わん」
 カノンを突いた柄頭は、深くカノンの胸の中央に、痕を残しておりました。
「死ぬよりも、生きて為すべきことを為せ」
 そういって、太陽の光をたたえながら、月の光を纏った黄金の騎士は、金の髪を揺らして、足を止めることなく去ってゆきました。さざ波の奏でる音色と、静かな月のすべらかな光の中で、残されたカノンの嗚咽だけが、長く響いておりました。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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