六つの月が沈み、六つの太陽が昇りました。七つ目の偃月のピンとはった弦が、昏い海の懐にすっぽりと飲み込まれてから、世界に、とこしえの夜が訪れました。いくら待っても、太陽は姿を現さず、ひえびえとした闇が、地平線のかなたまで、続いておりました。生きものは、みな息を殺して、静かに眠りについてゆくようでありました。
 身を隠した月は、どうしたのでしょう。海の底にとどめられ、とらわれてしまったのでしょうか。それとも、月に焦がれた海が、空へと還さないのでしょうか。さめざめと泣く海の涙は、雨となって大地を濡らし、太陽も月も失った世界を、ただただ、冷やしてゆきました。
 夜を駆け抜けるカノンは、急がねばならぬ、と思いました。これはただの夜ではない。常夜の国が、すぐそこまで迫ってきているのだ。
 幼いころ、老いた教皇さまから、繰り返し、いい聞かせられたお話を、カノンは覚えていました。いにしえのころより、女神さまの治める豊かな大地を狙う闇の国の王は、抜け目なく、その隙を待ち構えてきたのです。海のお国で顕れた光のきざしに気づき、そのうごめく手を、のばしてきたに違いありません。
 カノンには、生きて為すべきことがなにか、わかっているわけではありませんでした。ですが、あの光は、けっして失われてはならぬ光なのだと、それだけははっきりと、確かに、かたく、信じていました。
 常夜の国は、悪い妖精たちの巣窟です。人の心に忍び込み、惑わそうと、陰からじっと、見つめてきます。ひとたび、まやかしの魔法にかけられれば、闇に閉ざされた世界を死ぬまでさまよい続け、生きて地上に出ることは叶いません。
 カノンは、惑わされませんでした。人の心の弱さと醜さと浅ましさを、カノンは、身をもって知っていました。しかし、同時に、強さと優しさと愛おしさがあることを、教えられたのです。もう二度と、惑わされはしない。そう心に誓っていました。
 道程のなかばで、カノンは、海のお国で少女を守った少年たちを助けました。彼らは魔法にかけられ、少女は地の底のさらに奥深くへ、連れ去られたあとでした。常夜の国の王は、狡猾で、とても用心深く、歳も風貌も性別も、誰ひとりとして、知る者はおりませんでした。ときには、老いた病人の姿になり、あるいは、無垢な子供の姿で現れました。それを見破るには、彼らは純粋すぎたのです。
 カノンは、彼らに、むかし教皇さまから伺った、女神さまの鎧と矛のことを、伝えました。女神さまをお守りする衣と、闇を払う矛は、常に、女神さまとともにあります。しかし、幼くしてお国を去ることとなった女神さまは、顕わす術をご存じありません。それさえあれば、どんなに大きな深い闇であっても、打ち払えるはずなのです。
 カノンは、襲い来る妖精や怪物たちを引き受け、彼らを少女のもとへと、急がせました。光ない世界をひた走り、黒い河を渡り、咲き乱れる眠りの花の園をぬけ、八つの渓を越え、凍てついた湖をすぎたところで、大きな門にたどりつきました。かくりよの門と記された絶壁は、天にもとどくほど高くそびえ立ち、あらゆるものを拒んでいました。
 門の前には、一匹の巨大な竜が、待ち構えておりました。ここの門番です。こうもりのような翼は、広げると、人の何十倍もの大きさになります。全身はびっしりと鱗で覆われ、黒く光っています。長い蛇の尾の先には、矢尻のような鋭い刺が備えられ、ゆらゆらと不気味に揺れていました。一対の脚は鷲の爪をもち、捕らえた獲物を逃さないでしょう。赤い舌の脇からは、炎がちろちろとくすぶっているのが、見えました。
 鋭い眼力が、ぎょろりとカノンを見ました。カノンはとっさに身を翻し、木陰へと潜めました。一瞬遅ければ、やられていたでしょう。竜が振った翼の一振りは、竜巻を起こし、周囲の木々を根こそぎなぎ倒してゆきました。風圧でぱっくりと切れた右腕から、赤い血が、どくどくと流れ出します。
 ただで倒すことはできぬ。カノンは、すぐに覚悟を決めました。翼竜は、執拗に、カノンのあとを追ってきます。血のにおいを嗅ぎ別けて、カノンの居場所をつかんでいるのです。カノンは、木々の間をすり抜け、紙一重のところで、翼竜の攻撃をかわしてゆきました。つかず離れず、注意深く、翼竜の動きを見極めます。たった一撃、竜の急所に、剣を突き立てることができれば、すべては終わるのです。
 怒った翼竜の攻撃は激しさを増し、叩きつけられた尾で地面は割れ、振り回される翼で大気は切り裂かれます。口から吐く炎は、灼熱の黒龍となって、あらゆるものを焼き尽くしてゆきました。
 ついに、翼竜の爪がカノンを捕らえ、鎧が空へと投げ出されました。すかさず、振り下ろされた尾の一撃で、鎧はぺしゃんこに叩き潰されてしまいました。しかし、どうしたことでしょう。カノンの身体は、どこにも見当たらなかったのです。
 そのとき、高い木の上から、竜の背中に飛び乗るカノンの姿がありました。纏っていた鎧を脱ぎ捨て、麻布の服を身につけているだけでした。カノンは、自分の血を鎧になすりつけておいたのです。逃げ回るふりは、周囲に血のにおいをふりまき、竜の嗅覚を惑わすためでした。竜は、まんまと、カノンを見失っていたのでした。
 身軽になったカノンは、翼竜の背中を素早く駆け上がり、かけ声とともに、頭部へととりつきました。両手はしっかりと竜の頭を抱え、後ろから両脚で首をぎりぎりと締め上げます。翼竜は、カノンを振り落とそうと、がむしゃらに暴れまわるのですが、カノンは竜と自分の身体が離れないように、鎖でしっかりとくくってしまいました。
「さあ、これで、お前とわたしは、一蓮托生だ。ともに地獄に落ちてもらうぞ」
 そういって、懐から取り出した剣を、竜の頭に、あやまたず突き立てました。狂った怪物は雄たけびをあげ、黒炎を口から吐き出しました。火の粉が身体に降りかかり、皮膚をやいてゆきます。けれど、カノンは、竜を捕らえた腕を、けっして緩めませんでした。青い血しぶきが、音をたてて吹き出しました。竜ののどもとでくすぶっていた炎が、一気に燃え上がります。もう一押し、ぐっと力をこめて、カノンは剣を深く押し入れました。それが、とどめでした。
 上空で絶命した竜の躯が、さあっと冷え、まっさかさまに、落ちてゆきます。カノンの視界は、白くかすんでゆきました。身体を覆う火炎が、まるで、温かい光のようです。カノンの頭の中では、海のお国で、光をいただいた少女が呟いた言葉が、鳴り響いておりました。
『わたくしは、わたくしを待つ国と民のもとへ、戻らねばならないのです』
 決意をこめた声を、カノンは忘れないでしょう。なぜなら、カノンは、待ち望む多くの民のひとりに、相違ないのです。そして、カノンよりも、ずっと前から、深く、深く、あの少女を待ち焦がれている者が、かのお国には、いるのです。
 カノンは、薄れる意識の中で、生きながらえた命に意味を与えた黄金の青いまなざしを、ふと、思い出したような気がいたしました。
 そこで、ぷつりと、カノンの意識は途切れました。

***

 ざっ、ざざっ、と、寄せては返す波の音が、すぐそばで聞こえました。潮の香りが鼻をかすめます。足先には冷たい水、口に入った砂からは、懐かしい潮の味がいたします。カノンは、ゆっくりと、目を開きました。そこには、満ちた月が、優しい光をたたえて、浮かんでおりました。
「また、生きている」
 月を見上げ、カノンは、はじめて、美しいと思いました。月を眺めたことなど、生まれてこのかた、なかったのです。
 大の字にのばした身体からは、すっかり力がぬけています。徐々に、五感が戻ってくるにつれ、じりじりと、鈍い痛みが襲ってきました。刻を忘れた世界では、どれくらい時が経ったのか、定かではありません。けれども、月が空に還ってきた世界では、夜が明ければ、ふたたび太陽が昇るのでしょう。
 カノンは、きしむ身体を起こしました。ぱっくりと割れた右腕は、血こそ止まっていましたが、じゅくじゅくと、生々しい傷跡を残しています。日に焼けた皮膚は、さらに火傷でただれ、雪のように白かったむかしの面影は、少しもありません。更紗のようだった髪は、焦げて、先がちぢれています。我ながら、ひどいありさまだと、カノンは笑いましたが、恥ずかしくはありませんでした。胸の中央に触れてみると、まだ、剣の柄でくぼんだ痕が、残っていました。すべて、カノンが生きてきた証でした。やがて、傷は癒え、痕が消え去っても、カノンの心には、刻み込まれた誇りとして、残ってゆくものです。
 生きよう、とカノンは思いました。それから、ふと、首を傾げました。生に悔いはありません。あと、いったいなにを為そうというのでしょう。しばらく考えてから、カノンは立ち上がりました。もうひとつだけ、やり残したことがあったからです。
 カノンが振り返ると、そこには、深い森が広がっていました。森を越えた向こうには、お城が、小さく見えました。静まりかえったそのお城は、むかしとかわらぬままでした。カノンは、生まれたお国の、お城のそばの森へ、たどりついていたのでした。

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Open 2012.5.28 / Renewal 2015.11.22
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